第12話 強敵と希少な報酬
誠一は、目の前にいくつも口を開けた不気味な横穴のうち、直感に従って中央の一つを選び、その深淵へと身を投じた。
足を踏み入れる瞬間、湿り気を帯びた闇が肌にまとわりつき、胸の奥で生存本能が小さな警鐘を鳴らす。
だが、彼の目的はこの迷宮を単に彷徨うことではない。
踏破し、理を掴み取ることだ。
ここで立ち止まれば、日本の警察に追われる「殺人犯」としての汚名も、家族を奪った真犯人への報復も、すべてが永遠に闇へ葬られることになる。
(進むしかない。……死ぬより、あきらめる方が怖いんだ)
誠一は、いつでも抜刀できるよう、脂汗で滑りそうになる剣の柄に指をかけ、慎重に歩を進めた。
縦に長く伸びる、内臓のようなトンネルを抜けた先。
突如として視界が開け、円形劇場のような広大なドーム状の空間が姿を現した。
その部屋の最奥。これまでの暗闇とは比較にならない、重厚な魔物の気配が誠一の五感を突き刺した。
シャドーラビット――。
だが、それはこれまで誠一が作業のように狩ってきた個体とは、次元の違う「怪物」だった。
***
体長は優に一メートル半を超え、その姿はもはや愛嬌のあるウサギなどではない。
上半身は鋼のように硬く引き締まったやせ型だが、太ももの筋肉は膨れ上がり、岩肌を砕かんばかりの圧力を放っている。
毛並みはどす黒い赤色で、ランタンの灯火を吸い込むような不気味な艶を帯びていた。額の角は太く、その根元はどす黒い怨念のような色を湛え、先端は凝固した血のような赤に染まっている。
真紅に輝く双眸が誠一を捉え、一切の瞬きもせず獲物の動向を見据えていた。
(……こいつは、今までのとは違う。ただの『強化版』じゃない)
段階的に強くなった個体ではなく、極限環境で淘汰を勝ち抜いた進化個体――
異質な「捕食者」の気配。
誠一は、無意識にゴクリと喉を鳴らした。
心臓の鼓動が耳元で暴力的に打ち鳴らされ、逃げ場のない空間で酸素が薄くなっていくような錯覚に陥る。
敵は、ただそこに静止しているだけだ。
それなのに、空気の重圧が誠一の全身を押し潰そうとしていた。洞窟の冷気が、抉られた傷口をなぞるように冷酷に肌を刺す。
(だが……今の俺なら、勝てるはずだ。レベルは上がった。剣も振り続けてきた)
自分自身に言い聞かせるが、本能が鳴らす警鐘はやまない。
一歩踏み出せば、次の瞬間に首が飛んでいるかもしれない。そんな死の予感が背筋を駆け上がる。
(部屋に入れば、強制的に戦闘が始まる。……逃げ道はないぞ)
誠一は、震える右手に力を込め、静かに剣を抜いた。
キィィン、という硬質な音が静寂を裂き、戦いの火蓋が切って落とされる。
誠一が境界線を踏み越えた、その刹那――
魔物の巨体が爆ぜるように動く。
***
誠一が視認した瞬間、魔物はすでに五歩先という、絶望的な距離まで肉薄していた。
あれほどの巨体が、重力を無視したような異様な加速で突進してくる。
(速い……ッ!)
