第一話
足を滑らせて川に転落したとき、澪は姉の言葉を思い出した。
「危ない場所には近づかないで。後生だから……」
両膝を折って妹に目線を合わせる姉の表情は、悲壮感に満ちていた。今度は自分の番なのだと、澪は覚悟した。
彼女の姉は、他人の死を予知できた。どこか怯えた様子の男とすれ違い、足を止めて振り返った。妹の手を引きながら、鼻をひくつかせる。
「あの人、多分もう長くない」
その通りになった。彼は外れにある菊の野原で首を吊った。動機はわからない。
死が近い人間からは、独特な臭いがするのだろう。後日亡くなることになる者と接した姉は、決まって小鼻の皺を寄せた。本人はその癖には気づいていなかった。
井戸の水汲みを手伝っていた。姉が井戸水で一杯になった釣瓶を底から引き上げ、木桶の水を揺らしながら澪が家の土間まで運ぶ。澄んだ水が波紋を立てて自分の顔を映した。
これで足りるだろうか。まだ手伝うことがあるかと思い、井戸へ引き返した。頬に水滴が落ちる。見上げると、天候が崩れ始めていた。曇った空から雨粒がこぼれている。早く作業を済ませてしまわなければならない。
何か落ちる音がした。そちらに顔を向けると、姉が足元に木桶を横たえたまま立ち尽くしていた。こぼれた水が土を濡らす。
目を見開き、鼻で何かを嗅いでいた。
無言で見つめ合う姉妹のあいだに、湿り気を帯びた風が吹き抜けた。姉は駆け寄り、妹を抱き締めた。声を震わせて、何度も謝った。
「ごめん、ごめんね」
腕の中に抱かれながら、澪は怪訝に思った。どうして姉が謝るのだろう。自分が死ぬのだとしても、彼女の責任ではない。長姉が嗚咽を漏らす。何と声をかけたらいいか、幼い妹にはわからなかった。
濡れた地面から、泥の饐えた臭いがした。
姉の懇願に従い、事故に遭いそうな水場や山野には近寄らなかった。ただどういった形で不幸に見舞われるかは、今わの際になるまでわからない。残された幾ばくかの日々で、澪は死の顎から逃れる術を必死になって考えた。
勿論、死にたくはなかった。ただ、残される姉の心情が気がかりでならなかった。自分がいなくなれば、彼女は己を責めるかもしれない。死を嗅ぎ取ることはできても、決して運命は変えられないのだから。
自分と姉のために、澪は生き延びようと足掻いた。
澪が生まれる前からある古い水車が回っていた。軋んだ音を立てて、川の水を汲み上げている。日に煌めく水路を通り、水流に身を委ねる藻に紛れて、半透明のメダカが尾を振って流れに逆らっていた。
水田に青々とした稲が茂っていた。その田園風景を眺めながら、頭の中で自分が生き延びる方法を探していた。神仏に縋るしかないのだろうか。けれども参るべき寺社を知らず、姉は神頼みには懐疑的だった。
「どれだけ祈っても、人の生き死にには関係ないよ」
死を予知してきた姉の言葉だけに重みがあった。だけれど妹の死期を悟ってからは、人がいないところで必死に祈っている彼女の姿を澪は知っている。
神仏に頼れないなら、ただの人間である自分に何ができるだろう。
川の水が流れる水路を見下ろした。水車で運ばれた水の流れは変えられない。にも関わらず、華奢な小魚たちが水流に抗っている。澪は思った。お前たちは強いね。
その水面を見慣れない物体が滑っていく。思わず目で追った。白い紙を切り抜いて作った、省略化された人の形を象ったものである。澪は少ない知識からその正体を引っ張り出した。
あれは確かヒトガタだ。近隣の村では、雛流しと言って厄を背負わせた呪物を川に流す風習がある。そうして一年の無病息災を願うのだ。そのうちの一体が上流から外れて、ここまで流れ着いたのだろう。
澪は思いがけない閃きを得た。ヒトガタが人の厄を負うのなら、近い将来に訪れる自分の死も引き受けてくれるのではないか。
居ても立っても居られなくなった。水路を漂う紙人形を掬おうとして、彼女の手をすり抜けていく。まだ足が生えていないおたまじゃくしの頭越しに流れていった。
澪は慌てて駆け出した。遠ざかるヒトガタが水の流れに逆らっていることなど疑問にも思わなかった。
水を汲み上げる水輪の下をくぐり抜けて、紙人形が逃げていく。ずっと同じ方向に回り続ける水車の傍らを走り抜けて、川筋を辿った。追うのに夢中で、人里から離れていっていることにも気づかない。草が茂る水辺に沿って、奇妙な追いかけっこは続いた。
