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第38話 願いの成就

 誠一が二本目の刀、漆黒の『黒牛角』を腰に帯びた、その直後のことだった。


 ズズズズズ……ッ!


 迷宮の最深部を揺らす、重苦しい地鳴りが響き渡る。


 かつて二十六年前――

 誠一が単独でこの試練を乗り越えた時と全く同じ、因果が書き換わる予兆。


「――来る。掴まって、神代さん!」


 誠一が咄嗟にその手を掴むのと同時に、二人の周囲から物理法則が消失した。


 凄まじい浮遊感。

 超高速のエレベーターで一気に成層圏まで引き上げられるような、あるいは内臓だけが置いていかれるような強烈な圧迫感。視界の端で、迷宮の暗闇が光の筋となって後方へ流れていく。

 

 数秒とも、永遠とも感じられる時間の断絶を経て。

 ドンッ、と足裏に確かな硬い感触が戻った。


「……っ、ここは」


 静は激しい目眩に襲われ、よろめきながら周囲を見渡した。


 鼻を突くのは、懐かしい湿った土の匂い。

 肌を撫でるのは、迷宮深層の不気味な熱気ではなく、あの始まりの場所の冷たい空気。そこは、彼女が絶望の中でうずくまっていた、地下牢の最奥だった。


 目の前には、あの時と同じように、神々しくも不気味な光を脈動させる巨大な石が鎮座している。振り返れば、ボス部屋の入り口に置いてきたはずの、生活感の滲んだリュックが二つ、無造作に転がっていた。


「……戻ってこれたようだな」


 誠一の声には、死線を越えた者特有の安堵が滲んでいた。


 だが、静の意識は目前の巨石に完全に釘付けになっていた。

 石は生き物のように、淡く、怪しく明滅を繰り返し、静の魂の奥底へ直接、音のない声を叩き込んでくる。


『――汝は試練を乗り越えた。……よって、その願いを叶えよう』


 頭蓋骨の内側で反響する、性別も年齢も判別できない無機質な響き。


 カッ!

 巨石が激しく瞬き、静の視界を真っ白に染め上げた。



 ***


 白い光の濁流の中で、静は「とある映像」を見た。


 それは走馬灯ではない。

 これから起こることになる未来の映像。


 迷宮の石が因果の糸を紡ぎ直し、現実へと縫い付けようとしている残酷な真実だ。


 場所は、現代日本の、ありふれた高校の一室。

 チョークの粉の匂い。使い込まれた木の机。窓から差し込む平和で退屈な陽光。


 そこには、彼女がいた。「日置佳乃」。


 静の家族を無残に焼き殺した張本人が、何食わぬ顔で、友人たちと笑いながら午後の授業を受けている。


 だが、それもこの日まで――

 彼女はこの日、放課後の帰り道で警察に任意同行を求められる。

 その後、日置は日本の法律に基づき、更生を促されることとなる。


 本来、彼女が辿るはずだった未来。

 それが強制的にキャンセルされた。


 授業中、教室の中央にどす黒い魔法陣が出現した。

 悲鳴を上げる間もなく、日置の身体は闇に飲み込まれ――次の瞬間、彼女は異世界の、血と汚物に塗れた冷たい石室に転がされていた。


「成功だ……! 奇跡が起きたぞ!」

「ついに、高位の異界人を、最高の『触媒』を召喚できたか!」


 歓声を上げるのは、奇妙なローブを纏った男たち。


 魔王崇拝を国教とし、その復活のためなら如何なる非道も厭わない魔道士たちだ。彼らは魔王復活に必要な「生贄」を欲していた。そしてついに、渇望していた「膨大な魔力を秘めた異世界人」を手に入れたのだ。


