第27話 地下牢の少女
迷宮という名の試練を超え、誠一はついに自らの宿願を成し遂げた。
その後、過酷な修行で得たこの力を、人を助けるために役立てようと決意した彼は、地下牢の深淵をあとにすることを選んだ。
湿った通路を引き返した先、牢の入り口付近に辿り着いた誠一の目に飛び込んできたのは、冷たい石床にうずくまる、傷だらけの小さな影だった。
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誠一の接近に気づき、少女がゆっくりと顔を上げた。
だが、その瞳には、救いを求めるような光も、不審者に対する恐怖も欠片もなかった。
ただ、「そこに何かがいるから見た」というだけの、感情の抜け落ちた空虚な視線。それは、もはや自分の命さえ他人の出来事のように捉えている、末期の絶望の色だった。
「……驚かせたらすまない。怯えないで聞いてほしい」
誠一は努めて穏やかな声を作り、ゆっくりと両手を広げて敵意がないことを示した。
「俺の名前は小山内誠一。――君と同じ、日本からこの世界に召喚された転移者だ。……君に危害を加える気はない。それどころか、俺はこの世界の魔法のアイテムをいくつか持っているんだ」
誠一は、彼女の全身を覆う痛々しい火傷の跡に目を向けた。
「これは、傷を治すための特別な薬……ポーションだ。かなり酷い怪我のようだが、これを使えばすぐに楽になれる。……信じてもらうのは難しいかもしれないが、俺に君を助けさせてくれないか?」
二十六年ぶりに、自分の喉から、独り言ではない他者への言葉が紡がれる。
少女はしばらくの間、誠一を未知の生き物でも見るかのように呆然と見つめていた。だが、誠一の瞳の奥にある、慈父のような静かな温かさを感じ取ったのか、やがて弱々しく、こくんと首を縦に振った。
誠一は安堵の息を漏らし、リュックを下ろして備蓄していた高品質のポーションを取り出した。それは、倒した魔物を劣化させて得た奇跡の雫だ。
受け取った少女が震える手でそれを飲み干すと、劇的な変化が訪れた。
彼女の全身を焼いていた赤黒い火傷が、霧が晴れるように急速に引いていく。
それまで仮面のように無機質だった少女の表情に、僅かな「驚き」の揺らぎが宿った。
少女は信じられないといった様子で、自らの手足を触り、痛々しい包帯を慎重に外していく。
布の下から現れたのは、傷跡一つない、磁器のように滑らかな白い肌だった。
「あの……。ありがとうございました……」
蚊の鳴くような、か細いお礼の言葉。
だがその一言は、誠一の胸を熱く焦がすほどに深く響いた。
迷宮に入る直前、彼は家族を奪われ、挙句に一人の少女の嘘によって冤罪を着せられた。
人間不信の極みにあった彼にとって、見返りのない「純粋な感謝」は、何よりも求めていた救いだったのかもしれない。
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「役に立ててよかったよ。……改めて、君の名前を教えてもらえるかな?」
「あ、えっと……私は……神代静といいます」
顔の包帯をすべて取り去った彼女の素顔は、ハッとするほどに端正で、透き通るような美しさを持っていた。
だが、その立ち居振る舞いには、どこか壊れ物を扱うような危うさと、儚げな影が付きまとっている。
誠一はある異変に気づいた。
最初に見かけた時、彼女の髪は肩を叩く程度の長さだったはずだ。
しかし、ポーションによる過剰な生命力の活性化の副作用か、黒く長いストレートの髪は、今や彼女の腰に届くほどにまで美しく伸びていた。
静自身もその変化に気づいたようで、不思議そうに自分の髪の毛を指先でつまみ、感触を確かめている。
その指先の動きに、ようやく生身の人間らしい温度が戻ってきたように見え、誠一は僅かに口角を上げた。
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誠一は、彼女の警戒を解くために、さらに慎重に言葉を重ねることにした。
「神代さんも、俺と同じ境遇なんじゃないかな? ……まあ、俺の場合は勇者召喚に巻き込まれた、ただの『おまけ』でね。無能だと判断されて、この地下牢に放り込まれたんだよ」
自嘲気味に笑いながら、誠一は自らの身の上を語った。
今の彼の服装は、迷宮の魔物を狩り、スキルで交換した「この世界に流通している服」で、一見すると城の兵士の見た目に近い。
日本人だと言われても、すぐには信じられないだろう。
だからこそ、共通の境遇であることを強調した。
「……そうなんですね。私は、病室のベッドで横になっていた時に……えっと、その……急に、視界が真っ白になって。気づいたら、冷たい石の床の上にいました」
静の声にはまだ混乱と戸惑いが滲んでいる。
だが、誠一が「自分と同じ、捨てられた存在である」と知ったことで、彼女の肩の力が僅かに抜けるのを彼は見逃さなかった。
(やはり、病院から召喚されたのか。動けない病人を連れてきておいて、使い物にならないと見るや地下牢に捨てるとは……)
誠一の胸に、かつて自分を捨てた王国への静かな怒りが再燃した。
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誠一は冤罪事件の詳細については触れなかった。
その説明はあまりに重く、今の彼女には余計な負担になると思ったからだ。
ただ、目の前の少女を放っておくことなど、彼にはできなかった。
かつて守れなかった自分の娘の面影が、静の細い肩に重なって見える。
病身でありながら、戦う力がないという理由だけで厄介払いされた彼女。その絶望の深さは、同じく社会から抹殺された誠一だからこそ痛いほど理解できた。
(怪我は治した。だが、ここで彼女をこのまま解放して、王国に引き渡せばどうなる? 治癒した彼女を、今度は『道具』として利用するだけじゃないのか?)
それは誠一にとって、耐え難い結末だった。
静の表情を盗み見る。
彼女の瞳には、まだ未来への希望はない。ただ、誠一という不器用な先達に向けられた、縋るような僅かな揺らぎがあるだけだ。
「……神代さん。実は、この地下牢のさらに奥には『願いを叶えてくれる魔法の迷宮』があるんだ」
誠一は、思い切って提案した。
「もし、君が本当に日本へ帰りたいと願うなら……俺と一緒に、そこへ行ってみないか。攻略には危険も伴うが、今の俺なら君を護り抜ける。君が『帰りたい』と願うなら、俺が力を貸すよ」
その言葉を聞いた瞬間、静の瞳に、今日初めて明らかな「光」が灯った。
それは、真っ暗な絶望の底で、初めて見つけた出口の輝きだった。




