近寄るべからず
X県に一泊二日の出張に行った時の話です。
私の勤める会社は宿泊費一律支払いでしたので、いつもなるべく安い宿に泊まって浮いたお金で地元のちょっとお高いおいしいご飯を食べることを楽しみにしていました。その時も二月のこの時期ならノドグロが旬かな、なんて浮かれていましたね。
この時に泊まったところも格安だけが売りの、チェックインから四階の部屋まで誰ともすれ違わないような人気のないさびれたホテルでした。
いつもホテルに泊まる時には、部屋に入ってすぐに荷解きよりも先にバスタブにお湯を張って、バスルームのドアを開け放して風呂の湯気を加湿器代わりにしています。風邪予防に。
この時もそうしようと思ってバスルームを開けて、ああ、しまったな……と、このホテルに決めたことをちょっと後悔しました。
バスルームの天井の四隅に黒いカビがぽつぽつ生えていたんです。不衛生でしょう?
それに排水溝の嫌な臭いもこもっていて、ドアを開けた瞬間、むわっと顔にまとわりついてきて参りました。
臭いとカビが気になったんで、バスタブを加湿器代わりにするのはあきらめてすぐにドアを閉めました。
それに部屋が笑っちゃうくらい狭かったんですよね。一泊二日用の小さいキャリーケースを横にして荷物を取り出すスペースすらない。
ドアを開けてすぐ左手にバスルームのドア、そこから二歩先にベッド。クローゼットもないし、テレビもない。机はあるけどなぜか椅子がない。空調設備もとにかくうるさかった。
まあこんなことは格安ホテルならよくあることなんですが、ちょっと異様だったのは、ベッドの足元に立って左手側の壁にだけ、絵の描かれた壁紙が貼ってあったことです。
その絵が、ね……ちょっと。
他の壁はみんな白いんですよ。古いホテルなんで、煙草か日焼けかなんかで劣化していて白というより黄ばんではいるんですけど。
でもその壁の壁紙だけは、白黒の蝶の絵が描いてあるんです。黒いペンで線を引いて描いたような、銅版画みたいな感じでしたね。蝶の足の節やトゲトゲ部分まで細密に描き込まれていて、妙にリアルな絵でした。
デザイナーズホテルだったらおかしくないかもしれないですが、狭くて汚い安宿の部屋では浮いていて落ち着かなかったです。
シャワーを浴びたら案の定、排水溝は詰まっていて湯が全然流れていかないし、湯気でカビ臭さは濃くなるし、このホテル外れだったなあと思って持参した寝間着に着替えました。一応浴衣は置いてあったんですけど、私あれ苦手なんですよね。
二十三時半くらいにベッドに入りました。
部屋と枕元の電気は消しましたが、バスルームの出入り口に段差があったので、夜中にトイレへ行ったときに危ないかなと思ってバスルームの電気はつけて寝たんです。
バスルームのドアの隙間から光が漏れていたので、部屋の中は暗闇に目が慣れるとどこに何があるかはわかる程度には視界が確保されていました。
ベッドが例の白黒の絵が描かれた壁にぴったりくっついて置かれていたので、暗さで細密さは失われていましたが、蝶の形はわかりました。
そっちを向かないように仰向けになったことは覚えています。
目を閉じてしばらくして、自分が夢を見ているのに夢の中で考え事をしているような状態であることに気がつきました。
夢の中の私は、薄暗いどこかを走っていました。そして時折振り返って何かを見て、ずっと焦っている。逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ……って。
視界は揺れていました。私を焦らせる何かは、ぶれて正体がはっきりしない。だけど嫌なものであることは確かでした。
捕まりたくないというよりも、触られたくないと思って走っている。
だけどしばらくして、ついに後頭部に何かが触れたんです。強く掴まれたわけではなく、下から上にさっと撫でるような微かな接触でした。
ぞわっとしました。
鳥肌が立つ時と同じように、触られた後頭部の毛穴がぶわっと膨れ上がって痛いくらいでした。ゾワゾワと下から上に痛みとともに毛が逆立って、より強く「逃げなきゃ」と思いました。
これは夢、目を開けたら逃げられる! そう思って無理やりこじ開けた視界に飛び込んできたのは、真っ黒な蝶でした。
私はいつの間にか体の右側を下にして、例の壁のほうを向いて寝ていたんです。
たぶんこの不気味な壁紙を寝る間際まで気にしていたから、脳裏にこびりついてしまって気味の悪い夢を見たんだ。
ぜえぜえと、まるで全力疾走したかのように肩で息をして、私は横になったまま目を見開いてそう考えました。そして原因に思い当たったことで、少しほっとしたのです。
夢の名残なのか、まだ後頭部がぞわぞわしていて毛穴がビリビリ痛んでいました。
けれどこの薄気味悪い蝶の壁紙さえ視界に入れなければ、それもじきに止むだろう。そう思って、反対側に寝返りを打ったのです。
目が、合いました。
林檎くらいの大きさのギョロッとした目が二つ、私を見ていました。
出入口近くのバスルームから漏れる光で何がどこにあるかはわかるはずなのに、私を見つめる目の周辺は真っ黒でした。まるで空間に黒カビが生えたかのように、そこだけ黒いのです。
そしてその黒い何かの中から突き出た眼球が、私をじっと見ていたのでした。
ぞわぞわとした痛みを目の奥に感じ、私はとっさに瞼を閉じて寝返りを打ちました。
見返してはいけない。
これ以上、目を通じて私の中身を触られたくない――と、思ったのです。
今度は後頭部を枕にくっつけて、顔を天井に向けました。
途端に左側のこめかみ辺りがゾワゾワ痛みだして全く寝られませんでしたが、ずっと固く目をつぶって仰向けになっていました。
またあれと目が合ったら、目の奥がまたぞわぞわと痛みだして、きっと二度と痛みが引くことはないだろうと思ったからです。
閉じた瞼がふわりと赤い日の光を感じる頃にようやく、こめかみの痛みがやみました。
スマホのアラームが鳴り、恐る恐る目を開けると――部屋には、何もいませんでした。
その日の昼、出張先の人にホテルでの話をしたら、「あー……あそこ、昔から出るって噂あってさ」と苦笑いされました。
「いや、ホテルがっていうか……戦中に空襲でそこら一帯が燃えたあとにバラック街があったんだけど、それも台風で駄目になってね。全滅。で、そのあとでっかい化学工場が建ったんだけどそれも集団赤痢で何百人と犠牲になって……」
地元の人間はあんまり寄り付かないんだよ。と、肩をすくめて教えてくれました。
「なんか悪さするモンがいるって噂が、昔っからずーっとあんのよ。特にジジババは近づかないね。普通に治安も悪いし」
――人が死に過ぎてるからさ。
私はその日から出張費を浮かすことはやめました。できるだけ新しく、明るくてきれいなホテルへ泊まるようにしています。
家の掃除も、特に水回りを念入りにするようになりました。
黒いカビを見ると目の奥がゾワゾワと粟立って……とても、痛むからです。
了
という、実体験をもとに書きました。
なぜこのホテルに泊まったのかなどの理由は〝お話〟ですが、〝起こったこと〟は本当です。
で、驚いたのがそのホテル、そのあと地方の小さいニュースになってたのをネットで見たんですよね。火事があったって。
えーってなりました。