第25話『夢を奪われた日』
父の無関心。
自分を守るための行動が、まさか自分のすべてを奪うとは——。
誤解と沈黙の先にある、少年の静かな決意。
これは、柔道を“好きだった”少年の心が、ひとつの別れを迎える物語。
次の日の朝、教室は異様な緊張感に包まれていた。
昨日、腕を骨折した子の保護者が、早朝から学校に訪れていたのだ。
職員室にはその父親と、呼び出された小猿と、その父親の姿が並んでいた。
「小猿くん、きみ……本当に何もしてないのか?」
先生は、硬い表情で問いかける。
しかし、小猿はただ、黙っていた。
——言い訳をしても仕方がない。
——たとえ守るためでも、僕が怪我をさせたのは事実だ。
小猿の父親は、これまでと同じように無関心だった。
だが、話の流れの中で「柔道の技で怪我をさせた」と聞いた瞬間、
その男は急に表情を変えた。
「柔道だと……?お前、そんなことしてたのか……」
次の瞬間、父親は無言のまま、拳を振るった。
小猿の頬に平手が響き、蹴りが腹部にめり込む。
職員室にいた教師たちや、骨折した子の親さえも、慌てて止めに入った。
「やめてください!」
「落ち着いてください!」
それでも父親は怒鳴りもせず、ただ淡々と、小猿を殴った。
怒りというよりは、恥を押し殺すような、感情のない暴力だった。
小猿は、声を上げない。
涙も見せず、ただ耐えた。
「柔道なんて、もうやめさせますよ」
そう吐き捨てるように言い、父親はそのまま立ち去った。
誰も何も言えなかった。
ただその場に、重苦しい沈黙が残った。
───
放課後。
小猿は制服のまま、植木道場の玄関を静かにくぐった。
「植木先生……」
そこにいた先生は、道着姿のまま、掃除をしていた。
「どうした、小猿」
「……僕、自分のせいで、人に怪我をさせました」
「……父にも柔道のことを、ずっと言ってませんでした。今日、初めて知られて、こうなりました」
「だから、柔道……やめます」
しばらく沈黙があった。
植木先生は、小猿の目をまっすぐ見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「……そうか。わかった」
その一言で、小猿の肩がふっと落ちる。
「……だが、最後にこれだけは見ていけ」
植木先生はそう言うと、道場の中央に立った。
腰を沈め、正面を見据える。
「——せぇいっ!」
一瞬の沈黙ののち、空気を裂くようにして決まった背負投げ。
その一投は、かつて小猿がテレビの中で見た、金メダルの一本そのものだった。
少年の心に火をつけた“あの技”が、目の前で再現された。
小猿の目から、初めて涙がこぼれた。
——ああ、本当に大好きだったんだ、柔道が。
それでももう、やめなければいけない。
この手で、人を傷つけてしまったから。
静かに頭を下げ、道場をあとにした。
───
その足で、いつものホルモン屋に向かう。
今日は、食事をもらうためではない。
娘とその両親に、ちゃんと自分の口から話すためだった。
「柔道……やめることにしました」
「理由は……今日、学校で……」
娘は驚き、父母も心配そうに耳を傾ける。
「それは……本当の理由じゃないでしょう?」
「何があったのか、ちゃんと話してくれる?」
娘の目は、優しくも鋭かった。
だが小猿は、首を横に振った。
「……大丈夫です。全部、自分の責任ですから」
三人は、黙ったまま小猿を見つめていた。
やがて父親が、そっと手を置く。
「……それでも、お前の居場所はここにあるからな」
小猿は、静かにうなずいた。
この時、彼の心の奥に刻まれたのは、
“守ってくれた人たちの顔”ではなく、
“自分が守れなかった誇り”だった。
人を守ることと、傷つけてしまうことは紙一重。
少年はその境界を、自らの身をもって知りました。
柔道が奪われた日。
それは、小猿が“本当の意味での強さ”に気づく始まりでもあったのです。
次回、第26話——
静かな別れの後に、再び灯る希望の火を。




