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第34話 漆黒の天穹

 静は、ついにその禁じられた力へと手を伸ばした。

 

 彼女がスキルを発動した瞬間――

 極寒に凍てついていた空気の粒子が、彼女を中心に激しく共鳴を始めた。


 喉の奥から、言語が自然と湧き上がる。

 それは彼女の意志を待たず、まるで魂に刻まれた古い血の記憶が、封印を解かれて呼び覚まされたかのようだった。


 呪文を記憶する必要などない。


「――始まりの深淵、星々のたゆたう虚空、我が声に応えよ」


 スキルが発動すれば、言霊は自動的に、完璧な律動で紡がれていく。


「偉大なる汝の一欠片――我が前に立ちふさがりし厄災を打ち払え。顕現せよ、すべてを呑む漆黒のあぎと。……我、呼び出すは、『漆黒の天穹しっこくてんきゅう』」


 詠唱の終わりと同時に、場の空気が「畏怖」の色を帯びた。


 耳を劈いて(つんざいて)いた風の音や、魔物の咆哮が不自然に遠ざかり、世界が真空に包まれたような錯覚に陥る。石壁の隙間に溜まっていた数千年の埃までもが、見えない引力に引かれるように、一箇所へと流れ始めた。


 フロストリザードの傍らに現れたのは、ピンポン玉ほどの漆黒の球体だった。


 最初こそただの「点」に見えたそれは、周囲の光を暴力的に吸い込みながら、輪郭を溶かすように肥大化していく。


 目に見えない空間の歪みが波紋のように広がり、壁や床の遠近感が狂い、ねじれていく。


 音という概念そのものが中心へと吸い取られていくため、誠一の足元で割れる氷の音さえも、砂がこぼれるような微かな響きへと削ぎ落とされた。


 ギュルルルル……!!!


 地獄の底から響くような低いうなりが部屋を揺らし、次の瞬間、物理法則を無視した暴風が吹き荒れた。


 床の分厚い氷が斜めに裂け、無数の氷片が螺旋を描いて渦へと舞い上がる。


 誠一の影が細長く伸び、視界の端々が黒い中心点に向かって「畳まれていく」ような感覚。それは世界という紙が一枚ずつ、見えない手で剥がされ、捨てられていく光景だった。


 フロストリザード・ロードの強靭な鱗が軋み、肉が裂け、骨が粉砕される鈍い音が断続的に響く。

 だがその悲鳴すら中心へと吸い込まれ、代わりに残ったのは、粘着質で不気味な「引き込み音」だけだった。


 噴き出した血は蒸気となって渦に呑まれ、一瞬で消滅する。

 巨大な肉塊が空中で飴細工のように引き伸ばされ、次の瞬間には見えない闇に圧搾されていた。


 その凶悪な吸引は、味方である誠一すら例外とはしなかった。

 重力だけでなく、時間の流れまでもが停滞し、歪められていく恐怖。



 ***


「くっ……!?」

 

 本能が警鐘を鳴らし、誠一は咄嗟に『瞬間転位』を発動した。


 視界が弾け、次の瞬間には黒い渦から数十メートル離れた場所へと空間を跳躍していた。さらにそこから全力で後方へと、逃げるように距離を取る。


 もし判断がコンマ数秒遅れていれば、彼の肉体もまた、あの『漆黒の咢』によって塵一つ残さず呑み込まれていただろう。


 極小のブラックホールは数秒間、咆哮のような轟音を立ててすべてを蹂躙し、やがて嘘のように静かに消滅した。


 空間が元の形を取り戻すと同時に、部屋を支配したのは、これまでにない凍てついた沈黙だった。


 そこに残されていたのは、元の三分の一ほどの体積にまで無惨に圧縮されたフロストリザードの残骸。


 肉体はねじれ、潰れ、骨と内臓が泥のように混ざり合った、この世のものとは思えない惨状だ。まるで狂気的な彫刻家が作った、悪趣味なオブジェのようにそこに横たわっていた。


