エピローグ ③(了)
足攣った。
なぜ足を攣ったのかを説明するためには、今日一日の流れを振り返ってみる必要がある。
まず絽奈は、朝九時半に目が覚めた。驚愕した――なぜなら記憶が確かなら、昨日は二十三時には寝たはずだったからだ。十時間半のノンストップ睡眠。己の中に眠るポテンシャルに震えながらリビングに降りて行って、シリアルに牛乳をかけて食べた。ハリウッドのゾンビ映画で主人公が朝食にこういうのを摂っているのを見てその未来っぽさに憧れて以来、大体朝はこれだ。テレビをかけて、特にかける意味もなかったから食べ終わったらすぐ消して、部屋に戻る。パソコンを立ち上げる。その間に端末を確認する。
すると、そこそこメッセージが溜まっている。
あの夏を越えて絽奈は、そこそこ新しい友達ができた。
そしてこの新たな友人たちは、大変けしからんことに「学校に来ない千賀上先輩はどうせ一日中やることないんだろうし、授業中に暇つぶしに話しかけても平気だろう」なんてことを考えているらしい。『ひまー』とか『今何してますか』とか、本当にどうでもいい内容ばかりを送ってくる。全く非常にけしからんし、一生懸命授業をしてくれている先生方にも失礼な限りなので、絽奈はそれら全部にちょっとずつ文体を変えつつ、こういう内容のメッセージを送ってやる。真面目に授業を受けなさい。すると『どの口が』とか『ナイスジョーク』とかそんなのばかりが怒涛のように返ってくる。真面目に授業を受けることもできず、先輩からのありがたい忠告も受け入れられない若者で溢れた国の未来は暗い……。が、暗い場所の近くで遊ぶのは楽しいということは肝試しが若者の人気コンテンツになっていることからもわかるとおりで、そこそこ楽しく絽奈はそれに返していく。もちろん返しすぎて友人たちの成績が落ちても仕方がないし、自分は自分でやることがあって学校に行っていないわけでもあるから、節度を守って、そこそこに。
昼は十二時。リビングに集まって両親と食べる。今日は栗入り炊き込みご飯に挑戦したらしく、失敗していた。なぜ二々ヶ浜で家庭菜園に挑戦を続けている両親が揃って料理下手なのか絽奈は理解に苦しむが、まあ、芯の残ったお米ならともかくべしょべしょのお米くらいなら食べても健康に害はなさそうなので、文句を言わずに完食する。今度湊にちゃんとした作り方を訊いておこうと思う。夏合宿でそこそこ家庭科に自信を付けて以来、この家における料理のオピニオンリーダーは自分の役割になり始めている。毎日湊が作りすぎた肉じゃがとかカレーをお裾分けに来てくれないかなという気持ちも、当然ある。
午後、部屋に戻ると、一つのURLが送られてきていた。
添えられたメッセージはごく短い。『先輩これやってみて』送り主は羽生だった。
リンク先に飛んでみると、『毎日10分2週間! 180度開いちゃう究極開脚ストレッチ』と素晴らしい大言壮語がタイトルとして目に入る。ははん、と絽奈は思う。おそらく給食が終わって昼休み、教室の友達との話題に出たのを五時間目が始まってから共有してきたのだろう。授業をちゃんと受けろ。そしてこっちはいつもいつでも暇しているわけではない。大人の余裕で絽奈は返してやる。『後でね』返ってくる。『絶対やってね』
それからは、結構作業に集中した。
動画サイトから追放されて始めたゲーム制作だけれど、やっぱり意外と性に合っているのかもしれないと自分では思い始めていた。ゲームシステム部分については新たに考えることばかりだから戸惑いは大きいけれど、ノベルゲーム風にすれば一度作った立ち絵でしばらく回せるし、こういうのは負担軽減になる。絵を描くよりは文章を書く方がだいぶ労力は少ない。前に軽いのを作ったときからだいぶ間も開いてしまったしとりあえず試作からと触り始めた短いそれは、もうすぐ一旦の完成を見るところとなりそうだ。湊と色々話しているうちに、何となくプログラミングの感じも思い出せてきた。リリースしたら反応する数字の動きを見ながら、次にやることを決めていこう。個人的な感情としては、次は順当にRPGみたいな参考にできるものが多そうなジャンルにしてみたいけれど。
