第29話 二人の挑戦
誠一は静の手を引き、再びあの始まりの場所――
試練の迷宮へと足を踏み入れた。
石造りの階段を降り、広間へと出た瞬間に広がるのは、かつて誠一が二十六年の歳月を過ごしたあの光景だ。
天井は果てしなく高く、闇の帳のあちこちに淡く光る鉱石が埋め込まれている。その微かな煌めきは、まるで深い夜の底に閉じ込められた星々のようで、静寂の中に神秘的な美しさを湛えていた。
「……やはり、俺の時と同じだな」
誠一は周囲を警戒しながら、静かに呟いた。
空気の重さ、微かな土の匂い、そして壁面から伝わる魔力の律動。すべてがかつての記憶と一致している。
広間の中央付近、音もなく跳ねる影があった。
迷宮の最初の番人、『シャドーラビット』だ。黒い毛並みに紅い瞳。闇に溶け込むその姿は、一度認識を外せば容易に見失ってしまうほど不気味な存在だ。
誠一にとっては、もはや食料か訓練用の的にしか見えない相手。
だが、平和な日本で育ち、さらには病床にあった静にとって、それは本能的な恐怖を呼び起こす「怪物」に他ならなかった。
「……あんなのと、戦うんですか……?」
静の細い肩が、目に見えて震えていた。
彼女は誠一の袖を無意識に強く掴み、その背中に隠れるようにして呼吸を乱している。目の前の現実は、テレビ画面越しに観るファンタジーとは決定的に違っていた。生き物の殺意、そして死への予感が、冷たい風となって彼女の肌を撫でているのだ。
「大丈夫だ。俺がついている。あんな奴ら、俺の敵じゃない」
誠一は怯える少女を安心させるため、努めて明るく、そして頼もしさを感じさせる声で言い切った。
実際、今の誠一にとって第一階層のモンスターなど、雑魚同然だ。
彼は気配だけでラビットたちの位置を完全に掌握していた。
「これなら、案外早く片付きそうだな。……そういえば、神代さん。君の願いは、どのくらいの深さで叶うと言われたんだ?」
あの光る石の神託は、当事者にしか聞こえない。
誠一は彼女のゴールをまだ知らなかった。
「えっと……『第十階層』を踏破せよ、と言われました」
「十階か……。俺の時は三階だったから、その三倍以上、さらに深く潜る必要があるわけか」
誠一の表情が僅かに引き締まる。
この迷宮は一階層深くなるごとに、魔物の強さは跳ね上がり、環境の過酷さも増していく。第三層であの毒蛇だったのだ。
第十層ともなれば、想像を絶する災厄が待ち受けているに違いない。
「そうなると……かなりの時間がかかるかもしれないな。数年、あるいはそれ以上の単位で」
「私のために……本当に、すみません、小山内さん……。私、何もできないのに」
申し訳なさに押し潰されそうな静を見て、誠一は慌てて首を振った。
「いや、いいんだ。俺が好きで手を貸しているんだから、君が謝る必要なんてどこにもない。それに、俺にとっても……一人で潜るより、誰かが待っててくれる方が、ずっと心強いんだ」
「はい……。ありがとうございます。小山内さんは、本当に……お優しいんですね」
静の潤んだ瞳から発せられた素直な言葉に、誠一の胸はじんわりと温かくなった。家族を失ってからずっと枯れていた感情が、ようやく潤いを取り戻していくような感覚だった。
***
二人が拠点として選んだ地下一階層の小部屋。
そこには以前の挑戦時と同様に、魔物避けのランプが壁に備え付けられ、殺風景だが清潔な居住スペースが用意されていた。
誠一は室内に入り、隅々まで確かめる。
「俺が暮らしていた時と、全く同じ作りだな。だが……」
彼がかつてここに残していったはずの端切れや、生活の痕跡は、影も形も見当たらなかった。
「一度目の挑戦とは、迷宮そのものが別物として再構築されているようだな。あるいは、挑戦者ごとに並行した世界が用意されているのか……。どちらにせよ、ゼロからのスタートだ」
誠一はリュックを下ろし、今後の戦略について打ち合わせをすることにした。
「まずは、最低限の生活環境を整えよう。俺のスキル『劣化交換』を使えば、倒した魔物を生活必需品に変えられる。毛布、食器、灯り……まずは必要なものを揃える」
誠一の言葉を、静は一言も漏らさぬよう真剣な表情で聞き入っている。
「それと、大事なことだ。俺が外でモンスターと戦っている間、神代さんにはここで待っていてもらうことになる。第十階層を攻略するまで、どれほどの月日が必要になるかは未知数だ。……一人でいても心が折れないよう、何か退屈を紛らわせるスキルは取れそうかな? 俺の場合は、『瞑想』というスキルで自分を深く見つめることで、孤独をやり過ごしていたんだけど……」
誠一の問いに、静は空中にステータス画面を表示し、獲得可能スキルの一覧を指でなぞった。
「あっ、はい……私も『瞑想』を取得できるようです。これを、ポイントで交換すればいいんですね」
「ああ、おすすめだよ。精神を安定させる効果もあるから、この場所では重宝するはずだ」
誠一のアドバイスに従い、静は『瞑想』スキルを取得した。これで、誠一が遠征している間の孤独に対する備えが一つできた。
「よし、じゃあ早速、最初の物資を調達してくるよ。まずは明かりと、調理用の薪、それから食料だな。……他にも欲しいものがあったら遠慮なく言ってくれ。現代のゲーム機みたいなのは無理だろうが、この世界の道具なら大抵のものは交換できるはずだから」
誠一が鉄の剣を手に外へ出ようとしたその時、静が控えめに声を上げた。
「あの、小山内さん……。この『暗視』というスキルを取れば、暗闇でも光は必要ないのではないでしょうか? ポイントに余裕があるみたいで……」
(……ああ、そうか。彼女は「当たり」の転移者として、大量のポイントが最初から与えられているんだな)
誠一は苦笑した。自分はかつて死に物狂いで溜めたポイントだが、彼女は召喚された直後から高いポテンシャルを持っている。
「そうだね、暗視は取っておいて損はない。他にも便利そうなのがあれば、どんどん取得していい。ここは迷宮だ、自分を守るためのスキルが最優先だよ。……魔法とか、戦闘で使えそうなのは何かないかい?」
その問いに、静はふっと視線を落とし、悲しげに唇を噛んだ。
「……私のステータスにある攻撃魔法スキルは、この世界では『禁忌』とされているものらしくて……。それを話したら、王国の偉い人たちが顔色を変えて……。それで、私は地下牢に放り込まれてしまったんです。……だから、取らない方がいいのかもしれません」
(禁忌の魔法……。なるほど、それが理由だったのか)
誠一は、王国の非道さに静かな怒りを覚えた。
怪我人だから捨てられたのではなく、自分たちが制御できない「未知の力」を恐れ、少女を幽閉し無きものにしようとしたのだ。
「……そうか。まあ、危険なスキルは取らなければいいだけだから、あまり気にしない方がいい」
誠一は優しくそう告げると、拠点の扉に手をかけた。
「じゃあ、行ってくるよ。すぐ戻る」
「はい。……いってらっしゃい、小山内さん」
背後から聞こえた、静の穏やかな見送りの声。
二十六年間、一度も聞いたことのなかったその響きを背に受けながら、誠一は迷いなく、闇が支配する回廊へと踏み出した。




