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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編集

おかえりなさい

作者: Mel

 昔からずっと、水に身を委ねて揺蕩うのが好きだった。

 別に泳ぎたかったわけではない。ただ仰向けに浮かび、水音に耳を澄ませて、瞳を閉じるだけ。

 それだけで不思議と心が落ち着いた。

 だから嫌なことがあれば水辺に向かうのが、いつしか自分なりの儀式のようになっていた。


 


 馬車を降りた瞬間、エドワードの鼓膜をかすかに濡らすような音が届いた。

 近くにあるという湖畔から響くものだろうか。初めて訪れた土地のはずなのに、なぜか懐かしさが胸をよぎる。まるで長い旅路の末に帰ってきたような、そんな心地だった。


 玄関前で待っていた管理人の女は、彼の顔を見るなりわずかに眉をひそめたように見えた。

 そして名乗りもそこそこに、唐突なひと言を口にする。


「聞きなれぬ声が聞こえるかもしれません。もし耳にしたなら、教えていただけますか?」

「声……ですか?」

「ええ。古い屋敷ですから、いろいろとあるのですよ」


 その含みのある口ぶりと探るような視線に戸惑いながらも、エドワードは小さく微笑んでやり過ごした。療養を名目にようやくたどり着いた場所だ。余計な波風は立てたくなかった。


 王都での暮らしは、息苦しいだけの日々だった。

 どこにいても居場所がないような気がして、気が休まることがない。

 父の関心を引きたくて無理を押して事業に取り組んだが、生まれつきの病弱さもあってか、小さな失敗が続いた。


 そんな折、子爵家が所有する別荘の中でも、とりわけ人目につかない過疎地の物件に目が留まった。

 父は理由も告げずにその地行きを渋ったが、心身の不調は明らかだ。療養と避暑を称し、逃げるように馬車へ飛び乗った。


 

 屋敷の奥、板張りの廊下を抜け、裏庭の見える窓辺に立ったとき――。

 ふいに、『おかえり』という声が、どこか遠くから聞こえた気がした。


 遠い昔、似たような声をどこかで聞いたような気がする。

 けれど、それがいつだったのか、誰の声だったのか。思い出そうとすればするほど、思考の隙間からこぼれ落ちていった。 


 その声は誰かの名を呼んでいるようにも聞こえた。

 慈しむように。歌うように。

 惜しむらくは、それが自分の名前ではないということだった。

 


 管理人が整えた部屋は申し分なかった。

 手入れの行き届いたアンティークの調度に囲まれ、華美さはないものの、落ち着いた雰囲気がある。

 本邸のような豪奢さはなかったが、それがむしろ心地よかった。


 あの家には、エドワードにだけ厳しい父と、彼に関心を寄せない母、そして彼を毛嫌いする姉がいる。

 それでも嫡男として表向きの地位は与えられていたのに、年の離れた弟が生まれてからすべての歯車は狂いはじめた。


 母は、聖母のような顔で腹を撫でていた。まだ生まれぬ弟の名を、何度も何度も呼びながら。

 その姿を目にするたびに胸の奥がひどく冷えるのを感じた。

 ……羨ましい、そう思った記憶だけが、今なお心に残っている。 


 ――ああ、いけない。感傷に浸るために来たわけではなかったのに。

 長旅の疲れもあって、彼は早めに床に就くことにした。



 そして、その夜。

 こぽこぽとした水音と、遠くから誰かの名を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 懐かしさを憶えたのに、思い出せない声だった。



