第20話 進化
迷宮という閉ざされた世界に誠一が足を踏み入れてから、六年の歳月が流れた。
この六年間、彼はただひたすらに、スキルの取得とレベル上げというルーチンを繰り返してきた。
かつて満員電車に揺られ、数字の並ぶ書類と格闘していた男は今、修行僧のような静謐さで己を削り続けている。
時折手に入るハイポーションの恩恵か、誠一の肉体は驚くほど若々しいまま保たれていた。召喚時に着ていた安物のスーツや革靴は、とっくの昔に戦いの中で千切れ去ったが、困ることはなかった。
倒した魔物に『劣化交換』を施せば、機能性の高い衣類や頑丈なブーツが手に入る。鏡はなくとも、手入れの行き届いた、切り揃えられた髪が、彼の「心」がまだ折れていないことを証明していた。
一階層の魔物であれば、もはや呼吸をするのと同じほど容易く屠れる。
唯一の例外――
最奥に鎮座する、あの巨大な主を除いて。
誠一はまだ、あの扉を開けていない。
「……万全という言葉すら生ぬるいほど、自分を追い込んでからだ」
石橋を叩いて壊すほどの慎重さ。
それこそが、凡人を自称する彼が辿り着いた生存戦略だった。
***
現在、誠一が保有するスキルは、固有スキル『劣化交換』を除いて32個に達していた。それは彼という器が持ち得る、設計上の限界値だった。
【誠一の保有スキルリスト】
- 剣術系統:
剣術、見切り、瞑想、気力増強、剣閃強化、抜刀術、精神統一、闘気剣
- 知覚系統:
遠視、視界拡張、魔力視、幻視遮断、暗視強化、視線捕捉、弱点看破、動体追尾
- 攻撃系統:
斬撃、鎧通し、空波斬、断魔、斬鉄、無拍子、影斬、幻影斬
- 機動力系統:
健脚、瞬足、体力増強、精神力増強、踏破、静歩、落下耐性、瞬間転位
新たなスキルの数々は、誠一を多機能な「戦術の塊」へと変貌させていた。
影を斬って実体に干渉する『影斬』、動作の予兆を抹消する『無拍子』。
そして短距離ながら空間を跳躍する『瞬間転位』。
これほど多様な「札」を持つ人間は、この世界の歴史を紐解いても類を見ないだろう。
スキルの取得数が上限に達したことで、誠一の研鑽は「質」の向上へと移行した。
そこで彼は、驚くべき事実に気づく。
関連するスキルを複数保持することで、それぞれのレベル上限――「才能限界」が引き上げられていたのだ。かつて17で止まっていた剣術の天井は、今や23を超えてもなお、止まる気配を見せない。
「……なるほど。投資した分だけ、天井が高くなる仕組みか。なら、答えは一つだ」
誠一は再び、迷宮の闇へと消えていった。
***
それから、さらに二十年という歳月が積み重なった。
迷宮入りから数えて二十六年。
誠一は未だ、ボスの部屋へと続く重厚な扉を潜っていなかった。
それは恐怖による停滞ではない。
ましてや勝ち目がないからでもない。
彼はただ、己を研ぎ澄ますという行為そのものに、底知れぬ充足を見出していたのだ。
迷宮を巡り、洞窟の静寂を抜け、魔物と剣を交える。
一日も欠かさぬルーチン。
もはやそれは「戦闘」ではなく、自分という存在の深層を覗き込む「対話」へと昇華されていた。
『瞑想』で高められた気力は、彼に一睡もせず数日間戦い続けるタフネスを与え、迷宮に棲まうあらゆる生命の鼓動が、掌の上にあるかのように鮮明に感じ取れるようになっていた。
誠一は、黙々と対話を続けた。
いつの間にか、『剣術』のレベルは53という常軌を逸した数値にまで到達していた。
それでもなお、才能の壁は見えない。
そして、ある朝。
誠一は静かな予感と共に目を覚ました。
「……準備は、整ったかな」
現在のスキル枠は、32個ですべて埋まっている。
今の彼には確信があった。この極限まで高まった『剣術:レベル53』を、もう一度『劣化交換』にかければ、どうなるか。
それは、二十六年前の自分であれば、恐ろしくて検討すらできなかった博打だ。
長年連れ添った最大最強の武器を捨てるに等しい行為なのだから。
しかし、今の誠一に迷いはない。
膨大なスキルの相乗効果によって拡張された彼の「才能」は、すでに新たなステージへの鍵を掴んでいた。
誠一は、自身の魂そのものとも言える『剣術』の文字を指先でなぞり、『劣化交換』を起動した。
――視界が、真っ白な光に包まれる。
二十六年の月日。
数万回に及ぶ抜刀。死線を潜り抜けた記憶。
そのすべてが圧縮され、研ぎ澄まされ、たった一つの純粋な「理」へと収束していく。
ステータス画面から、馴染み深い『剣術:レベル53』の文字が消失した。
代わりに、そこへ静かに刻まれたのは――。
【スキル:剣聖】
重厚な、それでいてどこか軽やかな力が全身を巡る。
この日、迷宮の片隅で。
誰に知られることもなく、歴史上もっとも孤独で、もっとも執念深い『剣聖』が誕生した。
「……ふぅ。よし、行こうか」
誠一は、腰の剣に軽く触れた。
二十六年越しの決着をつけるために。
彼はボスと戦うと決めた。
迷宮一階層の最深部へと向かう。




