表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/25

第九話『思いやりの技、その先にあるもの』

試合当日を目前に、道場の空気はいつもと違っていた。


静かな植木先生が、はじめて声を張る。

ざんしんをとれ。技を磨け。勝つことよりも大切なものがある。


柔道とは何か――

少年と仲間たちの胸に刻まれる、試合前夜の“言葉の稽古”。


「ざんしんをとれ!」


乾いた声が道場に響いた。

植木先生が珍しく、大きな声で稽古を止めた。


「投げて終わりやない。引け。抜け。構えろ」


普段は寡黙な先生の言葉に、六年生のコウキたちが一斉に動きを正す。

その気配に、後輩たちも背筋を伸ばす。


植木先生は、正面の神棚の横に置かれた一枚の古い写真に目をやる。


「今日は、ちゃんと話をしておく」


道場が静まる。


「柔道はな……ただ勝つためにやるもんやない」


その言葉から始まった先生の話は、いつもと違っていた。


「昔、この国が大きな戦争に負けて、何もかも奪われた。兵も武士も、剣道も武道も、全部“禁止”された」


「でもな、そのなかで“柔道”だけは残されたんや」


植木先生は、写真を指さす。


「ある偉い先生が、海外の軍人に説明した。これは“攻撃のため”やない、“自分と相手を守るため”の道やって」


「だからこそ、柔道は世界に認められた。命の取り合いやない、“人としての道”やって」


「元は柔術という“殺しの技”や。相手を投げて、急所に体重を乗せて一撃で仕留める、そういう技が多かった」


「でも柔道は違う。

投げた後、引いて“ざんしん”を取る。

それは、相手を傷つけないための動作なんや」


「倒したまま抑え込んだり、巻き込んだり。正しい技じゃないことで勝とうとするな。そんな勝ち方は、意味がない」


「ちゃんとした技で投げられへんのなら、勝たなくてええ。

勝つためにやってるんちゃう。

“まっすぐ”やるために練習してるんや」


道場の空気が張りつめていた。

六年生のコウキも、五年生たちも真剣な眼差しで先生の言葉を受け止めていた。



それからの稽古は、いつも以上に厳しかった。


何度も打ち込み、何度も受け身をとり、ざんしんを意識しての稽古が続く。


見学の小猿も、その空気を全身で感じていた。

稽古の合間に言われた言葉一つひとつが、頭の中で繰り返されていた。


(投げたあとの気持ちが、大事なんだ……)


自分の技に“心”を乗せるということ。

それは、まだ試合に出られない小猿にとっても、大きな意味があった。



そして、ついにその日はやってきた。


春の風がまだ冷たい早朝、少年たちは集合場所に集まり、道着の帯を結び直す。


今日は「地区錬成大会」だ。


道場からは六年生三人が団体戦に出場。

五年生二人は補欠登録。


団体戦は無差別、体の小さい順に並び、五チームによる総当たり戦。

個人戦は、五年生が40kgで軽量・重量に、六年生が50kgで区分された階級別トーナメント。


各階級ともにエントリーは32名。

熾烈な初陣が予想されていた。



小猿は――当然、出場しない。


けれど、見学として同行を許された。


試合会場は、道場から歩いていける距離。

まだ朝の冷たい空気を感じながら、他の選手たちと一緒に、白帯のままの道着で会場に向かう。


ボロボロの道着。

小さな背丈。

一年生と間違われるような体格。


他の道場の子どもたちや保護者の目線が、時折刺さる。


でも、小猿は気にしていなかった。


むしろ、心が躍っていた。


(ここが、試合って場所なんだ……)


はじめて味わう空気。

張り詰めた道場の匂い。

緊張と期待が入り混じった、柔道場独特の静けさ。



試合前の全体練習には、小猿も参加を許された。


手のひらが汗ばみ、呼吸が少し早くなる。

けれどその場に立てていること自体が、何よりの喜びだった。


そして、開会の挨拶、注意事項、申し送りが終わると――


各道場の代表者たちが集められ、最後の言葉が送られる。


どの先生たちも気合いを入れて、選手たちに檄を飛ばす。

「絶対勝てよ」「一本取れ」「気持ちで負けるな」


しかし、植木先生は違った。


静かに、落ち着いた声で言った。


「……自他共栄や」


「自分だけが良ければいいなんて、そんな柔道は柔道やない。

思いやりを持って。相手を大切に。

勝っても、負けても、恥ずかしくない柔道をしよう」


その言葉に、子どもたちの顔が引き締まった。



小猿も、その光景を目に焼きつけていた。


自分はまだ試合には出られない。

けれど、きっといつかこの場に立つ日が来る。


そのとき、自分も“ざんしんを取れる人間”でありたいと、そう思った。



そして――いよいよ団体戦が始まろうとしていた。


試合当日。

勝ち負けではない、“柔道の心”を受け取った子どもたち。


厳しい稽古の先にある、静かな覚悟。

見守る少年の心にも、確かな火が灯る。


次回、第十話――ついに試合開始!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