第30話 地下五階層
誠一と静が『試練の迷宮』に再突入してから、早くも三カ月の月日が流れていた。
二人の歩みは、かつての誠一が一人で這いずるように進んでいた頃とは比較にならないほど速い。
現在、彼らは地下五階層の深淵にまで到達していた。
一階層と二階層は、もはや誠一にとって「庭」のようなものだった。
かつて苦戦したシャドーラビットも、岩の鎧を纏った巨獣も、今の彼の剣筋を捉えることすら叶わず、霧散するように屠られていった。
続く三階層。
誠一が初めて挑んだ時はボス部屋のみが独立していたが、再構築された今回の挑戦では、他の階層と同様に広大な迷路が広がっていた。
そこには猛毒の蛇、ポイズンファングが群れをなして徘徊していたが、誠一の『空波斬』の連撃が広間を凪ぐたびに、毒の霧と共に魔物たちの命は断たれていった。
蛇の毒は厄介だが、ポーションが定期的に手に入るので回復しながら強引に押し通った。
四階層の主、グロウスライムも厄介な相手だった。
不定形の身体は物理攻撃を無効化し、唯一の弱点である核を体内で高速移動させる回避能力を持つ。
だが、誠一の『弱点看破』は遮蔽物を無視してその急所を赤く浮き上がらせ、『動体追尾』がその不規則な軌道を完全にロックオンした。
上位種の巨体に守られたコアは剣の射程範囲外だが、誠一の『精神統一』によって高まった気力を乗せた、広範囲を切り裂く斬撃からは逃れようもなかった。
そして現在、二人は第五階層の攻略を完了しようとしていた。
***
第五階層に君臨する魔物、バットリーパー。
それは人間ほどの体躯を持つ、鋭利な爪と牙を備えた大型のコウモリ型モンスターだ。
最大の特徴は、闇に紛れる漆黒の翼と、音もなく空間を滑空する隠密性。
そして、獲物の平衡感覚を破壊する超音波攻撃である。
空を飛ぶ敵に対し、かつての誠一なら苦戦を強いられただろう。
だが、今の彼には地上の間合いなど関係なかった。
まずは「空波斬」で群れを散す。
そして攻撃の軌道を読み、生き延びた敵に対しても――
「逃がさない。『影斬』」
誠一が床に落ちた魔物の影を斬る。
本来、実体のないはずの影を切り裂かれた衝撃は、因果を無視して上空を飛ぶバットリーパーの本体へと伝播し、その身体を鮮血と共に仰け反らせた。
飛ぶ斬撃と、敵の影を使った予想外の攻撃。
一カ月以上に及ぶ慎重な探索の末、誠一は第五階層の地図を完璧に仕上げ、静を安全な後方に待機させてからボス部屋へと踏み込んだ。
***
ボス部屋の主――
ひときわ巨大なバットリーパーとの死闘。
敵の放つ超音波は、不可視の物理的衝撃となって空間を震わせ、誠一の鼓膜を激しく叩いた。
「っ……耳鳴りが酷いな」
平衡感覚が狂い、視界が二重、三重にブレる。
足元が底なし沼になったかのような錯覚。
だが、誠一の肉体は動揺しなかった。
二十六年の修行で培われた「剣士としての本能」が、脳の混乱を無視して、最適解の回避行動と反撃をオートメーションで行う。
静は部屋の入り口、巨大な扉の影でその光景を固唾を呑んで見つめていた。
誠一の背負う予備の荷物が入った重いリュックを抱え、彼女の瞳には隠しようのない恐怖と、それ以上に強い「焦燥」が混ざっていた。
(小山内さんは、あんなにボロボロになって戦っているのに。私は、ただここで震えて見ているだけ……)
その無力感が、火傷が治ったはずの彼女の胸を、チリチリと焼き焦がす。
誠一はバットリーパーが鋭い爪を剥き出しにして急降下してくる瞬間を、『見切り』で捉えた。
カウンターの一閃。
白兎牙の刃が、敵の左翼の付け根を深く抉る。
絶叫に近い超音波が響き、敵は狂乱したように風魔法を乱射した。
部屋中を大小さまざまな「かまいたち」が埋め尽くし、逃げ場を奪う死の嵐となる。
完全に回避するのは不可能。
誠一は最小限の動きで急所だけを守るが、暴風の刃が彼の肩を、腕を、そして頬を浅く切り裂いていく。
「小山内さん……っ!」
静の悲鳴のような声が響く。
だが、誠一は止まらない。
血飛沫を散らしながらも、彼の瞳は冷徹に勝利への最短経路だけを見据えていた。
「これで、墜ちろ――『空波斬』『影斬』!」
渾身の連撃。
真空の刃と影から伝わる斬撃が、翼の損傷を致命的なものに変え、飛行能力を失った巨躯が地面へと激突した。
――どごぉおおお!!!
地響きが迷宮を揺らし、舞い上がる土煙の中を誠一が突っ切る。
墜落の衝撃で動けない魔物の首筋に、『精神統一』で気力を極限まで溜めた最後の一撃を叩き込んだ。
バットリーパーの断末魔が空間を震わせ、やがて粒子となって霧散していく。
誠一は静かに刀を納め、乱れた呼吸を整えた。
***
誠一は手慣れた動作で死骸を『劣化交換』し、最高品質のハイポーションへと変えた。それを一気に飲み干すと、身体に刻まれた無数の切り傷が、嘘のように塞がっていく。
地響きと共に第六階層への大扉がゆっくりと開き、静が転がるように誠一へ駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか、小山内さん! あんなに血が出て……お願いです、やっぱり、私にも何か手伝わせてください。スキルを取って、戦いに参加すれば……」
彼女の瞳には涙が溜まっていた。
守られるだけの自分に対する、激しい嫌悪が見て取れた。
だが、誠一は穏やかな、しかし拒絶の色の混じった微笑みを返した。
「ありがとう、神代さん。でも大丈夫だよ。傷はこの通り、ポーション一つで跡形も残らない。君が危ない目に遭う必要は、どこにもないんだ」
「でも……!」
「……行こう。次は第六階層だ。少し、空気が変わるかもしれない」
誠一は静の言葉を遮るように、奥へと続く通路を示した。
彼が静を戦わせたくない理由は、単なる過保護だけではない。
かつて彼が聞いた、彼女のスキルを王国が『禁忌』と呼んだという事実。
(人の本質は、スキルに現れる……。彼女が悪い子だとは到底思えない。だが、もしその力が、彼女自身さえ飲み込んでしまうような危険なものだとしたら?)
誠一は、静の白い指先を見つめる。
彼女には、この血生臭い戦いの味を知ってほしくなかった。自分一人が泥を被れば、それでいいのだと、彼は歪なまでの父性愛で自分を納得させていた。
誠一の背中を見つめる静の瞳には、先ほどまでの絶望とは違う、昏い決意が僅かに滲んでいた。
二人は、冷たい静寂が支配する第六階層への階段を、ゆっくりと下りていった。




