第15話 転移者の終わりと始まり
陽翔の意識は、唐突な「終わり」を理解できていなかった。
視界の端から現れたその魔族を認識した瞬間、彼の魂は「勝てない」という冷徹な直感に支配された。だが、体が反応するよりも早く、世界は暗転した。
――いや、暗転したのは世界ではなく、彼の頭部が胴体から離れたからだ。
森の奥から染み出すように現れた魔族は、物理法則を無視した加速で陽翔の懐に潜り込み、無造作に伸ばした片腕で彼の首をもぎ取った。
「いい剣を持ってるじゃねーか。まあ、持ち主が鈍間じゃ宝の持ち腐れだがな」
噴き上がる鮮血。
陽翔の身体が糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちる。
勉も、麻衣も、そして王国の精鋭兵たちも、叫び声を上げることすら許されなかった。誰もが、目の前で起きた「英雄の死」という現実を脳が拒絶し、時間が凍りついたかのような錯覚に陥っていた。
勉は、親友の死に目を見開いたまま硬直していた。
魔族の男が、土を踏む音も立てずに歩み寄ってくる。
その一歩一歩が、まるで己の死へのカウントダウンのように彼の耳の奥で響いた。
「……ぁ……あ……っ」
勉は必死に肺へ空気を送り込もうとしたが、喉が引き攣れて音にならない。
魔族の腕が、鞭のようにしなって彼の胸元を打った。いや、打ったのではない。鋭い爪を先頭に、彼の胸板を容易く貫通したのだ。
肉を断ち、肋骨を叩き折り、まだ脈動を続けていた心臓を指先で握り潰す。
勉の瞳から急速に光が失われ、彼は自らの血溜まりの中に沈んでいった。
麻衣は、二人の無残な死を見た瞬間、全ての思考を「逃走」へと振り切った。
足が千切れるほどの勢いで地面を蹴る。
「嫌……嫌、嫌、嫌ぁッ!」
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにし、呼吸を激しく乱しながら森の迷宮を駆ける。
だが、背後の「死の匂い」は一向に遠ざからない。
王国兵士たちは震えながら剣を構えたが、その刃先は生まれたての小鹿のように揺れていた。
彼らには分かっていた。
自分たちが今相手にしているのは、この世の理から外れた「捕食者」なのだと。
魔族の男は、兵士たちを路傍の石ころほどにも気に留めず、風のような速さで駆け抜けた。
圧倒的なスピード。
それは回避も妨害も不可能な暴力。
麻衣が背後を振り返る暇さえ与えず、魔族は彼女の進行方向へと回り込んでいた。
「逃がさねーよ。お前が一番、美味そうな泣き声をしてる」
冷たく、乾いた声が耳元で響いた。
麻衣は足を止めることさえできず、ただ絶望に染まった瞳で眼前の怪物を凝視する。
魔族は、彼女の頭部を鷲掴みにした。
まるで地面に落ちた小石を拾い上げるような、あまりにも無造作な動作。
凄まじい筋力によって、彼女の華奢な首から上が引きちぎられた。
骨が砕け、噴水のように血が噴き出す。
麻衣の身体は、静かに倒れ伏した。
魔族の手には、陽翔と麻衣の頭部がぶら下がっている。
その顔には、狂気と愉悦が入り混じった歪な笑みが浮かんでいた。
「上手そうな食料が手に入ったぜ。今日は最高の日だな」
そう吐き捨てると、魔族は霧が晴れるようにその場から姿を消した。
後に残されたのは、腰が抜けて立ち尽くす王国の精鋭兵たちと、三つの物言わぬ死体。
かつて世界を救うと豪語した「転移者」たちの、あまりに呆気なく、惨酷な終わりだった。
***
この世界には今、かつてない災厄の化身が顕現していた。
『煉獄王』。
魔王配下の巨大魔獣『ドレイル=マルバス』。
王国周辺で魔物が急増し、凶暴化したのは、すべてこの魔獣王の目覚めによる影響だった。
さらに恐るべきは、その「邪悪な波動」だ。
ドレイル=マルバスの出現に伴い、その影響を強く受けた「邪悪な精神を宿した人間」は、肉体を作り変えられ、魔族へと変貌する。
