表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/50

第36話 迷宮最下層の戦い

 試練の迷宮、最下層。

 地下十階層へと続く最後の階段を降りた瞬間、二人の全身に総毛立つような戦慄が走った。


 肌にまとわりつく粘り気のある湿気。

 鼻腔を突くのは、鉄錆と古びた獣の脂が混じったような、濃密で不快な死の臭い。


 これまでの階層が「試練」であったなら、ここは明確な「屠殺場」だ。

 大気が物理的な質量を持って、二人の肺を圧迫していた。


 誠一と静は、静寂が支配する狭い通路を抜け、ボスが待ち受ける円形の大空洞へと足を進めた。


 岩肌は巨獣の爪痕のように荒々しく削られ、持ち込んだ魔導ランタンの光さえも、闇の深淵に呑み込まれて形を失っていく。


 一歩踏み出すたびに、心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打った。


 巨大な石造りのアーチを前に、誠一は背負っていた重いリュックをゆっくりと下ろした。その瞬間、彼の纏う空気が鋭利な刃物のように研ぎ澄まされる。


「……まずは俺一人で入る。奴の出方を探るから、神代さんは外で敵の行動を見極めてくれ。準備ができたら参戦を頼む」


 かつての誠一なら、迷わず「下がっていろ」と突き放していただろう。

 だが、今の言葉には確かな「信頼」が宿っていた。


 誠一の瞳は、静を対等な迷宮攻略のパートナーとして――

 背中を預けられる戦友として認めていた。


「はい。必ず隙を見つけて合わせます。……小山内さん、どうかお気をつけて」


 静は小さく、けれど力強く頷いた。


 かつて彼女がこの迷宮に挑んだ理由は、自分から家族を奪った日置佳乃への「復讐」だった。

 だが今、震える拳を握りしめ、誠一の背中を見つめる彼女の心に、あの昏い復讐の炎は影を潜めている。


(――この人を、絶対に死なせない)


 復讐という過去への執着は、いつの間にか「隣にいる者と明日を掴む」という、生への祈りに昇華されていた。


 誠一は一瞥して頷くと、殺気が渦巻く広間へと踏み込んだ。


 その瞬間、ズンッ、と空間そのものが歪むような超重圧が誠一を襲う。

 底知れない魔力が、暴風となって彼の全身を叩き伏せようとした。



 ***


 広間の中央に、それは鎮座していた。

 

 迷宮十階層の王――

 ダークミノタウロス。


 闇を凝縮したかのような漆黒の体毛。

 見上げるほどの巨躯は岩石のような筋肉の鎧に覆われ、頭部からはねじれ曲がった二本の巨大な角が天を突いている。


 その手には、大人が五人は隠れられそうなほど巨大な漆黒の戦斧。

 赤く爛々と輝く瞳には、獣の凶暴性と、冷徹なまでの知性が同居していた。


「グルゥゥゥ……ッ」


 喉の奥から漏れる唸りだけで大気が震え、床の小石が跳ねる。

 誠一は『精神統一』の極致へ入り、愛刀『白兎牙』を構えた。


 開戦の合図はない。

 誠一が地を蹴った瞬間、世界から音が消えた。


「ハッ!!」


 先制の『空波斬』。

 真空の刃が空気を切り裂き、巨獣の喉元へと肉薄する。だが、ミノタウロスは戦斧を無造作に一振りしただけで、その衝撃波を木の葉のように霧散させた。

 

 直後、返礼とばかりに放たれた戦斧の薙ぎ払い。


 風切り音すら置き去りにする剛速。

 誠一は『瞬間転位』を連発し、紙一重でその暴威を回避した。残像ごと切り裂かれた戦斧が地面を叩き、石畳を爆発させたように撒き散らす。


 敵の死角、真後ろへと転移した誠一は、間髪入れずに剣聖の連撃を叩き込んだ。


 『抜刀術』+『斬撃』――そして、防御無視の『鎧通し』。


 ズシャッ!!