 目が覚めたときには、すでに日が高く昇っていた。

 ひと晩眠ったはずなのに、疲れは抜けていない。

 それどころか身体の芯に鈍く重たい倦怠感が残っている。

 水に長く浸かっていたあとのような、生ぬるい感覚だった。


 身支度を終えたエドワードは、食堂には向かわず、別荘の裏手へと足を運んだ。

 昨夜、耳にした声が気になって仕方がなかった。


 裏庭は丁寧に手入れされていたが、その先に続く小道はしばらく使われていない様子だった。

 草に埋もれかけた敷石を踏みながら進むと、木立の向こうに、ぽっかりと口を開けた黒い穴が見えてくる。


 それは古びた井戸だった。

 石積みの縁はところどころ崩れ、苔と蔦が這い、蓋もなく、闇を湛えたまま静かにそこにあった。

 まるで……なにかを待ち続けているかのように。 


 気がつけば、エドワードは井戸の縁に立っていた。

 底を覗き込むと、遥か下には揺れる水面だけがある。深く、暗く、静かだった。

 ただ、それだけなのに――名を、呼ばれた気がした。 


『……エリアス……』 


 囁くような声が、耳の奥で確かに響いた。

 エドワードの名ではない。だがその響きには、どうしようもない懐かしさがあった。 


 ――不意に、背後に気配を感じる。


 振り返ると、右手を伸ばしたまま、管理人の女が無表情に立ち尽くしていた。


「……何か、ご用ですか?」

「いえ……お食事の時間なのにいらっしゃらなかったものですから、心配になりまして。このままでは落ちてしまうと、お声をかけようとしたところでございます」

「それは失礼しました。……声が、聞こえた気がしたんです」

「声が? 本当に……お聞きになったのですか?」

「はい。いったい、あれは何なんでしょうか」


 問い返すエドワードに、管理人はわずかに顔を強ばらせた。

 しばし沈黙ののち、口を噤んだまま、井戸を見つめて首を横に振る。その瞳には悲哀の色が滲んでいた。 


「……ご当主様は、お変わりございませんか」

「父ですか? ええ、特には……」

「左様でございますか。……私はこれより仕事がございますので、これにて失礼いたします」


 そう言い残し、管理人は静かに背を向けた。

 エドワードは疑念の残る胸の内を抱えたまま、井戸をあとにした。

 


 その夜。

 また、夢の中であの声が響いた。


『――エリアス……おかえりなさい、エリアス……』 


 どこかで水の音がする。こぽこぽと、緩慢に。

 身体ごと水に浸っているようなくぐもった感触の中で、声は確かに届いた。

 優しく、切なくて――やはり、その名は自分のものではなかった。



 目覚めてもなお、夢の記憶は色濃く残っていた。

 やわらかく、ひどく優しい声だった。聞き覚えはないはずなのに胸の奥にじわじわと染み入り、涙がこぼれそうになった。


 食堂に向かうと、すでに朝食が整えられていた。けれど、食欲は湧かず、手をつける気にもなれなかった。

 銀の器に映った自分の顔をぼんやりと見つめたまま、エドワードは意を決して口を開く。 


「……あの声について、もう少し教えていただけませんか」


 配膳をしていた管理人が、ぴたりと動きを止める。


「申し訳ありませんが、それは……私の口から申し上げることはできません」

「ですが、確かに聞いたのです。声を聞いたら教えてくれと言ったのは、あなたの方だったでしょう?」


 その言葉に、管理人はぎこちなく瞬きをした。

 そしてゆっくりと席の方へと向かい、手慰みに布巾を指先で撫でる。

 ふと向けられた視線。エドワードとよく似た色をしたその瞳の奥に、静かな澱のようなものが沈んでいた。


「……この別荘には、昔から誰かを探し求める女の声があるのです」

「女の声、ですか」

「はい。夜更け、井戸の方から人の声がするのです。名を呼ぶような……誰かを愛おしむような……。ですが、その声が聞こえるのはこれまで私ひとりだけでした」


 その声は、かすかに震えていた。

 語りたくない記憶を手繰り寄せるような、遠い調子だった。 


 もしも管理人だけに聞こえるのだとしたら、幻聴と片づけたかもしれない。

 だがエドワードは、確かに耳にした。何度も、はっきりと。

 ただの気のせいで終わらせることはできなかった。


「不思議ですね。……その声は、いったい誰のものなんでしょう」


 エドワードの問いに、管理人はふいに視線を逸らした。

 しばらく沈黙が流れ、やがて諦めたように小さく頷くと、静かに語りはじめた。 


「……二十年ほど前、この屋敷には若い女中がひとりおりました。名をシルヴィアと申します。聡明で、礼儀正しく、誰からも好かれる娘でした」

「……その人に、何かあったんですか?」

「いつの間にか身ごもっていたのです。当時は男ばかりの屋敷でしたから、相手が誰であっても不思議ではありませんでしたが……奥方様の目を盗んで、当主様が手をつけたのではないかと、密やかに囁かれておりました」