 ――日置は拘束され、魔法陣の刻まれた祭壇に括り付けられた。


「さあ、恐怖を、絶望を捧げよ。その負の感情こそが、我らが王の最良の糧となる」


 そこから先は、言語を絶する地獄だった。


 拷問吏が日置の指を、一本ずつ、骨が粉々に砕けるまで丁寧に潰していく。

 絶叫が部屋中に響き渡る中、傍らに控えた魔術師が、ジョーロのような奇妙な魔道具を彼女の胸に突き立てた。


 溢れ出す苦痛、恐怖、怨嗟。それらを含んだ高濃度の魔力が、ジュルジュルと音を立てて容器に吸い上げられていく。


 意識が飛びそうになれば、熟練の医療班が最高級の回復魔法をかける。

 砕けた骨は繋がり、剥がされた皮膚は瞬時に再生する。


 ――激痛の記憶だけを、その神経に鮮明に残したまま。


 死ぬことは決して許されない。魔王復活に必要なエネルギーが満ちるその日まで、壊しては治し、治しては壊す。


 終わりのない、あまりに「生産的」な責め苦。



 ***


「あ、あぁ……っ、うぅっ……!」


 光が収まり、現実の冷たい床に膝をついた静は、激しい胃液のせり上がりを感じて口元を押さえた。


「……これが。……これが、私の望みだっていうの……?」


 あまりにも、残酷すぎた。


 静が胸に秘めていた復讐心は、「罪を償わせたい」「同じだけの苦しみを」という、人間的な怒りだったはずだ。


 だが、この迷宮の石は違う。

 静の深層心理に沈殿していたドロドロとした憎悪の澱だけを抽出し、一切の倫理や慈悲を排除して、「最も効率的かつ凄惨な復讐」として勝手に最適化したのだ。


(ざまあみろなんて、一ミリも思えない。……こんなの、ただの悪夢じゃない……!)


 静の全身は、止めることのできない震えに支配されていた。

 だが、その震えを戦慄へと変えたのは、映像の最後に見えた「必然の帰結」への気づきだった。


(待って。あの儀式が完遂されて、魔力が満タンになったら……。この世界に、魔王が……本物の怪物が蘇る)


 この復讐劇が幕を閉じた時、副作用として世界は破滅の炎に包まれる。


 自分を救い、共に戦ってくれた誠一までもが、その戦火に呑み込まれてしまう。

 それだけは、なんとしても阻止しなければならない。


「……大丈夫か、神代さん。顔色が酷い」


 誠一の太く、落ち着いた声が、混濁する意識を強引に現実へと繋ぎ止めた。

 顔を上げると、誠一が心配そうな瞳で自分を覗き込んでいる。


 その無垢な信頼が、今の静には何よりも痛く――

 そして救いだった。


 静は、震える膝を意志の力だけで抑え込み、立ち上がった。


「……小山内さん。申し訳ありません。私の……私の身勝手な願いのせいで、とんでもないことが起きようとしています。……魔王が、復活してしまうかもしれないんです」


 静は誠一の瞳を凝視し、掠れた声を絞り出した。

 

「あの子を救いたいわけじゃないんです。でも……こんな形で世界を壊すのは、絶対に間違ってる。魔王が、あの怪物が蘇る前に、あの場所を見つけ出して儀式を止めたい。……どうか、もう一度だけ、私に力を貸してください」


 巨石は因果を捻じ曲げ、10カ月前の過去から日置佳乃を「今」この時代に召喚した。彼女の拷問が始まるのは、今日からだ。


 今から動けば、魔王復活を止められるかもしれない。


 それは、身勝手な懇願だ。


 誠一をさらなる戦火に、今度は世界規模の争いに巻き込もうとしている。

 だが、誠一は静の蒼白な顔をじっと見つめた後、迷うことなく深く頷いた。


 理由の詳細も、事の真偽も問わない。

 ただ、目の前の少女が自分を必要としている。


 誠一にとって、行動を起こす理由はそれだけで十分だった。


「わかった。……行こう。俺たちの戦いは、まだ終わってないみたいだな」


 迷いのない、力強い返事。

 誠一は無造作に転がっていたリュックを背負い直し、地上へと続く出口の方角へ足を向けた。


 二人は並んで、地下牢の暗闇を歩き出す。

 その背中には、迷宮に潜る前のような「縋るような絆」ではなく、互いの業を背負い、共に運命を切り拓くという、重く、確かな覚悟が宿っていた。

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