第10話 迷宮暮らし
誠一は、迷宮の奥へと少しずつ行動範囲を広げていた。
魔物を一匹ずつ確実に屠り、周囲の安全を慎重に確認しながら進む。
決して己の技量を過信せず、無理な深追いはしない。それが、この死地で誠一が生き延びるための鉄則だった。
だが、魔物との戦闘は、肉体以上に精神を激しく摩耗させる。
常に背後を警戒し、闇の揺らぎに神経を尖らせる。
そんな極限状態は、一日に何度も続けられるものではない。
安全を確保し、敵を倒し、確かな糧を得て、拠点に戻る――。
そんな単調で、しかし命懸けの繰り返しが、いつしか誠一の日常となっていた。
だが、どれだけ慎重に、臆病なほど注意深く動いていても、死の牙は唐突にその喉元へ突き立てられる。
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この日、誠一が踏み入れたのは、岩柱も遮蔽物もない、不自然なほど広々とした空間だった。
視界が開けていることは、敵を見つけやすいと同時に、自らの身を隠す場所がどこにもないことを意味する。
目の前の一匹と対峙し、その赤い瞳を射抜くように構えていた誠一は、背後からの、冷徹な殺気に気づくのが遅れた。
(まずい……挟み撃ちだ!)
この階層に出現するシャドーラビットは、生活拠点から離れるほどに、その凶暴性と異質さを増していく。
この空間にいる個体は、額に一本の、硬質な黒い角が突き出していた。
あの角で突撃を受ければ、並の人間なら胴体を容易く貫かれ、即死する。
誠一の脳裏に、自らの腹部が肉塊となって散るイメージが閃光のようによぎった。
否が応でも、生存本能が激しい恐怖となってせり上がってくる。
前方の敵に全神経を注ぎ、最善の迎撃体制を整えていた誠一の死角を突いて、もう一匹の影が弾丸のごとき速度で回り込んでいた。
ドッ!!
背中に、鈍器で殴られたような衝撃が走る。
背後から衝突してきたのは、幸いにも角のない個体だった。
だが、一メートルを超える質量が時速数十キロで激突してきたダメージは計り知れない。誠一の肺から空気が弾け飛び、姿勢が大きく崩れる。
さらに、容赦のない追撃が彼を襲った。
ズッ!!
横っ腹に、焼けた鉄棒を突き刺されたような熱い衝撃が走った。
反射的に視線を落とせば、泥に汚れたスーツの脇腹から、黒い角が深々と突き刺さっている。
痛みが脳を直接焼き、視界がチカチカと白く染まる。
内臓がひっくり返るような嘔気がこみ上げ、意識が遠のきそうになる。
だが、ここで意識を手放せば、待っているのは「捕食」という名の終わりだ。
誠一は、歯茎から血が出るほど食いしばり、反射的に剣を横一文字に振るった。
カウンターで、自分を貫いた敵の胸部を狙い、渾身の力を込める。
ずぶっ!!
刃が毛皮を裂き、肋骨を粉砕し、柔らかな中身へと食い込む。
手元に伝わる「生」が壊れる不快な感触と共に、敵は力なく崩れ落ちた。
目の前の敵は倒した。
だが、誠一の脇腹からは、どす黒い鮮血が止めどなく溢れ出し、冷たい石の床を濡らしていた。
(……まずい。このままじゃ、動けない)
誠一は、激痛に耐えながら『劣化交換』を発動させた。
自分を貫き、今は死体となった魔物の巨体が邪魔で、止血の処置すらままならなかったからだ。
死体が淡く青白い光を放ち、一瞬で収束していく。
次の瞬間、血に汚れた床の上に転がっていたのは、小さなポーションの小瓶だった。誠一は、それを見て、震える指先で安堵の溜息を漏らした。
『劣化交換』は、変換されるアイテムがランダムに決まる不確実なスキルだ。
だが、ここ数日の経験から、誠一はある確信を抱いていた。
このスキルは、使用者のその瞬間の「強烈な欲求」に反応し、必要なものが出現する確率が極めて高いのだと。
***
ポーションは手に入った。
だが、状況は依然として絶望的だった。
まだ敵は残っている。
もう一匹の魔物が、獲物の弱体化を嘲笑うように牙を剥いている。
誠一は、抉られた腹部を片手で必死に押さえ、もう片方の手で剣を構え直した。
傷口から熱が逃げていき、体温が急激に下がっていくのを感じる。
呼吸は浅く、にじんだ視界の端に暗い影がちらついていた。手はガタガタと震え、握った柄の感触すら曖昧だ。
もはや、剣を振りかぶる力など、どこにも残っていなかった。
(……なら、真っ向から戦うのは諦める。敵の、運動エネルギーを利用するしかない)
シャドーラビットが、勝利を確信して地を蹴った。
低く、鋭く、回避不能な一直線の突進。
その赤い瞳が、誠一の命の火が消える瞬間を虎視眈々と狙っている。
誠一は、わずかに膝を曲げ、残されたわずかな筋力で重心を沈めた。
肺に溜まった血を吐き出すように呼吸を止め、全神経を右腕一点に集中させる。
剣を構えた腕が、まるで他人の肉体のように重く冷たい。
だが、魂に刻まれたスキル『剣術』が、かろうじて筋肉の爆発的な収縮を支えていた。
(来い……。一瞬だ。外せば、死ぬ……今だ!)
