第26話 物語の終わりと始まり
小山内誠一は、ついに試練の迷宮を攻略した。
第三階層の主、ポイズンファングを討ち果たした直後――
迷宮全体が深い溜息をつくような地鳴りに震えた。
誠一の身体は奇妙な浮遊感に包まれ、重力の概念が書き換わるような感覚に襲われる。視界が白く爆ぜ、地面が高速でせり上がっていくような錯覚のあと。
彼が立っていたのは、あの忌まわしき地下牢の奥底――
かつて自分から願いを引き出した、淡く光る大石の前だった。
背後の闇を振り返れば、迷宮への入り口は跡形もなく閉ざされている。
(……夢、だったのか?)
一瞬、脳裏を掠めた疑念。
だが、肩に食い込む重厚なリュックの感触、腰に差した『白兎牙』の確かな重み、そして全身を巡る、かつての自分とは比較にならないほど強靭な魔力と気力が、二十六年に及ぶ生存競争が血の通った現実であったことを雄弁に物語っていた。
『汝は試練を乗り越えた。よって、その願いを叶えよう』
石の奥底から、魂に直接響くような声がした。
淡い光が一際大きく、瞬くように輝く。
その瞬間、誠一の意識に強烈な「映像」が流れ込んできた。
それは地球――
かつて彼がいた世界の、ある警察署の風景。
自分たちが捕まることはないと高をくくっていた犯罪グループの実行犯たちが、そして冷酷に指示を出していた黒幕が、次々と手錠をかけられていく。
誠一の願い通り、彼が異世界召喚に巻き込まれた三日以内にすべての悪事が露呈し、犯人たちが捕まるように「過去の因果」が改変されたのだ。
二十六年。
たった一度の願いのために、彼は孤独の中で剣を振り続けた。
望みは叶った。
だが、達成感など微塵もなかった。
どれほど過去を弄ったところで、失われた妻と娘が生き返るわけではない。
それでも。
誠一の眼からは熱いものが溢れ、それは深く刻まれた頬の皺を一筋だけ流れ落ちた。彼は震える手で、服のポケットから大切に守り続けてきた一枚のハンカチを取り出した。
娘からの、最後のプレゼント。
召喚された時に着ていた安物のスーツも靴も、とっくの昔に廃棄している。
だが、このハンカチだけは、どんな窮地にあっても汚れ一つつけぬよう、肌身離さず持ち歩いてきた。
誠一はハンカチで涙を拭い、再び深呼吸をする。
彼は重いリュックを背負い直し、歩き出した。
***
地下牢の入り口へと続く、緩やかな登り。
洞窟の空気は、迷宮の中よりもどこか生温かく、ひんやりとした湿気を帯びていた。
進むにつれ、迷宮の「設計された清潔さ」は失われ、壁面には分厚い苔が張り付き、岩肌は荒々しく亀裂が走っている。
灯り一つない暗闇。
だが、誠一の『暗視』スキルは、一キロ先までをも昼間のように鮮明に描き出していた。静寂の中に響くのは、迷いのない自らの足音だけ。
ここに入れられた当時を思い出しながら、誠一は歩き続ける。
(あれから、二十六年は経っている。俺の存在なんて、もう誰も覚えてはいないだろうな)
正確な日付は分からない。
だが、自分に宿る『剣聖』というスキルの重みが、その歳月の正しさを保証している。最悪、鉄格子が閉まっていても構わない。『斬鉄』の一撃があれば、この世界の牢獄など紙細工に等しかった。
今の誠一からは、隠しようのない達人のオーラが立ち込めている。
ハイポーションの恩恵で肉体は40歳前後を維持しているが、その佇まいは千の戦場を潜り抜けた老練な剣士のそれだ。
心境の変化も著しかった。
この地に来た当初、彼は「死に場所」を探していた。
だが今は違う。
(俺は信じられないくらいに強くなった。妻と娘の無念を少しでも晴らしたいと願って得た力だ。だとしたら、この力は――困っている人のために使うべきじゃないか)
誠一を地下牢へ放り込んだヴァルデリオ三世。
王がその保有スキルで見抜いていた通り――誠一は、善人だった。
その見立ては正しかったのだ。
絶大な力を手にした誠一が真っ先に考えたのは、復讐ではなく、この力を誰かのために振るうという慈善の道だった。
そのためにも、まずは社会へ復帰しなければならない。
そう決意して足を速めた時、彼の鋭敏な知覚スキルが、通路の先にある微かな「異物」を捉えた。
***
誰かが、そこに座り込んでいる。
その気配は、誠一が迷宮で出会ったどんな魔物よりも脆く、か細かった。
今にも吹き消されそうな、命の残り火。
(病人、か……?)
誠一は『遠視』を凝らし、暗闇の先を覗き込む。
そこには、一人の少女がいた。
(あれは……)
現代日本の病室で見かけるような、機能性重視の患者服。身体の至るところに痛々しい包帯が巻かれ、白い布からは微かに血の気が滲んでいる。
(やはり病人か。あの服装からして、日本からの転移者か? けが人だったので使えないと思われて地下牢に入れられた……? いや、いくら何でもそんな酷いことはしないだろうが)
誠一は助けようと歩を進めるが、ふと足を止めた。
相手は十代半ば、中学生か高校生くらいの年頃だ。
対する自分は、二十六年間の放浪生活(迷宮生活)を経てきた不審者。身だしなみは整えているとはいえ、得体の知れない武器を下げた四十代のおっさんである。
いきなり暗闇から声をかければ、恐怖で心臓を止めてしまうかもしれない。
躊躇う誠一。
だがその時、少女が力なく顔を上げた。
彼女の視線が、誠一の姿を捉える。
そこにあったのは、悲鳴でも、怯えでもなかった。
少女の大きな瞳に宿っていたのは――
絶望と諦め、そして底知れない「虚無」が広がっていた。




