第36話 迷宮最下層の戦い
試練の迷宮、最下層。
地下十階層へと続く最後の階段を降りた瞬間、二人の全身に総毛立つような戦慄が走った。
肌にまとわりつく粘り気のある湿気。
鼻腔を突くのは、鉄錆と古びた獣の脂が混じったような、濃密で不快な死の臭い。
これまでの階層が「試練」であったなら、ここは明確な「屠殺場」だ。
大気が物理的な質量を持って、二人の肺を圧迫していた。
誠一と静は、静寂が支配する狭い通路を抜け、ボスが待ち受ける円形の大空洞へと足を進めた。
岩肌は巨獣の爪痕のように荒々しく削られ、持ち込んだ魔導ランタンの光さえも、闇の深淵に呑み込まれて形を失っていく。
一歩踏み出すたびに、心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打った。
巨大な石造りのアーチを前に、誠一は背負っていた重いリュックをゆっくりと下ろした。その瞬間、彼の纏う空気が鋭利な刃物のように研ぎ澄まされる。
「……まずは俺一人で入る。奴の出方を探るから、神代さんは外で敵の行動を見極めてくれ。準備ができたら参戦を頼む」
かつての誠一なら、迷わず「下がっていろ」と突き放していただろう。
だが、今の言葉には確かな「信頼」が宿っていた。
誠一の瞳は、静を対等な迷宮攻略のパートナーとして――
背中を預けられる戦友として認めていた。
「はい。必ず隙を見つけて合わせます。……小山内さん、どうかお気をつけて」
静は小さく、けれど力強く頷いた。
かつて彼女がこの迷宮に挑んだ理由は、自分から家族を奪った日置佳乃への「復讐」だった。
だが今、震える拳を握りしめ、誠一の背中を見つめる彼女の心に、あの昏い復讐の炎は影を潜めている。
(――この人を、絶対に死なせない)
復讐という過去への執着は、いつの間にか「隣にいる者と明日を掴む」という、生への祈りに昇華されていた。
誠一は一瞥して頷くと、殺気が渦巻く広間へと踏み込んだ。
その瞬間、ズンッ、と空間そのものが歪むような超重圧が誠一を襲う。
底知れない魔力が、暴風となって彼の全身を叩き伏せようとした。
***
広間の中央に、それは鎮座していた。
迷宮十階層の王――
ダークミノタウロス。
闇を凝縮したかのような漆黒の体毛。
見上げるほどの巨躯は岩石のような筋肉の鎧に覆われ、頭部からはねじれ曲がった二本の巨大な角が天を突いている。
その手には、大人が五人は隠れられそうなほど巨大な漆黒の戦斧。
赤く爛々と輝く瞳には、獣の凶暴性と、冷徹なまでの知性が同居していた。
「グルゥゥゥ……ッ」
喉の奥から漏れる唸りだけで大気が震え、床の小石が跳ねる。
誠一は『精神統一』の極致へ入り、愛刀『白兎牙』を構えた。
開戦の合図はない。
誠一が地を蹴った瞬間、世界から音が消えた。
「ハッ!!」
先制の『空波斬』。
真空の刃が空気を切り裂き、巨獣の喉元へと肉薄する。だが、ミノタウロスは戦斧を無造作に一振りしただけで、その衝撃波を木の葉のように霧散させた。
直後、返礼とばかりに放たれた戦斧の薙ぎ払い。
風切り音すら置き去りにする剛速。
誠一は『瞬間転位』を連発し、紙一重でその暴威を回避した。残像ごと切り裂かれた戦斧が地面を叩き、石畳を爆発させたように撒き散らす。
敵の死角、真後ろへと転移した誠一は、間髪入れずに剣聖の連撃を叩き込んだ。
『抜刀術』+『斬撃』――そして、防御無視の『鎧通し』。
ズシャッ!!