そうこうやっている間に、十七時を過ぎる。
窓を開けて、襖も開けて、据え置きのコンシューマゲームを起動した。
もちろんゲームと言ってもただ遊ぶだけではない。運動をするのだ。最近のゲームでは運動ができる。可愛いインストラクターのキャラクターに「今日も頑張ってるね!」と褒められながら、日課としてのそれを始める。この時間の充実感はすごい。正直運動はそんなに好きではないし、やる気がない日のこの時間は昼寝に当てているけれど、しかし何だかこういうのをやっている自分はひょっとしてかなり立派な人間なのではないかという感じがしてくる。ちょっと汗もかいた。湊が来る前に軽くシャワー浴びちゃおうかな、と思いつつ、しかしもちろん頭の中にはあれが念頭にある。
畳の上で、動画を再生し始める。
そして絽奈は、盛大に足を攣った。
凄まじい威力だったし、一撃だった。確かにこれだけハードなストレッチをすれば1日10分2週間で開脚ができるようになるかもしれない。そして自分はその1日10分を耐え切るだけの体力も柔軟性もその他諸々も何もない。ものすごい攣り方をした。脚をそれ以上開くことも閉じることもできず、倒れ込むことも立ち上がることもできず、この世の終わりみたいな十五秒間を過ごす羽目になった。
何とかその攣ったのが落ち着いて、畳の上に崩れ落ちる。
落ち着いてからもなお痛い。違和感がすごい。はあ……はあ……と息切れをしている。墓から蘇るゾンビのような手つきで端末を手に取って、メッセージを打ち込む。『足が』途中で送信してしまう。すでに帰宅しているのか、爆速で返信が来る。
『つった?』
『折れた』
『かわいそう』『きゃっきゃ』『萌え~』
なんだこの後輩、と思いながら畳の上に端末を置いた。
風を浴びて、再び立ち上がれる時を絽奈は待っていた。夏の終わりに一瞬だけ元気になったセミの声も、もう聞こえない。蚊はまあまあまだ生きている気がするから、蚊除けの殺虫剤は点けっぱなし。そういえば、と思う。一応あの日、リュックに花火も持って行ったんだけど使わなかったな。思ったより湊が落ち込んでたからびっくりしたな。もっと頼ってくれればいいのに。そんな頼り甲斐ないか。でも結構、頼り甲斐がないなりにあのとき良い雰囲気にできたよね? 花火って来年はやっぱりもうダメになってるのかな。だったら今夜にでもまた海に出て行って使い切っちゃおうかな。勿体ないし。
ね、ウミちゃんはどう思う?
そうしてこの部屋が元通りに広くなったことを、何度目だろう、絽奈は思い出す。
秋の空気もいけない、と絽奈は思う。冬に向かって急に寂しくなっていく季節。否が応でも何かが過ぎ去っていったこと、なくなっていったことを自覚させられるし、空が無暗に高くて風が冷たくて全ての音が遠いから、何かが空っぽになってしまった気がするし。冬になればこういう気持ちも落ち着くだろうか。部屋の窓を閉め切って、こたつの中に潜って、澄んだ匂いと夜の静けさに心を預けて、何かに守られている気になって、そうすれば失ったものを満たせたような気持ちになれるだろうか。
何もかも。
過ぎ去った後の、思い出にできるだろうか。
息を深く吐く。深く吸う。深呼吸。
秋風の香りが、鼻先をくすぐる。
気付いた。
「ぅあ、」
花粉症の薬、飲んでない。
しまった、と思う。炊き込み栗お粥が衝撃的すぎて、完全に頭の中からすっぽ抜けていた。花粉のシーズンといえば春だけれど、自分にとっては秋もそうだ。一体何の花粉に反応しているかわからないが、九月の終わりぐらいからもうずっと酷い。夏休みと冬休みよりも春休みと秋休みをごっそり取ってほしいくらいだ。日本の四季は花粉、灼熱、花粉、氷河。早く氷河の季節が来てほしい、こうなるともう薬を飲まないことには日常生活に支障をきたすこと請け合いでそういえば今日の寝すぎももしかして強めの薬を飲んだからかもなんて思いつつじゃあなんでそんな大事なもの飲み忘れたんだって――
くしゃみの気配。
やばい。