誠一は即座にスキル『斬撃』を発動。
魔力を込めた剣を振り上げ、正面から衝突する軌道をわずかにずらして振り下ろした。
刃が敵の顔面を捉え、額の角ごと肉を深々と切り裂く手応え。
だが――
代償はあまりに大きかった。
巨大な質量と速度を持った敵の肉を、使い古された刃で断ち切った瞬間、誠一の剣が悲鳴を上げた。
パキン、という乾いた金属音が響き、あんなに大切に使っていた鉄の剣が、中央から無残に折れ飛ぶ。
さらに、激痛が遅れて誠一の脳を灼いた。
「……ぐ、あ……ッ!?」
すれ違いざま、魔物の鋭い前歯が誠一の右腕を、肉ごと抉り取っていたのだ。
新調した服が裂け、真っ赤な鮮血が岩床に飛び散る。数秒遅れて襲ってきたのは、神経を直接火で炙られるような激痛だった。
誠一の背後で、着地したシャドーラビットが反転する。
一撃では仕留めきれなかった。
武器は失われ、利き腕は使い物にならないほどに損壊している。
誠一は迷わず、折れた剣の柄を捨てた。
それを見た魔物が、勝利を確信したような咆哮を上げて突っ込んでくる。
(ケチっている場合じゃない。死んだら全部終わりだ!)
彼は即座にスキルポイントを20消費し、『鉄の剣』の召喚を実行した。
空間が歪み、一瞬で誠一の掌に、重量感のある新品の剣が実体化する。
相棒だった古い剣との別れを惜しむ暇など、一秒たりともない。
アドレナリンが痛みを一時的に麻痺させ、誠一の集中力を極限まで高めていた。
誠一は、新しい剣の重みを頼りに、再び全身の魔力を込めて『斬撃』を放った。
今度は、敵の傷口をさらに押し広げるように、肩から胴へと斜めに断ち割る。
新しい刃は、魔物の強靭な骨をやすやすと叩き折り、内臓までを両断した。
崩れ落ちる巨体。
(……まだ、だ。息の根を止めるまで……!)
誠一は、躊躇なく魔物の首筋に剣を突き立てた。
刃が脊椎を断ち切り、魔物の紅い瞳から光が失われていく。
再び、静寂が訪れる。
誠一は、腕から流れる血を抑えながら、膝を突いて激しい喘ぎを漏らした。
そして、まだ温もりを持つ死体に、最後の力を振り絞って手をかざす。
「……劣化、交換……」
魔物の亡骸が青白い光に溶け、次の瞬間――
そこに現れたのは、一本のポーションだった。
だが、それは先ほどまでのものとは明らかに異なっていた。
瓶のガラスはクリスタルのように澄み、中の液体は深海のような濃密な青い輝きを放っている。
ハイポーション――。
致命的な外傷すら一瞬で塞ぐ圧倒的な治癒力に加え、副次効果として『細胞の活性化』をもたらす希少品。それは、飲んだ者の肉体年齢を、「一日」若返らせるという、この世界の秘薬だった。
しかし、異世界の知識に乏しく、観察眼も鈍い誠一にとって、それは「ちょっと豪華な色の水」に過ぎなかった。
「……。あんなに強い敵を倒したのに、出てくるのは、いつもの回復薬か」
誠一は不満を言いながら、そのハイポーションを煽った。
喉を通る液体は、これまでになく清涼で、全身を駆け巡る感覚も凄まじい。
抉り取られた腕の肉が、まるで逆再生の映像を見ているかのように一瞬で盛り上がり、皮膚が繋がっていく。
「ふぅ……。まあ、このタイミングで出てくれて助かったけど」
そう言いながら、少しだけ肩を落とす。
手に入れた回復薬が、“特別”なものだとは気づかずに。
部屋の奥には、さらに二つの通路が続いていた。
これまでの通路よりも広く、奥からはより冷え切った風が吹き込んでいる。
誠一は、じっとその穴を見つめた。
進むべきか、引くべきか。
(……今日は、ここが限界だ。腕は治ったが、精神的な疲労が酷すぎる)
彼は、元来た道へと踵を返した。
決して不必要な蛮勇は振るわない。着実に、臆病なまでに慎重に。
「じっくり進めばいい」
暗い洞窟を、新品の剣を抱えた中年の男が、再び一歩ずつ、拠点の明かりを目指して歩き出す。
それが、誠一の迷宮攻略方針だった。