彼らは魔獣の眷属となり、文明を滅ぼすための手先と化すのだ。
陽翔たちを屠った魔族もまた、かつては人間だった者――煉獄王の波動に当てられ覚醒し、強大な力を得た「かつての同胞」の一人であった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
地上での惨劇は二年前――
その悲劇を知る由もない誠一は、一階層ボスの圧倒的な存在感に打ちのめされたまま、迷宮の第一階層から「城の地下牢」へと戻る決意を固めていた。
今の自分では勝てない。
ならば、装備を整えるしかない。
彼には、子供のころにプレイしたRPGゲームの進め方が沁み込んでいる。
手詰まりの状況を打開するために、自然と装備の強化を求めた。
だが、誠一は重い思考の渦に沈んでいた。
たとえ牢屋の兵士と話ができたとしても、相手が自分を解放してくれる道理がない。
(三年前、あの高校生に言われるがまま俺を閉じ込めた連中だ。今さら戻ってきた男の話をまともに聞くとも思えないし……そもそも、俺のことなんて誰も覚えていない可能性の方が高いか)
食料の配給も受けず、三年間も生存していた男。
まともな説明をすればするほど、怪しまれ、異端として処刑される未来しか見えなかった。
「……まともに交渉するのは無理だな。なら、こっそり抜け出すしかないか」
しかし、そんな隠密スキルは持っていない。
「……いや、待てよ。鉄格子に『劣化交換』を使えば、なんとかなるか?」
もし格子をパンや水に変換できれば、物理的に脱獄は可能だ。
だが、そこには大きな懸念があった。
(自分の持ち物じゃないものを、このスキルで変換できるのか……?)
検証のため、誠一は拠点の床に転がっていた変哲もない小石に手をかざした。
「劣化交換」
……だが、何も起きない。
かつて王宮で能力を披露した際は、あくまで「貸し出された」物品、つまり一時的に所有権が自分に移ったものに対してのみ発動していた。
自然物や他人の所有物には干渉できないのだ。
「となると、鉄格子は無理か。手詰まりだな……」
誠一は拠点に戻り、備え付けの椅子に腰掛けた。
八方塞がり。
才能限界。
だが、絶望の際で、彼の脳裏に一つの「狂った仮説」が閃いた。
「このスキルは、自分の所有物なら変換できる……。なら、俺自身の能力はどうだ?」
誠一は半信半疑でステータス画面を開き、自分自身の存在を「対象」として意識を集中させた。交換対象は、すでに才能の限界を迎え、これ以上の成長が見込めない『剣術:レベル17』。
「……劣化、交換」
その瞬間、誠一の全身を、内側から削り取られるような奇妙な感覚が駆け抜けた。
青白い光が収束し、ステータス画面が激しく書き換わる。
限界に達していた『剣術レベル17』が消滅し、代わりに新たなスキル――
『見切り』が刻まれた。
【見切り:敵の予備動作を察知し、回避・反撃の精度を向上させる】。
さらに、高レベルスキルを「劣化」させたことによる膨大な差分が、ポイントとして還流してくる。『おつり』として表示されたのは、120という巨額のスキルポイントだった。
誠一は目を見開いた。
剣術スキルを失ったことで、スキル枠には再び空きができている。彼は還流してきたポイントのうち100ポイントを即座に投じ、再び『剣術』を「再取得」した。
(……そういうことか。一度限界まで上げたスキルを「種」にして、新しい技能を派生させ、自分自身をリセットできるのか……!)
それは、いわば人生の「強くてニューゲーム」を部分的に繰り返すような、あまりにもチートじみた応用術だった。
剣士としての技術を血肉に変えつつ、再び成長の余地を作り出す。
「これなら……。時間はかかるが、あの化け物に届くかもしれない」
閉ざされた迷宮。
限界に達した肉体。
だが、誠一の目には、三年目にして初めて「真の攻略法」を見出した者の、鋭い光が宿っていた。




