第21話 剣聖
誠一は『剣聖』になった。
心血を注いで積み上げた『剣術:レベル53』を対価に捧げ、彼は新たな地平へと至った。
劣化交換に伴う「おつり(余剰SP)」は、ほとんど発生しなかった。
それはつまり、『剣聖:レベル1』というスキルの価値が、極限まで高まった『剣術:レベル53』とほぼ同等――あるいは、それを僅かに凌駕する重みを持っていることを意味していた。
「……なるほど。レベル1でこれか。身体の芯が、別の生き物に書き換わったみたいだ」
誠一がこの迷宮に堕ちてから、数えて二十六年の月日が流れている。
ほぼ毎日欠かさず摂取してきた『ハイポーション』の超常的な回復効果により、彼の肉体は異世界に放り出された四十代の頃のまま、全盛期の瑞々しさを保っていた。
しかし、その内実までもが「ただのおっさん」のままであるはずがない。
一万日に及ぶ死闘と、それに伴う数百万回の剣撃。
その果てに得た『剣聖』の力。今の誠一には、説明文を読まずとも、自分に何が可能で、どれほどの理を手にしているかが手に取るように理解できた。
彼は淡々と、長年過ごした拠点の整理を始めた。
予備の食料、劣化交換で得た数々の便利道具、そして思い出深い数冊のメモ帳。
それらを大きめのリュックに詰め込み、背負い直す。
歩き出す直前、彼は一度だけ後ろを振り返った。
この階層で唯一、安らぎを与えてくれた「家」だ。
「……世話になったな」
小さく呟き、彼は名残惜しさを断ち切るように背を向けた。
慎重な彼であれば、普通は「新スキルのレベルを上げてから」と考えるだろう。
だが、今の誠一にその必要はなかった。二十六年間の蓄積は、すでに彼を「準備不足」という概念から解き放っていたからだ。
***
通路の陰から、シャドーラビットが凄まじい脚力で襲い掛かってくる。
誠一は歩みを緩めることすらなく、抜いた剣を無造作に一閃した。
「空波斬」
剣が空気を薙ぐ。
それだけで大気が悲鳴を上げ、鋭利な衝撃波が一直線に放たれた。
かつては牽制にしかならなかったその技が、今は絶大な破壊の権化と化していた。
ザシュッ――。
魔物は悲鳴を上げる間もなく、胴体から真っ二つに断ち切られて地面に転がる。
誠一は死骸を一瞥することもなく、流れるような足取りで進む。
このエリアの魔物は、もはや障害物ですらない。歩道に転がる小石を避ける程度の労力で、彼は死を振りまいていった。
次の魔物が現れる。
誠一は立ち止まらず、舞うように剣を振る。
一撃目の『空波斬』で脚を断ち、体勢を崩したところへ間髪入れず二撃目。
衝撃波が頭部を正確に貫き、魔物は物言わぬ肉塊へと変わる。
その一連の動作に、一切の淀みも、力みもなかった。
『剣聖』としての誠一は、もはや戦っているというより、ただそこに「流れている」ようだった。大気の揺らぎに身を任せ、現れる魔物という「不純物」を、あるべき場所へと還していく。
迷宮の最深部、主の部屋へと続く竪穴。
誠一はこの階層の隅々まで知り尽くしている。
かつて命を賭して作成した地図を広げる必要すらない。
すべての通路が、自らの庭のように脳裏に刻まれていた。
道中、群れを成した魔物たちが立ち塞がる。
誠一は歩みを止めず、連射される『空波斬』の乱舞で通路を掃除していく。
一撃で倒しきれないタフな個体がいても、彼が眉を動かすことはない。二撃目、三撃目が、吸い込まれるように急所を穿つ。
迷いなく、静かに、そして残酷なまでに正確な排除。
やがて洞窟の開けた場所に、この階層の門番とも言える進化型のシャドーラビットが姿を現した。
誠一は速度を落とさず、正面から歩み寄る。
魔物が咆哮し、巨大な角を突き立てて突撃してきた。誠一は剣を抜くことすらなく、ただ歩き続けた。
あと数センチで角が胸を貫く――
その極限の瞬間。
キンッ!
