第13話 凡才の限界
誠一がこの暗鬱な地下迷宮に足を踏み入れてから、三年の月日が流れた。
かつては死を待つ場所でしかなかった迷宮も、今や彼にとっては、その隅々までを知り尽くした「生活圏」へと変わっていた。
倒した魔物を『劣化交換』して得た、ざらついた紙とペン。
それらを使って誠一が自作した地図には、迷宮の構造が描き込まれている。
拠点から広大な広間を抜け、いくつもの分岐路を辿った先にある、開けた大空間。そこには、第一階層の秩序を守る門番のような、中ボス級の強力な個体が潜んでいることも把握していた。
中ボスを討ち、さらに奥へと進めば、より凶悪な強敵が姿を現す。
これまではそこが行き止まりだと思っていたが、最近になり、二度目の中ボスを倒した部屋のさらに奥に、新たな穴を発見した。
(おそらく、あの先に……この階層の主がいる)
誠一は、使い古した地図の端を指でなぞりながら、そう確信していた。
***
三年にも及ぶ過酷な潜伏生活を経て、無機質だった居住スペースには、不揃いながらも生活の道具が並ぶようになった。
誠一自身の肉体も、かつての冴えない中年サラリーマンの面影を捨て、岩のように硬い筋肉と、獣のような鋭い眼光を宿すに至っている。
だが、右肩上がりに伸び続けていたステータスには、容赦のない「天井」が訪れた。
スキルレベルが高くなるにつれ、成長の速度は目に見えて鈍化し――
そして三カ月前、すべての技能が灰色の沈黙に包まれた。
現在のスキル構成は以下の通りだ。
- 剣術:レベル17(才能限界)
- 遠視:レベル12(才能限界)
- 斬撃:レベル15(才能限界)
- 健脚:レベル13(才能限界)
レベルの横に刻まれた『才能限界』という四文字。
それ以来、どれほど死線を潜り、数百の魔物を屠ろうとも、数値が動くことは二度となかった。
会社員時代、出世の限界や自身の能力の壁に直面した時の、あの重苦しい感覚が蘇る。
(結局、俺の限界はここ、ということか……)
剣士としての彼の「器」は大きくなかった。
今の自分に与えられた力だけで、この理不尽な迷宮をどうにかして踏破しなければならない。
手元のスキルポイントは、使う当てもなく1820ポイントまで積み上がっていた。
二十、三十と予備の鉄の剣を召喚したところで、使い手である自分の技量が頭打ちなら、それはただの鉄屑の山に等しい。
(町にでも行ければ、これを売って商売でも始められるんだろうけどな)
誰一人いない迷宮の深淵で、誠一は自嘲気味に息を吐いた。
「……まあ、立ち止まっていても時間は過ぎるだけか」
誠一は重い腰を上げ、愛剣を手に取った。
最奥に潜む「主」の居場所は分かっている。今日、彼は己の限界を承知の上で、その絶対的な強者に挑む決意を固めていた。
***
誠一は自作の地図を頼りに、迷いのない足取りで進む。
道中に現れる雑多な魔物たちは、もはや彼にとって脅威ではない。息を吸うように急所を貫き、死骸を無視して先を急ぐ。
やがて、最初の中ボスが立ち塞がった。
全長二メートルを超える、鋼のような筋肉を持つ変異個体。
素早さも破壊力も桁違いだが、誠一はすでにその予備動作のすべてを熟知していた。MPの消耗を計算に入れながら、一瞬の隙を突いて『斬撃』を叩き込む。
かつては死を覚悟した相手でさえ、今の彼にとっては「厄介な障害物」に過ぎない。
三カ月ぶりの本格的な戦闘だったが、誠一の動きに錆はなかった。
倒した巨体を劣化交換すると、期待していた通りの濃密な青い輝きが現れる。
「……よし。これで――万全の状態でボスに挑めるぞ」
ハイポーション。
誠一は冷たい液体を一気に煽り、身体の芯に活力が戻るのを確認してから、深淵へと続く最後の通路に足を踏み入れた。
***
通路は緩やかな下り坂となり、空気の密度が一段と増していく。
壁はぬめりを帯びた苔に覆われ、滴り落ちる水音が不気味に響く。
一歩進むごとに、心臓を直接大きな手で掴み上げられるような、圧倒的なプレッシャーが誠一の呼吸を乱した。
奥から漂ってくるのは、これまで嗅いだことのない濃密な死の臭気。
血と鉄、そして太古から続く獣の猛々しい体臭。
誠一の指先は、恐怖でわずかに震えていた。
手のひらに滲む汗。
背中を伝う冷たい戦慄。
それでも彼は、自分を奮い立たせるように剣の柄を強く握り込み、光り輝く通路の出口へと辿り着いた。
そこに広がっていたのは、もはや迷宮の一部とは思えないほど巨大な、静謐なまでのドーム状の空間だった。
そしてその中央。
すべてを拒絶するような威容を誇る魔物が、悠然と座していた。
「……っ」
誠一は、声にならない吐息を漏らして立ち尽くした。
全長五メートル。
この階層を支配する、真の「主」。
それは誠一の想像を遥か彼方へ置き去りにするほど、絶対的な「暴力」の化身だった。
逆立つ漆黒の剛毛。
岩山のように盛り上がった筋肉。その体から放たれる邪悪なオーラが、周囲の空間そのものを物理的に歪ませ、誠一の鼓動を強制的に抑え込んでいく。
(――次元が、違う)
部屋に入り、一歩踏み出した瞬間に、自分という存在が塵のように消し飛ばされる。
その確信が、冷徹な事実として誠一の脳を支配した。
レベルを上げ、技を磨き、三年間を費やして辿り着いた場所。
だが、その結末はあまりに無慈悲だった。
誠一は、剣を抜くことさえできなかった。
ただ、生物としての本能に従い、音を立てないよう、祈るような心地でゆっくりと後退した。
戦わずして、敗北した。
三年の歳月が、たった一瞥で否定された。
重い足取りで拠点へと戻る誠一の影は、いつになく小さく、頼りなげに見えた。
「……無理だ。あんなの……どうしようもないじゃないか」
誰もいない冷たい部屋で、誠一は崩れ落ちるように椅子に座り、膝に顔を埋めて震える声で呟いた。
かつての家族の面影も、復讐の誓いも、すべてが圧倒的な「力の差」の前に霞んでいく。
どうしても越えられない壁が、そこには聳え立っていた。