 奥方様、当主様。つまりそれは――エドワードの両親のことだ。

 思わず息を呑んだ彼を一瞥し、管理人は一度だけ言葉を切った。

 そして、目の前のテーブルの縁を、指先でそっと撫でる。 


「もともと田舎に帰す話にはなっておりましたが、ある日を境に、ぱたりと姿を消しました。……それからです。井戸から不可思議な声が漏れ聞こえるようになったのは」

「……まさか、その女中が井戸に?」

「そうだったのかもしれません。ですが……井戸は深く、遺体は上がりませんでした。当主様はそれからこの別荘に寄りつかなくなり、使用人たちも、ひとり、またひとりと姿を消しました。だから今は私ひとりで、こうして」 


 寂しげに呟く管理人を前に、エドワードはふと周囲を見渡した。

 広すぎる屋敷に、たった一人。

 父も、この別荘の存在を問われるまで思い出せなかったような様子だった。

 ――捨て置かれたこの地に、どうしてこの人は、今も留まり続けているのだろうか。 


「……寂しくはないのですか? あなたにとっても、恐ろしい場所なのでは?」 


 当然の問いかけだったはずなのに、管理人は目を見開いた。

 やがて、かすかに微笑みながら、首を横に振る。


「お優しいのですね。……でも、寂しくも恐ろしくもありませんよ。この場所には、大切な思い出が詰まっていますから」 


 そう言って、彼女は深く一礼し、静かに食堂をあとにした。


 残されたエドワードは、冷めたスープを眺めながらぼんやりと考えていた。

 シルヴィアという女中は、おそらく事故か、あるいは……何らかの形で井戸に落ちたのだろう。

 腹にいたであろう子も、そのまま死んでしまったに違いない。


 この屋敷で起こった忌まわしい出来事。

 本来ならとっくに葬られ、封じられたはずの過去。

 だが、井戸の底ではいまも誰かが呼び続けている。 


 ――エリアス、と。


 呼ばれるたびに、胸の奥が軋んだ。

 それは恐怖ではなかった。

 むしろ遠くから手招きされるような、焦がれるような郷愁だった。


 まるで、水底に置き忘れてきた何かが、今もひっそりと息をひそめて待っているかのように。



 その夜、エドワードは浅い眠りと目覚めを何度も繰り返した。

 まぶたを閉じればすぐに、あの声が耳元に落ちてくる。


『……エリアス……ああ、もうすぐ……もうすぐ会えるのね……』


 その声はますます鮮明になっていた。

 距離が確実に縮まっている。そう直感できた。


 夢の中で、井戸の縁に立つ自分が見える。

 石積みに手をかけ底を覗き込むその足元から、水のように透き通った腕が、まっすぐ自分へと伸びてくる。


『――でも、まだ駄目よ。もう少し、ここにいてちょうだい……』


 その言葉が、ひどく心地よかった。

 誰にも顧みられなかった自分に注がれる、たったひとつの愛情のようにさえ思えた。


 


