『勝てないままでも、僕は強くなった』
ご覧いただき、ありがとうございます。
柔道と出会って2年。
6歳になった主人公の中に、静かに積み重なっていく“誇り”があります。
投げ技は禁止のまま。
小柄で、空腹で、体力も体格も足りないまま。
それでも彼は、道場に通い続けます。
投げるより、抑えられること。
勝つより、逃げ方を学ぶこと。
派手さはないけれど、たしかな実力がその小さな体に宿っていく――
今回は、そんな“勝てないままでも確かに強くなっていく少年”の姿を、丁寧に描いていきます。
第1章:僕が“そこにいる”こと
⸺⸺
「はい、今日は“えび”からだ」
植木先生の声が、いつもより少しだけ張っていた。
道場の空気が、朝の寒さでまだひんやりとしている。
だけど、畳の上に這いつくばると、その冷たさがむしろ心地よかった。
「腹ばいになって――足を引いて、腰で畳を蹴れ」
ぐいっ、ぐいっ、と身体をくねらせながら前に進む。
“えび”というこの動きは、柔道ではごく基本の練習のひとつ。
まるでエビが跳ねるように体を曲げて、腰を使って動く。
「えびは、寝技の逃げの基本だ。手じゃなく、腰を使って距離を作れ」
先生がよく言う。
足だけで逃げようとすると、相手に抑え込まれたままになる。
けれど、腰を回して地面を蹴ると、わずかに空間が生まれる。
その一瞬が、勝負を変える。
「今度は逆えび」
今度は後ろに下がるように、背中から腰を使って動く。
「逆えびは、押さえ込まれながら距離を稼ぐための動き。前に出るばかりが逃げじゃない」
体を縮め、腰を引き、足をぐいっと引きずって動く。
たったこれだけの動作が、何度やっても難しかった。
「腹ばいで腕を使うな。腰と足の使い方を覚えろ」
「はい……!」
みんなが声を出す。
僕も、小さい声だけど、ちゃんと「はい」と言うようになっていた。
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「次、前転だ」
くるん、と回る。
「もっと腰を丸めろ。背中から転がれ。これは倒されたとき、流れを止めないための動きだ」
投げられても、流れるように転がれば、怪我をしない。
そして素早く立ち上がって、また構える。
「後転、いくぞ」
後ろに転がる。
手をついて、首を守りながら、腰を浮かせてくるんと回る。
「後転は、後ろに倒された時の身のこなしの基本。技をかけられそうなとき、体を巻き込んで逃げろ」
ひとつひとつの動きに、理由がある。
「はい、構えろ。前まわり受け身!」
肩を丸めて、斜めに地面を転がる。
バン、と手のひらを叩いて衝撃を逃がす。
「まっすぐ転がると頭を打つ。肩から、斜めに。受け身は怪我を避ける技術だが、それ以上に“強さの証”だ」
植木先生は、そう言った。
「強いやつほど、綺麗に投げられる。
強いやつほど、ちゃんと受け身を取る。
柔道家は、倒され方も美しくなければならん」
その言葉が、今でも心に残っている。
⸻
技を教えられない僕にとって、こうした基本の“動作”がすべてだった。
だけど、退屈だと思ったことは一度もない。
だって僕は、そのたびに“柔道家としての動き”をひとつひとつ、体に刻んでいたから。
今日も、畳の上で「僕がそこにいる」ことを、誰かが見てくれている。
ただそれだけで、心が熱くなる。
第2章:変わらないこと、少しだけ変わったこと
⸺⸺
朝の冷たい空気が、畳の上にも漂っていた。
でも、あの頃に比べたら――僕の世界は、少しだけ、あたたかくなっていた。
「おはよう、ちっちゃいの」
「今日も一番乗りかよ」
道場に入ると、何人かの子どもたちが僕に声をかけてくれるようになっていた。
それは、1年前には考えられなかった変化だった。
きっかけは、コウキだった。
彼が僕の動きを認めてくれた“あの日”から、少しずつ流れが変わった。
まだ力では敵わないし、試合をすれば一度も勝てない。
それでも、誰もが「そこにいる」僕を、ちゃんと目に入れてくれる。
僕の名前はまだみんな覚えてないかもしれない。
でも、「ちっちゃいの」「小猿」――そんな呼び方でも、呼ばれること自体が嬉しかった。
植木先生は、相変わらず多くを語らなかった。
でも、僕の目をしっかり見てくれる。
技術の細かいミスも、呼吸のズレも、全部ちゃんと見てくれていた。
「うまくなってきたな」
たまにそう呟いて、視線だけで“頑張れ”と伝えてくる。
変わらないことは多かった。
家にはまだ水も電気もない日がある。
ご飯が食べられない日もあった。
でも、道場に行けば、あたたかい畳があって、
呼吸を合わせてくれる誰かがいて、
僕を見てくれる大人がいた。
僕の世界は、少しずつ、広がっていた。
負けても、認めてもらえる場所。
勝たなくても、成長できる道。
そんな場所が、確かにここにあった。
第3章:寝技の底にある戦い
⸺⸺
「はい、袈裟固め、構え!」
植木先生の一声で、道場の空気がぴしっと引き締まった。