嫌な手応えと共に、丸太のような太腿を深々と切り裂く。
鮮血が噴き出し、暗い床を赤く染めた。
だが――
ダークミノタウロスは微塵も揺らがなかった。
巨獣が軽く地を踏みしめると、傷口からシューシューと白い蒸気が立ち昇り始める。
(嘘だろ……これだけの深手が、もう塞がっていくのか!?)
見る間に盛り上がる肉芽。
文字通りの「超速再生」。
深手を負わせたはずの傷が数秒で消滅するのを目の当たりにし、誠一の頬を脂汗が伝う。
通常の斬撃では、この再生速度を上回れない。
誠一は意識を切り替え、手持ちのポイントで『鉄の剣』を次々と取り出し、練り上げた闘気を注ぎ込んで『闘気剣』へと昇華させた。
青白く発光する数十本の光剣が、誠一から射出された。
「これで、どうだッ!!」
流星群のごとき一斉掃射。
ダークミノタウロスの皮膚は鋼鉄を超えた硬度を誇るが、誠一の『剣聖』としての技が、最も脆い隙間を、あるいは筋肉の接合部を正確に狙い撃つ。
カァン! ガギンッ!
火花が散り、強靭な肉を光の刃が穿つ。
誠一が放った五十八本の闘気剣のうち、三十四本が巨獣の全身に突き刺さり、その動きを封じたかに見えた。
(今だ……ここで勝負を決める!)
勝機を見出した誠一が、最後の一撃のために踏み込んだ。
その刹那。
「ぶもぉおおおおおおおお!!!!!!」
ダークミノタウロスが天を仰ぎ、絶叫した。
それはただの叫びではない。
体内に溜め込まれた莫大な魔力を一気に解放する、物理的な衝撃波――
『覇王の咆哮』。
「ぐっ……ぁあ!?」
あまりの圧力に誠一の身体が後方へと弾き飛ばされる。
さらに信じがたいことに、ミノタウロスは咆哮と共に全身の筋肉を爆発的に膨張させ、深く突き刺さっていた闘気剣を、まるで不要なトゲを払うように一斉に体外へ弾き出したのだ。
カラン、カラン……。
血塗られた剣が床に虚しく転がる。
そして、穴だらけだったはずの巨躯は、再び立ち昇る湯気と共に、一点の傷も残さず修復されていた。
無傷。
依然として、絶望的なまでの無傷。
誠一は白兎牙を握り直すが、指先の痺れが止まらない。
短期決戦は不可能。
ここからは、どちらの精神が先に擦り切れるかの、終わりなき持久戦になる。
***
後方でその光景を凝視していた静は、自らの爪が掌に食い込むほどの焦燥に駆られていた。
(速すぎる……。小山内さんの攻撃が、通じていないわけじゃない。なのに、あんなにすぐに……)
二人の戦闘は、もはや静の動体視力で捉えることはできない。
剣戟の火花、爆砕する岩、飛び散る鮮血。
そのすべてが誠一の「限界」を削り取っていく。
誠一のHPはまだ保たれているが、あのダークミノタウロスに一瞬でも捕まれば、どんな頑強なスキルも意味をなさないだろう。
魔法による援護をしようにも、あの速度で暴れ回る敵に『漆黒天穹』のような効果範囲の固定された魔法は当たらない。
(もっと別の……。あの魔物の再生を止められる、あるいは、逃げ場を完全に奪える力が……)
静は震える指で、空中に出現させたステータスウィンドウを必死に操作した。
誠一が血を流し、苦悶の表情を見せるたび、彼女の胸の奥で何かが壊れる音がした。
(私を助けてくれた人を、見殺しにはできない……!)
彼女の視線が、スキルツリーのさらに下層――
漆黒天穹すら前座に過ぎない、呪われた輝きを放つ項目に止まった。
それを取れば、自分は「混沌の神」の領域へとさらに近づいてしまう。
だが、静に迷いはなかった。
彼女は、誠一を救うために。
真の深淵へとその手を伸ばした。