 目を覚ましたときにはもう夜も更けていた。

 屋敷の中はしんと静まり返り、時計の音すら遠くに消えていく。


 自分の意思だったのか、それすらも曖昧なまま、エドワードは寝巻姿のまま廊下を進んでいた。


 誘われるように、夢と同じ小道を辿る。

 湿り気を帯びた草を踏む音が、夜霧のなかへ吸い込まれていく。


 やがて、古びた井戸が姿を現した。

 昼間に見たときよりも輪郭がくっきりとしていて、蔦が風に揺れ、かすかにさざめいている。

 石積みのすき間からは冷たい空気がゆるやかに漏れ出していた。 


 ふいに、誰かが名を呼んだ。


『……エリアス』


 反射的に、エドワードは答えていた。


「――ここに、いるよ」


 その瞬間、井戸の底から水音が響いた。

 ひとしずく跳ねたような音。澱がかき混ぜられるようなざらついた気配。

 同時に、微かに漂う甘い香りが鼻をかすめた。それは、ずっと昔に嗅いだことのある大好きな匂いだった。


『……エリアス……わたしの可愛い子――』


 その声には、確かな愛があった。


 エドワードは手を伸ばし、井戸の縁に指をかける。

 石は冷たく、ざらついている。足をかけると、小石がひとつ静かに底へと沈んでいった。


 それを目にしても、恐れるものは何もなかった。

 そう――怖くなどなかったのだ。

 あの声の先にあるものが、自分の居場所であると本能が訴えていたから。


 深く、深く、生ぬるい水の底から、腕が伸びてくる。

 水に濡れたその指が、彼の頬に触れた。


 そのとき、確かに聞こえた。


『――ああ、エリアス……お還りなさい……』


 彼の胸に、何かがふっと溢れた。

 誰にも呼ばれなかった名で、ようやくたどり着いたその先で――エリアスは、微笑んだ。


 そして、声のぬくもりを抱いたまま。

 ゆっくりと身を投げるように、井戸の底へと――落ちていった。

 


 ……………………


 ………………


 ………… 


 

 ……管理人は知らぬ存ぜぬを貫き通してきたが、あの日の情景は、今なお脳裏に焼き付いて離れない。


 腹を大きく膨らませたシルヴィアが姿を消した、あの日。

 井戸の傍に立っていたのは、別荘に訪れていた当主だった。

 片手には大鉈。もう一方の手には、へその緒がついたままの血にまみれた赤子。

 夥しい血と生臭い水が、地面を濡らしていた。


 その光景のなかで、当主は冷ややかに言い放った。


『逃げようとするとは、愚かな娘だ。……我が家に男児はいなかったからな。この子は、我が嫡男として育てる。名は……エドワードでいいか』


 その言葉のすぐ後、井戸の底から、かすかな女の声が――確かに、響いた。


『……かえして……』


 その声が、今も耳の奥にこびりついて離れない。

 

 優しく、気配り上手で、誰からも好かれていた――私の、自慢の娘だったのに。

 使用人の顔すら覚えぬこの男は、目の前にいる私が、その娘の母親であることにすら気づいていなかったのだろう。

 

 

 叫び出したい衝動をどうにか抑え、管理人はただ従った。

 今ではない。いま手を伸ばしたところで、大鉈で頭を割られるだけだと――そう悟ったから。


 何度覗き込んでも、娘の遺体は上がらなかった。

 ただ、子を探し求める声だけは、ずっと井戸の底から響き続けていた。


 慰めになればと、何人かの男を突き落としてみた。

 だが、やはり駄目だった。……あの子にとって、実の息子でなければ意味はなかったのだろう。


 だからここに残った。管理人としてこの屋敷に。

 いつか娘のもとへあの子が還ってくると信じて。


 そして、ついに。

 子爵家の嫡男が、この地に戻ってきた。


 本当にあのときの赤子なのか――確信は持てなかった。

 けれど、母に似てとても優しい子に育っていた。

 

 ……折を見て、この手でその背をそっと押してやるつもりだったのに。

 きっと彼も母を恋しがっていたのだろう。

 夜が明けると、屋敷にエドワードの姿はなかった。

 

 裏手の井戸へ駆けつけたとき、そこにあったのは。

 湛えていた水すらも消えた、ただ静かな、深い底だけだった。


 

 ――どこからか産声が聞こえる。


 遠いあの日、井戸の底へと沈んだ娘がようやく我が子を抱けたのだと。

 

 管理人は静かに悟った。



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