第39話 城の現状
誠一と静は、薄暗い洞窟の通路を無言で進んでいた。
迷宮の底に漂っていた「概念的な死」の気配とは違う、焦げた臭いや鉄の匂い。
生きている人間が放つ剥き出しの焦燥感が、湿った風に乗って運ばれてくる。
やがて、行く手に堅牢な鉄格子が見えてきた。
半年以上前、召喚されたばかりの静が無情に放り込まれた地下牢の入り口だ。
「……誰も、いませんね」
静が格子越しに外の通路を窺うが、本来そこにいるはずの見張りの兵士どころか、人の気配すらない。だが、迷宮で極限まで研ぎ澄まされた誠一の五感は、より深刻な異変を捉えていた。
(……揺れているのか、この城は?)
微かだが、天井からパラパラと古い石粉が落ちてくる。
頭上の分厚い石材を通して伝わってくるのは、ドスン、ズズンという腹に響く鈍い振動。そして、遠くで何かが爆ぜるような乾いた破裂音。
明らかに、ただ事ではない。
「どうしますか、小山内さん?」
「……上で何かが起きている。このまま看守が来るのを待っている余裕はなさそうだ。強引に出よう」
二人は顔を見合わせ、深く頷きあった。
格子を抜けて漏れ聞こえてくるのは、断続的な悲鳴と、獣の咆哮。
どうやらこの城は今、外部からの大規模な襲撃に晒されているらしい。
***
誠一は、腰に差した二本の刀のうち、白い柄の『白兎牙』の柄にそっと手をかけた。
狭い通路や室内での乱戦ならば、長大な『黒牛角』よりも、神速の振りを可能にするこちらの方が理に適っている。
親指で鍔を押し上げる、微かな鯉口の音。
誠一は肺の奥まで空気を吸い込み、魂の底からスキルを起動させた。
「――《斬鉄》」
銀閃。
言葉すら置き去りにする一閃が空を切り、金属が悲鳴を上げる暇さえ与えなかった。極厚の鉄格子が、まるで熱したナイフを通されたバターのように、抵抗なく両断される。
カアン、と乾いた音を立てて、太い鉄の棒が地面に転がった。
「……っ。凄いですね」
魔力による破壊ではなく、純粋な「剣技」によって無機物を断ち切ったその神業に、静は感嘆の声を漏らした。
その真っ直ぐで熱を帯びた眼差しをまともに受け、女性に褒められ慣れていない誠一は、不意を突かれたように頬を微かに赤らめた。
「さ、さあ……上に行こうか。今は一刻を争う」
「はいっ」
本来なら自分たちは脱獄犯だ。
静は一瞬、かつて味わった抑圧的な視線を思い出して肩を縮めたが、前を行く誠一の背中には少しの迷いもなかった。彼はすでに、この混乱の中で自分たちが為すべきことを、その剣と共に定めているようだった。
誠一はリュックのベルトを握り直し、地上へと続く石階段を影のように滑らかな動きで駆け上がった。
***
重い木扉を蹴り開け、城の一階部分へ踏み込んだ瞬間、むせ返るような強烈な鉄錆の臭いが鼻を突いた。
生命が急速に失われていく、生々しい血の臭いだ。
「……っ、これは……」
そこは、もはや豪華な城の内装など意味をなさない「地獄」の様相を呈していた。
普段は誇り高き騎士たちが詰め所にしているであろう広い廊下が、急造の野戦病院へと成り果てている。
壁沿いに座り込み、真っ赤に染まった包帯を押さえてうめき声を上げる兵士たち。腕を失い、焦点の合わない目で宙を見つめる若者。
僧侶や救護兵たちは血相を変えて走り回り、その靴音は床に広がった血溜まりを叩いて跳ね上げていた。
「おい、ポーションの予備が尽きたぞ! 早く持ってこい!」
「第三部隊が全滅だ! 正門のバリケードがもう持たない、予備兵を出せ!」
地下牢から突如現れた誠一と静に気づく者もいたが、その瞳には咎めるような気力すら残っていない。ただ、縋るような絶望の色が、誠一たちの姿を虚ろに追うだけだった。
「ここまでとは……」
誠一は強く奥歯を噛みしめた。
城の深部、それも一階の奥まった場所でこの惨状。