こんなタイミングでくしゃみをしたら終わる。まだ足の痺れが取れていない。まずい。何かで顔を覆いたい。布団に手を伸ばす。届かない。クッションに手を伸ばす。届かない。ちょっと動かした足がぴきっとなって、
くしゅん、とやった次の瞬間に、
「お邪魔しまー……何してるの。毒蛇に噛まれた?」
「あ、足っ、足が……」
いつもみたいに、湊が来た。
折れた、と言えば、絶対折れてはないよ、と湊が言う。くしゃみじゃ折れないって。そんな薄情なことを言って、バッグを畳の上に置く。何、攣ったの。攣った攣った攣ったどうにかして。そう言えば、湊は上着を脱いで足に掛けてくれる。攣ってるところ自分で擦りな、と言われるから、言われたとおりその上着越しに手で擦る。
そのまま足が爆発するかと思ったけれど、確かにゆっくり、筋肉は伸びていった。
荒い息を吐きながら湊の肩に凭れ掛かる。
「死ぬかと思った……」
「心配だよ、こんなので死にかけられたら……」
立てる、と訊かれる。ゆっくりやって、と言う。ゆっくりやってくれる。ゆっくり持ち上げられて、それなりに安定した座り方に移行する。そのまま待ってて、と言われてそのまま待っていれば、湊が部屋を出て行って戻ってきて、コップ一杯の水を渡してくれる。
飲む。
はあ、と溜息を吐いた。
「何してたの。フルマラソン?」
「後輩からおすすめされたセルフ拷問」
「怖いねその後輩……」
これ、と湊に見せてやる。へえ、と反応が薄い。やってみろ、と試しに逆ギレしてみたら、普通にやってくれた。普通にできていた。ああでもこれちょっといきなりはキツいかもね、なんて気遣いをする余裕まで見せてきた。
試しに背中をぐいぐい押してみた。
あはは、と式谷は笑った。もっと押して押して。全然相手にされていないし、大人な対応をされるばかり。あの日の弱った湊はどこへ、とちょっとだけ思う。別に、弱ってないこと自体は良いことなのだけど。
「まあでも、いきなりやるのは危ないけど、ときどきこういうのやっておいた方がいいよ。腰とか足もそうだけど、肩とかも。クリエイターの人ってそういうので苦しむようになったらだいぶ辛いんでしょ」
「もうやらない。アキレス腱切れたから」
「そこにアキレス腱ある人すごいね」
私踵長いから。長すぎる。くだらないことを言いながら、その間も攣ったところを擦り続ける。違和感がすごいし、まだ痛い。多分明日までこんな感じなんじゃないかと思う。これはいわゆる肉離れというやつなのではないかという気もしてくる。肉離れのことはよく知らないけれど、何だかいつ見ても字面が怖いと思う。どうしよう。肉が骨からべろーんと剥がれる怪我のことだったら。どうしよう。筋肉が途中で千切れて分離しちゃうんですよみたいな怖すぎる状態だったら。
明日まだ痛かったら病院連れてって、と湊に言う。そんな痛いの?と心配そうに訊ねられる。タンスに小指ぶつけたときの半分くらい。微妙な顔をされる。甘く見るな、と言わざるを得なかった。タンスに小指をぶつけて骨が折れる人だっているのだから。自分の場合は突き指にすらなったことがないけれど。
「アイシングとかした方がいいの、これ」
「いや、攣ったときってあっためた方がいいんじゃなかったかな」
調べてみよっか、と湊が言う。うん、と絽奈は頷く。そうかだから上着貸してくれたんだ、と今更気付く。普通に汗が付いてしまった気がするけれど、大丈夫だろうか。大丈夫な気がする。あんまり湊ってそういうの気にしないし。上着越しに擦るのを続けながら、机の上のマウスを手に取る。流石に湊の格安端末みたいなのを使うよりも、スリープにしておいただけのパソコンで検索した方が早いだろうと思ったから、
ぱ、と画面が点く。
あ、と湊が言った。
「ゲームどうなったの」
あ、うん、と絽奈は頷いて、
「出来た」
「えー、すごい。おめでとー」
まあまあ、と拍手を照れ照れしながら受け入れる。すごいじゃん、久しぶりに作ったのに超早い。まあまあまあ。作るの大変だったでしょ、プログラミングって結構作業量あるもんね。まあまあまあ。やりたいな、これテストプレイとかもうしてもいい感じ?