という澄んだ音が洞窟に響き、誠一の手には既に抜き放たれた剣が握られていた。
それはスキルによる衝撃波ではない。
純粋な、極まった『剣聖』の神速の一太刀。
敵の強靭な肉を、岩のような骨を、そしてその生命の根源すらも、誠一の剣は等しく両断していた。魔物の巨体が、物理法則を忘れたかのように音もなく左右に分かれ、崩れ落ちる。
誠一は血を払うこともなく、そのまま重厚な扉の奥へと足を進めた。
***
次の広間の魔物も、文字通り赤子の手を捻るように仕留めた。
そしてついに、その先にある、一段と冷たく澱んだ空気の漂う通路へと踏み込む。
この奥には、彼に「死」と「絶望」を教え込んだ怪物が待っている。
だが、誠一の心は驚くほど凪いでいた。
震えもなければ、昂りもない。
ただ、そこにある仕事を片付けに行くような、静かな平常心。
暗い洞窟を抜け、巨大な大部屋を前にして、誠一は一度だけ足を止めた。
背負っていたリュックを地面に下ろし、邪魔な肩紐を外す。
今の彼に必要なのは、腰にある一振りの剣だけだった。
大部屋に足を踏み入れる。
(……初めてここに来たときは、空気の重圧だけで体が押しつぶされると思ったものだ)
そんな感傷を抱く誠一の正面。
見上げるような巨体を持つ『一階層の主』が、微動だにせず彼を凝視していた。
誠一は、相手の間合いを測りながら、ゆっくりと歩みを進める。
ボスまであと十歩。
誠一が剣の柄に指をかけた瞬間、静寂が弾けた。
巨体に見合わぬ、爆発的な初動。
常人には「瞬間移動」にしか見えない速度で、ボスが角を突き出し肉薄する。
だが、今の誠一にとって、その動きは「止まって」いた。
スキル「見切り」「魔力視」「視線捕捉」「動体追尾」が、敵の筋肉の動き、視線の先、魔力の流れを完全に捕捉している。
横なぎの突進を紙一重で躱しながら、誠一はカウンターの閃光を走らせた。
ズシャッ!!
巨大シャドーラビットの強固な側面が、深く、長く切り裂かれる。
激痛に狂ったボスは、傷を無視して巨大な顎を剥き出しにし、誠一を噛み砕こうとした。
ガゴッ!!
凄まじい音と共に、誠一がいたはずの地面が岩ごと砕け散る。
しかし、そこに誠一の姿はない。
『瞬間転位』と『瞬足』を組み合わせ、彼は既に広間の端まで離脱していた。
「……さて、接近戦で倒してもいいが、少し試させてもらおうか」
誠一は、この二十六年間で膨大な数値に達していたスキルポイント(SP)を解放した。
念じるのは『鉄の剣』の取得。
彼の手に、鞘すらない剥き出しの新品の剣が現れる。
誠一はその剣に、極限まで練り上げた「気」を流し込んだ。
「闘気剣」
淡い光を放つ剣を、誠一は全力でボスへと投げつけた。
一本、また一本。
異常な速度でSPを消費し、剣を生成し、投擲する。
それはもはや「剣術」という枠を越えた、誠一にしかできない「物量による蹂躙」だった。
投げ放たれた20本以上の剣は、すべてが『闘気剣』の加護を受け、ボスの鋼のような皮膚を容易く貫通。ボスの肉体を突き抜け、背後の岩壁を粉砕して深々と突き刺さった。
……静寂が戻る。
身体中に二十以上の巨大な穴を穿たれたシャドーラビットは、反撃の意思を示す間もなく、絶命して巨体を崩した。
地響きと共に迷宮全体が激しく振動する。
ボスの死をトリガーに、壁の一部が崩落し、地下二階層へと続く深淵な穴が口を開けた。
「……ふぅ。これでようやく、次の階層に挑戦できる」
勝利の余韻に浸ることもなく、誠一は鞘に剣を収めた。
無実の罪で投獄されてから始まった、一人きりの迷宮攻略。
その第一歩が、二十六年の時を経て、ようやく完遂された瞬間だった。