ならば、この城を囲む城下町は今、どのような煉獄に叩き落とされているのか。想像するだけで、背筋に冷たい氷が走る。
(俺たちが迷宮という『異界』にいた半年間で、一体何が……)
だが、今は立ち止まって戦慄している場合ではない。
「俺は助太刀に行く。神代さんは、俺の後方に。絶対に離れないでくれ」
「は、はい! 分かりました!」
静の顔色は蒼白だが、その瞳に宿る意志の光までは消えていない。
負傷兵の山に動転していたが、すぐに気を取り直す。彼女には、地獄そのものである迷宮を生き抜き、血に塗れた現実を受け入れてきた「経験」がある。
「行くぞ!」
誠一は戦闘の騒音と、魔物の咆哮が最も激しく響く方向――
城の正門ホールへと狙いを定め、弾かれたように駆け出した。
***
正門ホールは、まさに決壊寸前の戦場だった。
入り口に築かれた机や木箱のバリケードは、巨大な暴力によって粉々に粉砕され、そこから雪崩のように醜悪な魔物の群れが侵入していた。
ゴブリンの上位種、鋼の牙を持つ巨大な狼、凶暴なオーク。
数多の魔物が、防戦一方の疲弊した兵士たちをなぶり殺そうと爪を立てている。
「グギャアアアアッ!」
「くそっ、キリがねぇ!」「次から次に、湧いてくる」「もう、無理だ……」
一人の兵士の剣が弾き飛ばされ、オークの鈍色の斧がその脳天を割ろうとした、その刹那。
「――《抜刀術》」
風すら追い越す速度で戦場の中心へ割り込んだ誠一が、兵士の眼前でオークの巨躯を、首ごと一文字に刎ね飛ばした。
「……え?」
兵士が何が起きたのか理解する間もなく、誠一はすでに次の獲物へ、そのまた次の獲物へと視線を飛ばしていた。
「まずは、数を減らす」
《空波斬》を連射。
白兎牙を一閃するたびに、不可視の真空刃が扇状に広がり、群がっていた小型の魔物たちをまとめて肉塊へと変えていく。血煙が舞い、床を打つ雨のように鮮血が降り注ぐ中、誠一の動きは止まらない。
《瞬足》を発動。
彼の輪郭がブレて消失する。
次の瞬間には、乱戦の中に取り残されていた兵士の背後に現れ、襲いかかろうとした大狼を、逆手の斬撃で一撃のもとに沈めていた。
味方の射線を一切塞がず、最も危険な敵から順に排除していく。
迷宮での二十六年と、この半年の死闘で磨き上げられた冷徹なまでの判断力。
そして、人智を超えた身体能力。
「グルルルゥ……ッ!」
広間の中央で、兵士数人がかりの包囲網を嘲笑うように暴れていたオーガが、誠一を最大の脅威と認識して咆哮した。
丸太のような腕で棍棒を振り上げる怪物。
だが、誠一の瞳には、《弱点看破》による真っ赤な光点が、オーガの胸元に鮮やかに浮かんで見えていた。
「――遅い」
暴風のような棍棒の一撃を、わずか数ミリの差でかわし、誠一は懐へと滑り込む。流れるような逆袈裟の白刃が、オーガの強靭な胸筋を紙のように裂き、その心臓を確実に貫いた。
ドズゥゥゥゥン……。
地響きを立て、ホールの「主」であった巨獣が事切れる。
誠一がこの戦場に姿を現してから、一分。わずか六十秒という時間で、広間を埋め尽くしていた絶望の群れは、全滅していた。
シン……と、不気味なほどの静寂がホールに降りる。
パンパンに詰まったリュックを背負ったまま、汗一つかかずに二振りの刀を帯び、血糊を払う黒髪の中年男性。
そのあまりに異質な光景に、兵士たちは武器を構えることさえ忘れ、ただ呆然と立ち尽くしていた。
『……なんだ、あいつ』
『嘘だろ、あのオーガを一撃で……?』
『冒険者か? いや、あんな男は見たことがないぞ……』
畏怖と戸惑いを含んだざわめきが、さざ波のように兵士たちの間に広がっていく。誠一はカチャリと白兎牙を鞘に納め、残党がいないか鋭い視線を周囲に走らせた。
その時。
静まり返った兵士たちの輪を左右に割り、一人の男が重々しい足取りで歩み出てきた。