魔物の気配が、ゼロ距離まで迫る。
空気を裂く凄まじい風圧。
地面を抉る爪の音。
誠一は、最後の生命力を燃やし、剣を真っ直ぐに突き出した。
ズブッ!!
鋭い摩擦音と共に、刃が魔物の胸を深々と貫いた。
骨が砕け、肉が裂ける振動が、誠一の肩まで響き渡る。シャドーラビットの全力の突進速度がそのまま破壊力となり、誠一の腕に重圧がのしかかった。
「ぐっ……あぁあああッ!」
魔物は勢いのまま誠一に激突し、肩口に鈍い衝撃が走ったが、その動きは完全に止まっていた。
魔物は、誠一のスーツを血で染めながら、糸の切れた人形のように地面へと倒れ伏した。
誠一は、よろめきながらも剣を引き抜き、力なくその場に膝をついた。
全身が、寒気と興奮で激しく震えている。角で抉られた腹の傷が、心臓の鼓動に合わせてズキズキと熱い痛みを発散していた。
(……ああ。本当に、死ぬところだった……)
口の中に広がる鉄の味。
だが、彼はまだ生きていた。
死の底を這い、生を掴み取った。
誠一は、震える手でポーションの蓋を空け、一気に飲み干した。
冷たい、清涼な液体が喉を通り、火傷のような熱を帯びた身体の内側に染み渡っていく。
みるみるうちに傷口の細胞が活性化し、肉が盛り上がり、皮膚が塞がっていく。
魔法という、この世界の理不尽なまでの奇跡に、誠一は驚愕を禁じ得なかった。
「……凄いな。こんな、魔法なんてものが……本当にあるんだな」
誠一は、ようやく立ち上がると、もう一匹の魔物の亡骸にも『劣化交換』を使った。
死体が不気味に光り、今度は血の滴る新鮮な「肉」へと姿を変える。
彼はそれを戦利品として持ち帰り、拠点へと辿り着いた。
***
居住スペースの片隅には、いつの間にか薪が高く積まれていた。
これらもすべて、劣化交換によって魔物から変化させた「備蓄」だ。火をつけるためのマッチや、冷え込みを凌ぐための粗末な布も、同じくスキルで得たものだ。
迷宮の気温は肌寒い。
特に眠りにつく前、静寂が訪れる時間は、死の気配がじわじわと身体に染み込んでくる。だからこそ、誠一の無意識は「暖」に関する道具を優先的に引き寄せていたのだろう。
誠一はキッチンスペースの小さな炉で火を起こし、手に入れた肉を焼く準備を始めた。
まずは水がめに溜まった水をすくい、喉の渇きを潤す。
その水は、以前「劣化交換」で手に入れた皮袋から注ぎ足した、貴重な真水だ。
次に風呂場へ向かい、シャワーの水で剣に付着した血糊を洗い流した。
(水で洗ったくらいでは、細菌も衛生面も心配だが……。そんなことを気にしていたら、ここでは一日も持たないな)
肉は、大きな葉っぱに包まれていた。
包みを丁寧に解き、洗浄した剣の先端で肉を突き刺す。それを焚火の炎に近づけ、じっくりと直火で炙っていく。
じゅうじゅうという脂の爆ぜる音が、孤独な石室に響き渡る。
香ばしい匂いが立ち込め、誠一の胃袋を激しく揺さぶった。
表面が焼け、脂が滴る部分から、獣のようにかぶりついた。
(……ああ。俺はまだ、生きているんだな)
誠一は、熱い肉を口いっぱいに頬張った。
塩も胡椒もない。
洗練された味付けなどどこにもない。
少し硬く、野性味の強いその味は、しかし誠一がこれまでの人生で食べたどんな高級料理よりも、力強く命の味がした。
(だが……欲を言えば、塩くらいは欲しいところだな。それに、ナイフとフォーク、皿……人間らしい道具も、少しずつ揃えていかないと)
文明の利器がない生活の中で、必要なものが一つ、また一つと浮き彫りになっていく。それは不便さの発見であると同時に、自分がこの世界で「生きようとしている」という希望の証でもあった。
腹が減っていた誠一にとって、ただ焼いただけの肉は、神の祝福にも等しいものだった。
彼は、自分が仕留めた獲物に対し、心の中で静かに感謝の言葉を呟きながら、最後の一口まで噛み締めた。
スーパーの棚から選んだものではない。
自らの腕で魔物を屠り、自らのスキルで変換した、自分だけの糧。
生きるための力。
戦うための、生々しいまでの実感。
そして、遥か遠い「真犯人を捕まえる」という願いを叶えるための、確かな一歩。
誠一は、火の粉が舞うのを眺めながら、温かくなった腹をさすり、静かに目を閉じた。