草鞋で草葉を蹴散らしながら、澪は無理な体勢で川の水面に手を伸ばす。もう少しだ。ヒトガタに指先が届く寸前で、彼女は躓いて姿勢を崩した。
大きな水飛沫を上げて、川に転落した。一瞬水中に没し、慌てて顔を出す。肺に入った水を吐き出しながら、必死に岸へ手を伸ばした。ところが思った以上に川の流れが強く、澪の小さな体を押し流していく。まだ浅瀬だったはずなのに、どうしてか川底に足が届かない。
すぐ目の前にある岸辺が遠かった。抗えない水流に運ばれて、成す術もなく足掻く。そのずっと足元では、光り輝く魚の群れが尾を引いていた。夜空に描かれる星々の光跡にも似ていた。
枝分かれした支流が本流へと還り、川幅が広くなる。厳めしい岩肌の谷が冷徹に見下ろし、空は遠い。沈んでは浮上を繰り返し、肺の中に入った水が口から溢れ出す。水面を切り裂く岩石をかろうじて避けながらも、深い谷底で誰の助けも得られないという状況が澪から体力とともに気力を容赦なく奪い去った。
ああ、これが私の末路なんだ。
諦めがよぎった。死神の手が澪の足を掴み、無情にも川の中に引きずりこんだ。手を伸ばす。仄かな日差しが遠のいていった。彼女の小さな体が水底へと落ちていく。
水底へと沈みながら思った。これほどまでに深い川だったのか。まるで、海だ。
不思議と息苦しくなかった。もしかしたら、もう死んでいるのかもしれない。日の光が遠ざかり、視界は暗黒に閉ざされる。ただ、何かがいるのはわかった。わずかに垣間見える異形の輪郭を想像で補う。長躯の扁平な胴体を有する魚らしい影が、鮮やかで長い紅色の鰭を棚引かせる。絶えず泡立った球体が浮遊していた。螺旋を描く生き物が澪の体をすり抜けて上昇し、無骨な山峰を彷彿とさせる横顔が暗い背景に映り、長大な龍が悠然と泳ぎ去っていく。
暗黒の彼方で、龍が咆哮を発した。同時に青白い稲光を放つ。その輝きが水中を照らし出し、筆舌に尽くし難い生き物たちの姿を露わにする。巨大な眼球が神経の細い束を引いていた。鰭が人の手足によく似た、奇形の白い鯨が遥か上を漂っている。おとぎ話に聞く、人魚らしい半人半魚が取り巻いて、含み笑いを残していく。
それらは目に入らなかった。再び川の中が暗闇に閉ざされる寸前で、白い何かが澪の体をすり抜けていく。視野に捉えたのは、あのヒトガタだった。夥しい数が水底に向かって流れていく。
無我夢中で手を伸ばした。そのうちの一体を掴み取った瞬間、意識は反転した。
其処は泥濘だった。白濁した空の下にいて、地平線に至るまで泥に覆われた平原が広がっている。まばらな灌木が覗くばかりで、生き物の気配は全く途絶えている。
ここは死後の世界だろうか。泥に足首まで埋めながら、澪は漫然と思った。だとしたら、あまりにも寂しい。誰も彼もおらず、自分は独りだ。
寂寥感に見舞われた。自分以外の誰かを求めた。呼びかけようとしても、喉から声が出ない。妙に体の関節がぎこちない。自分の前髪が鬱陶しい。ここまで髪を伸ばしていただろうか。
長い黒髪の隙間から自らの手のひらを見下ろす。ひび割れた、泥の色をしていた。
愕然としていると、白く濁った視界に動く影が映った。どうやら人の一団らしい。無気力に頭を垂れ、広大な平原をあてどなく彷徨っていた。彼らの魂はこの世界に囚われている。そう思った。嗄れた喉で叫ぶ。声にならない声が届いたのか、集団の後方にいた一人が振り返った。細い線の輪郭しかわからないのに、どうしてか姉だと思った。
必死に手を伸ばした。姉とおぼしき女性は、泥になって跡形もなく崩れた。
また意識が変転していく。次に感じたのは、自分の頬を舐める感触だった。妙にざらついている。しばたたきながら、瞼を開いた。睫毛の長い、つぶらな円い瞳がすぐ間近で見下ろしていた。
飛び起きた。驚いて退いたのは、どうやら仔鹿だった。薄い茶色の毛並みに斑点を散らしている。未熟な角が生えた頭を、白い手が撫でた。
その華奢な腕をなぞると、長い黒髪の幼い少女が佇んでいた。七つほどだろうか。長い黒髪を腰まで垂らし、白装束を纏っている。足には何も履いておらず、裸足だった。
前髪の隙間から白濁した瞳が垣間見えた。薄い唇が告げた。
「あなたは死にました」