第31話 第六階層の二人
誠一と静が『試練の迷宮』に再突入してから、半年という月日が流れた。
迷宮の深淵、第六階層。
そこは、これまでの階層とは一線を画す「絶対零度」の死界だった。
この階層を支配するのは「フロストリザード」。
岩石のように硬質な鱗を持ち、肺の奥まで凍てつかせるような氷の息を吐き出す、巨大な爬虫類型の魔物だ。
彼らが這い回った跡は白く凍りつき、空間の水分は常に鋭い氷の結晶となって宙を舞っている。
誠一は日々、この極寒の戦場を駆け抜けていた。
氷のトカゲを狩り、その亡骸を『劣化交換』にかける。
手に入れた厚手の毛布、保温魔法の付与された魔導ランプ、そして滋養強壮に優れた温かい食材を、彼は静の待つ拠点へと持ち帰る。
「ただいま、神代さん。今日は少し冷え込みが厳しいな」
「お帰りなさい、小山内さん。……今日も、無事でよかったです」
第六階層に入って一カ月。
二人の関係は、単なる「救助者と被保護者」から、不条理な運命を共にする「家族」のような、穏やかで深い信頼へと変わりつつあった。
二十六年の孤独な日々を過ごした誠一にとって、静との時間は何物にも代えがたい救いだった。
誰にも言えなかった過去。
心の奥底に沈めていた痛みを、少しずつ言葉にして共有する。それは、魂にこびりついた冷たい泥を、互いの存在が溶かしていくような生活でもあった。
***
五階層でのボス戦の折、静が漏らした「禁忌の魔法」の存在。
それが、誠一の心に小さな、しかし無視できない棘となって刺さっていた。
彼女の清廉な瞳の裏に、一体何が隠されているのか。
それを暴きたいのではない。
ただ、彼女が再び絶望に飲み込まれないよう、その本質を知っておきたい。そんな父性にも似た切実な願いが、誠一を突き動かしていた。
その日の夕食は、肉を煮込んだ特製の温かいスープだった。
拠点の中央でパチパチとはぜる焚き火。そのオレンジ色の光が、氷壁の部屋に柔らかな輪郭を与えている。
外の吹雪とは無縁の、奇跡のような温もり。
込み入った、それでいて心の深淵に触れる話をするには、これ以上の夜はない。
誠一は木製のカップを両手で包み、揺れる炎を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「……そういえば、神代さん。不躾な質問かもしれないけれど。君がこの世界に呼ばれた『きっかけ』について、何か心当たりはあるかな?」
「……え? ……“きっかけ”、ですか?」
静はスープを運ぶ手を止め、不思議そうに小首を傾げた。
火に照らされた彼女の肌は透き通るようで、その瞳には揺れる炎が小さな星のように映り込んでいる。
「ああ。例えば、俺の場合だ。俺はあの日、日本で何もかもを失った。家族を殺され、未来を奪われ、絶望の果てに自ら命を絶とうとしていたんだ。その時、空から光が走って、気づいたらあの王宮の間に立っていた。……だから俺は、『死にたい』という強烈な思いが、召喚を引き寄せたきっかけなんじゃないかって思ってるんだ」
誠一と共に召喚されたあの三人の高校生は、決して死を望むような境遇には見えなかった。召喚の法則がすべて「絶望」にあるとは限らない。
だが、誠一はあえて自分の最も暗い部分を晒した。
静が背負っている重荷を、少しでも下ろしやすいように。
静は長い間、沈黙した。
焚き火の音だけが、二人の間の空気を静かに震わせている。
やがて、彼女は視線を膝の上に落とし、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「……そう、だったんですね。小山内さんも、そんなに辛い思いを。……私は、死のうとはしていませんでした。自分から死ぬ勇気なんて、とても持てなかったから」
彼女の声は、氷が割れるようなか細さだった。
「ただ……あと数秒、あの光に包まれるのが遅かったら、私は殺されていたんです。クラスメイトだった女の子に、突然……」
誠一は、喉の奥がヒリつくような感覚に襲われた。
彼女の瞳の奥に残っていたあの「虚無」の正体。それは自分自身への絶望ではなく、人間に向けられた絶対的な恐怖だったのだ。
「クラスメイトに、殺されそうに……? そんな、病室で……か?」
「はい。……その子は、近所に住んでいた幼馴染でした。クラスでは目立たないように立ち回る子で、中学になってからは、たまに話をするくらいの関係で。……でも、あの日。突然病室に現れたあの子は、鬼のような形相で怒鳴りながら……隠し持っていた刃物を私に振り上げたんです」
静の肩が、思い出される恐怖に激しく震える。
「刃物が視界を埋めて。私は、あ、死ぬんだ……って。そう思った瞬間に、光に包まれたんです。――私の場合は、“殺される”という極限の恐怖が、召喚の鍵だったのかもしれません」
重苦しい告白。
だが、静の表情は、どこか憑き物が落ちたような微かな解放感を含んでいた。
誰にも打ち明けられず、夢の中で何度も繰り返されたであろう悪夢。それを今、誠一という「理解者」に差し出したのだ。
「……その相手が、なぜ君を殺そうとしたのか。心当たりはあるのかい?」
「……えっと。どこから話せばいいか、……少し、長くなります」
静は、確認するように誠一の顔を真っ直ぐに見つめた。
誠一は、その視線を逸らさずにしっかりと受け止め、深く、包み込むように頷いた。
「いくらでも聞くよ。……時間はいくらでもあるんだから」
焚き火が大きく爆ぜ、火の粉が暗闇へと吸い込まれていった。
静は、ゆっくりと、自らの運命を変えたあの日の真相を語り始めた。