 そして、その惨状を前にして、静はその場に膝をつき、嗚咽を漏らしていた。


「ごめんなさい、小山内さん……。私、こんな……。あんなスキルは取るなって、言われていたのに……っ」


 彼女の指先は激しく震え、涙が頬を伝って冷たい床に落ちていく。

 背負った罪悪感と、自ら放った力のあまりの禍々しさ。その恐怖が、彼女の小さな全身を支配していた。


 誠一はゆっくりと歩み寄り、彼女の隣に静かにしゃがみ込んだ。


「謝ることはない。……あのまま戦っていれば、俺は確実に負けていた。神代さんが覚悟を決めてくれたおかげで、俺は今、こうして生きている。助けてくれて、本当にありがとう」


 彼の声はどこまでも穏やかで、包み込むような温かさがあった。

 誠一は静の震える肩にそっと手を置き、その重すぎる十字架を共に背負うように力を込めた。


 この迷宮は、慈悲のない戦場だ。


 魔物を殺さなければ、自分たちが殺される。

 誠一は彼女を傷つけまいと戦いから遠ざけてきたが、その優しさが逆に、彼女を死の淵に追い詰めていたのだと思い知った。


 彼女もまた、この過酷な運命に抗う一人の『挑戦者』なのだ。


「もっと、君の歩幅に合わせた戦いから始めればよかったな。俺の配慮が足りなかった。……神代さん、怖がらせてすまない」


「えっ? ……小山内さんは何も悪くないです。私が、勝手にやったことですから……」


 静は涙を拭いながら、力なくかぶりを振った。


 その潤んだ瞳は、先ほど世界を崩壊させた魔法を放った者とは到底思えないほど、か弱く、そして慈愛に満ちていた。

 誠一はそのことに、何よりも安堵した。彼女の中の「優しさ」は、禁忌の闇に触れてもなお、失われてはいなかったのだ。


「それにしても、凄まじい威力だったな。……次はもう少し威力の弱い魔法から練習した方が、精神的な負担も少ないかもしれない」


 誠一が現実的なアドバイスを送ると、静は困惑したように眉を下げ、小さな声で答えた。


「それが……小山内さん。さっきの魔法が、私の覚えられる攻撃スキルの中で、一番威力が弱かったみたいで……」


「……そうか。あれで、一番……」


 誠一は一瞬絶句したが、すぐに苦笑を浮かべた。


「分かっているとは思うけど、この先、使う時はくれぐれも慎重にね」

「はい……気をつけます」


 静は素直に、そして少しだけ照れくさそうに頷いた。



 ***


 誠一は、もはや原形を留めていない亡骸から辛うじて素材を回収し、劣化交換でハイポーションを取り出した。


「さっきの魔法、MPを相当持っていかれただろ? これを飲んで休むといい」


「……あ、いえ、大丈夫です。まだ余裕がありますから。小山内さんこそ、さっきの怪我を治してください」


(あれだけの魔法を使って、まだ余裕があるのか。……やはり、転移者としての才能が桁違いなんだな)


 誠一は彼女に促されるままハイポーションを飲み、冷え切った身体に温もりを取り戻した。


 筋肉の強張りが解け、肺の痛みも引いていく。


 その時、迷宮全体を揺らすような低い重低音が響いた。

 地響きと共に、部屋の最奥にある巨大な石壁が、重々しく左右に開いていく。


 第七階層へと続く、新たな奈落への入り口。


 誠一と静は、互いに顔を見合わせた。

 そこにあるのは、恐怖だけではない。困難を乗り越えた者同士の、揺るぎない「絆」と「覚悟」だった。


「行こうか」


「……はい!」


 二人は立ち上がり、より深い暗闇が待つ第七階層へと――

 力強い一歩を共に踏み出した。

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― 新着の感想 ―
瞬間質量7000エクサトンの疑似ブラックホールかな
「もっと、君の歩幅に合わせた戦いから始めればよかったな。俺の配慮が足りなかった。……神代さん、怖がらせてすまない」 その通りだと思う。
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