 嫌な手応えと共に、丸太のような太腿を深々と切り裂く。

 鮮血が噴き出し、暗い床を赤く染めた。


 だが――

 ダークミノタウロスは微塵も揺らがなかった。


 巨獣が軽く地を踏みしめると、傷口からシューシューと白い蒸気が立ち昇り始める。


(嘘だろ……これだけの深手が、もう塞がっていくのか!?)


 見る間に盛り上がる肉芽。

 文字通りの「超速再生リジェネレーション」。


 深手を負わせたはずの傷が数秒で消滅するのを目の当たりにし、誠一の頬を脂汗が伝う。


 通常の斬撃では、この再生速度を上回れない。


 誠一は意識を切り替え、手持ちのポイントで『鉄の剣』を次々と取り出し、練り上げた闘気を注ぎ込んで『闘気剣』へと昇華させた。


 青白く発光する数十本の光剣が、誠一から射出された。


「これで、どうだッ!!」


 流星群のごとき一斉掃射。

 ダークミノタウロスの皮膚は鋼鉄を超えた硬度を誇るが、誠一の『剣聖』としての技が、最も脆い隙間を、あるいは筋肉の接合部を正確に狙い撃つ。


 カァン! ガギンッ!

 

 火花が散り、強靭な肉を光の刃が穿つ。

 誠一が放った五十八本の闘気剣のうち、三十四本が巨獣の全身に突き刺さり、その動きを封じたかに見えた。


(今だ……ここで勝負を決める!)


 勝機を見出した誠一が、最後の一撃のために踏み込んだ。


 その刹那。


「ぶもぉおおおおおおおお!!!!!!」


 ダークミノタウロスが天を仰ぎ、絶叫した。


 それはただの叫びではない。

 体内に溜め込まれた莫大な魔力を一気に解放する、物理的な衝撃波――

 『覇王の咆哮』。


「ぐっ……ぁあ!?」


 あまりの圧力に誠一の身体が後方へと弾き飛ばされる。


 さらに信じがたいことに、ミノタウロスは咆哮と共に全身の筋肉を爆発的に膨張させ、深く突き刺さっていた闘気剣を、まるで不要なトゲを払うように一斉に体外へ弾き出したのだ。


 カラン、カラン……。


 血塗られた剣が床に虚しく転がる。

 そして、穴だらけだったはずの巨躯は、再び立ち昇る湯気と共に、一点の傷も残さず修復されていた。


 無傷。

 依然として、絶望的なまでの無傷。


 誠一は白兎牙を握り直すが、指先の痺れが止まらない。


 短期決戦は不可能。

 ここからは、どちらの精神が先に擦り切れるかの、終わりなき持久戦になる。



 ***


 後方でその光景を凝視していた静は、自らの爪が掌に食い込むほどの焦燥に駆られていた。


(速すぎる……。小山内さんの攻撃が、通じていないわけじゃない。なのに、あんなにすぐに……)


 二人の戦闘は、もはや静の動体視力で捉えることはできない。


 剣戟の火花、爆砕する岩、飛び散る鮮血。

 そのすべてが誠一の「限界」を削り取っていく。


 誠一のHPはまだ保たれているが、あのダークミノタウロスに一瞬でも捕まれば、どんな頑強なスキルも意味をなさないだろう。


 魔法による援護をしようにも、あの速度で暴れ回る敵に『漆黒天穹』のような効果範囲の固定された魔法は当たらない。


(もっと別の……。あの魔物の再生を止められる、あるいは、逃げ場を完全に奪える力が……)


 静は震える指で、空中に出現させたステータスウィンドウを必死に操作した。

 誠一が血を流し、苦悶の表情を見せるたび、彼女の胸の奥で何かが壊れる音がした。


(私を助けてくれた人を、見殺しにはできない……!)


 彼女の視線が、スキルツリーのさらに下層――

 漆黒天穹すら前座に過ぎない、呪われた輝きを放つ項目に止まった。


 それを取れば、自分は「混沌の神」の領域へとさらに近づいてしまう。

 だが、静に迷いはなかった。


 彼女は、誠一を救うために。

 真の深淵へとその手を伸ばした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