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第14話 限界の先と、迫る脅威

 誠一は、逃げ出した。

 第一階層ボスの部屋を目前にして、彼は己の生存本能が叫ぶ警報に逆らうことができなかった。


 あの威圧感――。

 一歩踏み込めば、思考する間もなく命を奪われる。その理屈を超えた直感が、彼の足を止め、反転させたのだ。


 引き返す足取りは泥のように重く、衣服の下では冷たい汗が肌に張り付いている。暗い通路を歩いている間じゅう、あの巨大な魔物の気配が背後から音もなく追ってくるような錯覚に襲われ、誠一は何度も意味もなく振り返っては、闇を凝視した。


(……逃げ出したんだ、俺は)


 自嘲するような思考が胸を掠める。


 だが、同時に冷静な自分もいた。

 あれは、根性や覚悟だけでどうにかなる相手ではない。


「……死んだら、何も残らないからな」


 誠一は自分に言い聞かせるように小さく呟き、住み慣れた拠点へと戻っていった。


 途中、この三年間で屠ってきた強敵たちの姿が脳裏をよぎる。

 かつては一戦ごとに死を覚悟した相手も、今ではただの日常の一部だ。誠一は確かに、この迷宮で誰よりも「実戦」を積み、強くなっていた。


 それでも、あの最奥にいた存在だけは――

 生物としての格が、文字通り別格だった。


 拠点の淡い明かりが見えたとき、誠一はようやく肺から深く息を吐き出すことができた。

 入り口の段差を越え、安全圏の静寂に身を浸すと、耳の奥で自分の激しい鼓動だけが、やけに大きく響いていた。



 ***


 誠一は薪に火をつけ、赤々と燃える炎の前に腰を下ろした。


 パチパチと爆ぜる音を聞きながら、あの魔物の姿を何度も反芻する。

 山のような巨躯、空間を歪ませるほどの邪気、そして目が合った瞬間に感じた、明確な“死”の予感。


(……今のままじゃ、逆立ちしたって勝てない)


 悔しさは確かにあるが、それ以上に彼の思考は現実的だった。

 無謀な突撃は、勇敢ではなくただの自殺だ。


 誠一は、勝機をゼロから一へと引き上げるために、まず残酷なまでの現状を整理し始めた。


 視界の端にステータスを展開する。


 名前、HP、MP。

 そして、誇らしくもあり、絶望の証でもある「才能限界」の文字が並ぶ保有スキル。どれほど経験を積もうと、もうこれ以上、地力で強くなることはできない。


(あの部屋に入れば、たぶん数秒で終わるな)


 剣術レベルが上がったことで、皮肉にも相手の「底知れなさ」が正確に測れてしまう。今の自分に足りないのは、技術でも経験でもなく、圧倒的な「才能」だ。


「……だとすると、装備品で差を埋めるしかないか」


 誠一の脳裏に、召喚直後に出会ったあの三人の高校生たちの姿が浮かぶ。


 彼らは召喚の儀式の後、この世界から惜しみなく与えられたスキルポイントを使い、伝説級の武具を手に入れていた。

 もし、自分もあのレベルの装備を手にすることができれば、絶望的な戦力差を埋められるかもしれない。


「そこに賭けるしかないよな。ポイントなら、腐るほどあるんだし」


 幸い、鉄の剣はポイントさえあれば無限に生成できる。

 これを商品として販売することができれば、強力な装備を手に入れるための資金源になるはずだ。


 だが、そのためには大きな障害がある。


「結局、ここを出て、誰かと交渉しなきゃ始まらないんだよな……」


 誠一は、迷宮の奥へ進むのを一時中断し、地下牢エリアへと戻る決意を固めた。


 自分を裏切り、見捨てた王国。

 その末端にいる兵士たちを相手に、交渉をする必要がある。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 異世界に召喚された三人の高校生は、誠一の孤独な戦いとは対照的な「英雄」としての日々を謳歌していた。


 魔法戦士・山田陽翔。

 魔法使い・神谷勉。

 ヒーラー・佐伯麻衣。


 召喚から一年。

 彼らは王国軍の手厚い庇護のもと、精鋭騎士たちと共に「魔王軍の討伐」という名目で各地を転戦していた。


 豪華な食事、ふかふかのベッド、そして民衆からの称賛――彼らにとって、この世界は自分の万能感を満たしてくれる最高のゲームステージだった。


「ほら、そっちに逃げたぞ!」


 陽翔が声を張り上げ、逃げ惑う魔物を追い詰める。


「任せてくれ。まとめて炭にしてやるから!」


 勉が自信満々に呪文を唱え、高度な火炎魔法を叩き込む。

 激しい熱風と共に、魔物たちが断末魔を上げて消滅していく。


「怪我をしている人がいたら言ってください。すぐに治しますね」


 麻衣は、汚れ一つない神官服をなびかせ、後方の兵士たちに回復魔法を振りまく。


 彼らが戦っているのは、この世界の住人には手に負えない魔物の群れ。

 だが、今の彼らにとって、それは「ちょっと手応えのあるモンスター」に過ぎなかった。


 日本にいた頃の常識では、直視することさえ憚られるような異形の化け物。

 圧倒的な質量と俊敏さを備えた獣。


 しかし彼らは、転移者特典という名の暴力で、一方的な蹂躙を続けていた。


「よし、あとは――あのでかいのだけだな」


 陽翔が、群れのボスを見据える。


 相手は、巨大なウサギ型の魔物。

 凶悪な体毛、異様に発達した筋肉、そして信じられないほどの俊敏さを備えた化け物。それは、誠一が地下迷宮で遭遇した階層ボスと、同種の個体だった。


 しかし、彼の中に恐怖はない。

 あるのは、自分が選ばれた存在であるという絶対的な全能感だ。


 彼は愛剣に最大級の攻撃魔法を付与し、刀身を激しい焔で包み込んだ。


「いくぞ……『火竜炎裂翔波斬』ッ!」


 轟音と共に、世界の色彩が赤く染まる。

 炎を纏った一撃は、魔物の強靭な肉体をバターのように容易く両断し、その体内を内側から焼き尽くした。


 勝利の雄叫びを上げる兵士たち。


「さすがは勇者様だ!」


 騎士たちの称賛を浴び、陽翔は満足げに剣を収める。

 

 だが、その凱歌は、不意に現れた「異物」によって、瞬時に凍りつくこととなった。


「へぇ……派手な炎が上がったと思えば。楽しそうな連中がいるじゃねえか」


 粘りつくような、どす黒い声。

 兵士たちの歓声の間を割って悠然と姿を現したのは、禍々しい角を頭部に戴いた、一体の『魔族』だった。


 その男が放つプレッシャーを感じた瞬間、陽翔の顔から血の気が引いた。


(な、なんだ……こいつ……!?)

 

 一目でわかる。


 ――強さの次元が違う。


 これまで戦ってきた魔物たちが、まるで可愛らしい愛玩動物に思えるほどの、圧倒的な魔力の密度。空気が物理的に重くなり、呼吸をするだけで肺が焼けるような錯覚を覚える。


 目の前にいるのは、攻略対象のモンスターなどではない。

 自分たちを容易く食い殺し、蹂躙できる、本物の「死の具現」だった。


 自分たちの力が、チート武器や特典によって支えられただけの「脆い城」であることを、彼らは最悪の形で自覚させられることとなった。

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