僕は相手の肩口に自分の胸を重ね、右手で相手の腕を包み、左手で頭の下に手を入れる。
足をしっかり開き、体重を落とす。
この型を、もう何十回、何百回と繰り返してきた。
袈裟固め。
寝技の基本中の基本。
でも、毎回ほんの少しずつ、形も安定感も変わっていく。
「逃げられるな。腕の締めが甘いぞ」
植木先生の声が飛ぶ。
僕は少しだけ肩をずらして、腕に力を込めた。
横四方固め。
縦四方固め。
崩れ袈裟固め。
ただ抑えつけるだけじゃない。
足の位置、肘の角度、相手の体のねじれ、呼吸――
細かいすべてが、勝敗を分ける。
「はい、今度は交代。逃げる側、構え!」
がしっ、と組み合い、畳に押し倒される。
目の前がぐにゃりと歪むほどの圧力。
でも、ここで逃げる。
右足を絡めて、腰をずらして、腕を押し返して、頭をねじる。
あの“えび”の動きが、ここで活きてくる。
「そうそう、それだ。逃げ方を覚えるってのは、心が折れない技術なんだ」
植木先生の声が、いつもより少しだけやさしかった。
勝てない。
それでも、崩されても、すぐには抑え込まれないようになってきた。
小さなことだ。
誰も注目しない。
派手な投げ技もない。
だけど、寝技の中には、静かで、粘り強い“戦い”があった。
技が決まったとき――
自分より大きな相手が、動きを止めたとき――
心の中で、何かが確かに震えた。
“今の、自分がやったんだ”って。
それは、僕にとっての、一本だった。
第4章:ひとつも勝てなくても
⸺⸺
稽古が終わったあと、更衣室の隅で僕は黙って道着を畳んでいた。
隣では小学生の子たちがふざけ合っていた。
「なあ、今日の俺の崩れ袈裟、ヤバかったろ」
「ってかアイツ、まだ一回も勝ってねぇよな」
「でも、逃げるのだけは上手いんだよなー、ちっちゃいの」
悪気がないのは、分かってる。
からかってるんじゃなく、たぶん“褒めてる”つもりなんだと思う。
でも、事実だった。
この1年間――僕は、1度も“勝った”ことがなかった。
小学生と混ざって練習しているけれど、体格も年齢も、なにより“食べてる量”が違った。
僕の体は、ガリガリだった。
スタミナも、力も、どこかで限界が来てしまう。
それでも、僕は――
「……楽しいんだ」
ふと、口に出ていた。
“勝てなくても、楽しい”
それが、僕の答えだった。
投げられても、潰されても、逃げられても、
僕は“ここにいていい”と、ちゃんと感じられていた。
勝たなくても、みんなの中にいる。
小さな声で「おはよう」って言えば、誰かが返してくれる。
それだけで、十分だった。
植木先生は、そんな僕の気持ちを分かっているのか、道場の隅で腕を組んで立っていた。
何も言わないけれど、今日もずっと見てくれていた。
僕はその背中を見るだけで、また明日も来ようと思えた。
“勝てないままでも、俺はちゃんと強くなってる”
そう思えた。
第5章:声なき応援
⸺⸺
道場の掃除が終わるころには、もう夕方の光が差し込んでいた。
窓から見える空は赤く、畳に映る影が長く伸びていた。
「また明日ね!」
ランドセルを背負って帰っていく子たちの声。
僕は小屋の隅で、いつものようにひとりで道着を畳んでいた。
少し遅れて、小さな足音が近づく。
「おい、ほら。これ、余ったから」
見ると、タオルでくるまれたパンが差し出されていた。
「……もらっていいの?」
「うん。植木先生、何も言ってないけど、お前のこと……気にしてるよ、たぶん」
そう言って、相手は照れたように笑って走っていった。
そのパンは、温かくなかった。
でも、心の中がじんわりと温まっていた。
ふと顔を上げると、植木先生が道場の入口に立っていた。
腕を組み、いつもと変わらぬ無表情。
でも、その目は、確かに僕を見ていた。
何も言わない。
けれど、ずっと見ていてくれた。
逃げなかったこと。
投げられても笑ったこと。
今日も、ここに来たこと。
そのすべてを、言葉にせず“肯定”してくれていた。
先生が目を細めた気がした。
僕は思わず、パンを抱えてぺこりと頭を下げた。
“ありがとう”
声にはならなかったけれど、僕の気持ちは届いていたと思う。
明日も、僕はここに来る。
勝てなくても。
投げ技が教えてもらえなくても。
畳の上に、僕の“道”があるから。
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
投げ技を教えてもらえず、勝つこともできず――
それでも主人公は、静かに強くなっていきました。
基本動作の繰り返し。
腹ばい、えび、前転、受け身……派手さはなくても、そこには“技の核”が詰まっています。
柔道とは、勝者のための競技ではない。
負けても、逃げても、怪我をせず、明日もまた畳に立てること。
その積み重ねが“心の帯”を少しずつ黒く染めていくのだと、今回書きながら感じました。
無言で支えてくれる植木先生。
少しずつ認めてくれる仲間たち。
そして、今日も道場に通う“僕”――
第5話も、どうか見守ってください。




