第37話 虚空断章
静の視界の端で、ステータスウィンドウが狂ったように警告を発していた。
スキルツリーの奥、光も届かない深淵の領域。
そこには、普段はグレーアウトして触れることさえ禁じられている、赤黒く脈打つアイコンが存在していた。
――禁忌魔法:【虚空断章】。
それは、この世界の秩序を司る「光と闇の竜神」すら恐れ、歴史の表舞台から抹消されている混沌の断片。
人の身で触れれば、その魂は千々に引き裂かれ、存在の根源すら消失しかねない最上位の神威。
視界を埋め尽くす「警告(WARNING)」の文字が血の色に明滅し、静の網膜を焼き焦がす。
だが、静の瞳に迷いの色は微塵もなかった。
視線の先では、誠一が脂汗を流し、一瞬の油断も許されない絶望的な持久戦を繰り広げている。二十六年を捧げて得た力で、誠一が自分のために戦ってくれている。
ならば、自分が彼を救うために魂の一片を捧げるのは、あまりに当然の対価だと思えた。
(力が欲しい。……小山内さんを助けるために、敵を消し去るための力が!)
静は意を決し、震える指先でその脈打つアイコンを力強くタップした。
瞬間、心臓を氷の巨人の手で鷲掴みにされたような凄まじい悪寒が走り、血管という血管をドロドロとした冷たい泥が逆流していく感覚に襲われる。
彼女は溢れ出す「無」の波動に突き動かされるように、死闘の渦中へと飛び出した。
「下がって、小山内さん!」
悲鳴に近い叫び。
誠一がその声に反応して跳躍するのと同時に、静はスキルの有効射程内で立ち止まり、その小さな唇を戦慄かせる。
世界から色彩が剥ぎ取られていく。
周囲の音がふつりと消え、松明の炎さえも動きを止める。彼女の口から紡がれるのは、冒涜的な律動を伴った詠唱だった。
「――始まりの深淵、星々のたゆたう大いなる虚空。我が声に応え、その姿を現せ。……偉大なる汝を崇め奉る我に仇なす不遜な輩に、鉄槌を。すべてを無に帰す暗黒の裁きを。……我が声に応えよ、断罪の漆黒」
詠唱完了。
ズズズズズ……ッ!
重苦しい地鳴りと共に、ダークミノタウロスの頭上の空間が、断末魔のような悲鳴を上げて「裂けた」。
それは闇ではない。
光すら存在を許されない、完全なる『無』の亀裂。
裂け目から溢れ出したのは、ぬらりとした黒い液体。
それが意志を持つように形を変え、無数の、節くれ立った細長い「黒い手」となって垂れ下がった。
***
誠一と激しい剣戟を繰り広げていたダークミノタウロスが、不自然に動きを止めた。あれほど獰猛だった獣の瞳から、一瞬にして戦意と理性が消え失せる。
最下層の王として君臨していた怪物は、まるで叱責を待つ幼子のように、ゆっくりと頭上を仰ぎ見た。
(なんだ……あれは。何が、起きているんだ……?)
誠一の背筋を、氷を這わせるような本能的な警報が駆け抜ける。
「あれ」に触れてはいけない。
見てはいけない。
生物として、種としての存続を望むなら、決して関わってはならない高次元の存在。誠一は攻撃の手を止め、脱兎のごとく後方へと全力で距離を取った。
一方、ダークミノタウロスはその場から一歩も動かなかった。
いや、動けなかったのだ。
頭上に顕現した「大いなる存在」に対し、背を向けること、あるいは抗うこと――その思考自体が、許されざる『不敬』であると魂の芯まで理解させられていた。
圧倒的な存在格の差。
神に睨まれた虫がそうであるように、怪物は戦斧を取り落とし、ガタガタと膝を震わせながら自らの処刑を受け入れた。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ――。
裂け目から伸びた無数の黒い手が、音もなく殺到する。
鋼鉄をも弾くミノタウロスの皮膚も、山のごとき筋肉も、この力の前には無意味だった。
手は水面に沈む石のように、ぬるりと、抵抗なく怪物の巨体へと侵入した。
それは、物理的な「破壊」ではない。
存在そのものを透過し、世界の理から強制的に引き剥がす「抹消」だ。
「あ、ぅ……、ぁ……」
怪物が、初めて弱々しい喘ぎを漏らした。
体内に入り込んだ無数の指が、心臓を、魔石を、その個体を「ダークミノタウロス」たらしめている核を鷲掴みにした。
ブチブチブチッ!!
広間に響いたのは、濡れた布を引き裂くような不快な音。
黒い手は、握りしめた「不可視の中身」と共に、ゆっくりと上昇を始めた。
体内から存在意義そのものを引きちぎられる激痛。それでも怪物は抵抗できず、白目を剥いて痙攣しながら、自分であったものが吸い込まれていくのを見送るしかない。
やがて、手は裂け目の向こうへと戻り、空間の断層はプツンと消失した。
最初から何もなかったかのように。
ドサァッ……!
後に残されたのは、抜け殻のようになったダークミノタウロスの巨体だけだった。
全身には無数の風穴が空き、向こう側の景色が虚しく透けて見えている。
そこから溢れ出す、おびただしい量の血。
だが、あれほど驚異的だった再生能力は、もはや一切発動しなかった。
『断罪の漆黒』によって奪われた部位は、この世界の因果律から完全に切り離されたのだ。回復という概念すら適用されない、絶対的な欠落。
静寂が戻った広間で、絶対強者だった怪物は、一滴の魔力も残さず絶命していた。
「……終わった、のか」
誠一は慎重に歩み寄り、微塵の生命反応もないことを確認した。
あまりにも一方的な、そして「正解のない」結末。
彼は静へと視線を送った。
彼女は激しく肩で息をし、顔色は蒼白だったが、それでも気丈にこちらを見つめ返していた。その瞳に正気が宿っていることに、誠一は心底安堵した。
「(スキル……劣化交換)」
誠一が亡骸に触れると、巨大な獣の遺体が淡い光の粒子となって分解されていく。
二十六年間、一度も見たことのない規模の再構築。骨が、肉が、魂の残滓が凝縮され、やがて一振りの武器となって実体化した。
カラン、と乾いた音を立てて床に落ちたのは、黒塗りの鞘に収まった一本の刀だった。
「『黒牛角』……」
鑑定を待たずとも、その銘が誠一の脳裏に直接刻まれる。
震える手でそれを拾い上げると、ずしりと重い「業」のようなものが腕に伝わった。
先に手に入れた白兎牙よりも長く、その反りは深く鋭い。
漆黒の鞘からは、先ほどのミノタウロスが持っていた威圧感と、静が放った禁忌の断片が混ざり合ったような、荒々しくも静謐な波動が漂っている。
誠一はその黒い刀を、白兎牙と対になるように腰に差した。
白と黒。
かつてすべてを失った男の腰で、二振りの刀がガチャリと音を立てて重なった。