まあ、
「…………いや」
「あっ。終わってないんだ」
「……いや、一応終わりはしたんだけど」
あのね、とテキストファイルを表示する。台本を書き留めておいたやつ。あ、と湊が声を上げる。やっぱり攣ったらあっためた方がいいって、ネットの言うことだから当てにならないけど。じゃあとりあえずあっためておいてダメだったら湊のせいにして病院連れてってもらう。
ここ、とくるくるカーソルで指し示す。
「どこそれ」
「一番最後」
「まだ思い付いてないの?」
じ、と湊に見つめられる。
う、と絽奈はたじろぐ。そんな言い方しなくたっていいじゃん、と思う。それが伝わったのか、湊は表情を変えて、
「まあ、納得いってないなら悩んでみればいいじゃん。ゆっくりやろ。ゆっくり」
「……それがさ」
「うん」
「なんか、このままでもいいような気がしてて」
たまに出る、自分の癖の一つだった。
長めの話を作っているときに、一番最後のところに差し掛かると急に集中力が切れて、今までのペースが保てなくなってしまう。たとえばそのうち九〇パーセントを十五日かけて作ったとして、なぜかいきなり残りの一〇パーセントを埋めるのにもう十日くらいかかってしまうことがある。ゲームをしているときもラストダンジョンに差し掛かると急にやる気がなくなって湊に丸投げしてしまうことがあるのだけど、何となくそのこととの関係もありそうな気がする。前に晶から「なんで絽奈ってテストの見直ししないの?」と言われたことも思い出す。誤字脱字とか設定に関するチェックを湊にやってもらうとたまに膨大なリストになって返ってくることも。もしかして自分は、何かを丁寧に最後までやり抜く根気に欠けた人間なのではないだろうか。
いやそんなことはない。
今までだって何度も完成させているのだから、
「ここ、最後のところでスチル――一枚絵を表示させるつもりなんだけど」
「ああ、うん。イメージはわかる」
「別に何も言葉を添えなくてもいい気がするし、でも添えないと素っ気ない気がするし……蛇足な気もするし、蛇足でもいいからちゃんと何か言った方がいい気もするし」
「わかんなくなっちゃったんだ」
うん、と答える。
結局、そういうことなのかもな、と。
あんまり長く作業をしていると、もう自分では面白いのだかそうでないのだかわからなくなってくるのだ。今回の作業は一ヶ月以上だし、初めてやることも多かった。全体を見てどうこう、という感覚がもう抜けてしまったのかもしれない。
こういうときは、
「一旦寝かせておいて、頭の中まっさらにしてから確認する?」
「でも」
「うん」
「人から忘れられないかな。しばらく何もアップできてない」
うーん……と困ったように湊は笑って、
「じゃあ、『ゲーム制作中』『近日リリース!』とか、それだけでも先に告知してみたら?」
「そういうのやったことない……」
「どういう感じでやってるのか他の人のやり方調べておくから、後で一緒に文面考えようよ。それとも僕がテストプレイして、その感想でも参考にしてみる?」
うーん、と唸って、
「……それは、自分で考えたい。それなら告知の方がいいかも」
「了解」
じゃ、と湊は笑って、
「ぱーっと遊んで忘れちゃお! 何かしたいことある?」
あ、とその言葉で思い出した。
そういえば。
「――海、」
そうやってあの夏も、始まったんだったって。
「海行きたい」
「……足攣ってるのに?」
「おぶって」
「……まあ、できないことはないと思うけど」
え、とこっちが驚いた。できるの。なんかあんまり絽奈のこと抱えられないってイメージがないんだよね、やったらできそうな気がする。絶対無理だよ。じゃあなんで言ったの。
言ってみただけ、と立ち上がる。いたたたた、と足を擦る。今のはいくらなんでもお婆ちゃん過ぎたな、と自分だけで勝手に恥じる。何を恥じることがある、と考え直す。どうせいつかは行く道だ。先取りしたって悪いことはない。……はず。
「覚えてる? 今度海行ったら花火しようって言ってたの」
「覚えてる……え、買ったの?」
「買っておいた」
「いつ?」
「湊の迎えに行くとき」
ふふん、と胸を張る。おぉー……と湊が本気の感心の声で拍手してくれる。自信が付く。まあ、あのときもウミちゃんに付き添ってもらったし、次にそんなところに行くのがいつになるのか、自分でも全く予想が付かないけれど。
どこにあるの、と訊かれたので、もう早速移動を始めてしまう。足大丈夫、と訊かれたけれど、まだ微妙な違和感はあって、しかし違和感程度で済んでいる。ゆっくり歩く。途中でお父さんに会う。ちょっと散歩してくる、と告げると、やけに嬉しそうにニコニコして「気を付けて行ってきな」と言う。この家に住む人々は、自分が外に出るだけでやけに喜ぶという不思議な習性を持つ。たまに生き方を考え直させられそうになる。裏の勝手口の方に回り込んで、その手前、
「これ」
ぱか、と開ける。
床下収納。
へええ、と湊が驚いた。
「こんなとこあったんだ。初めて見た」
一回使ってみたかった。
そこからホームセンターで買ってきた花火を取り出す。あと何か要るっけ、なんて思っているともう湊がキッチンの方からライターとバケツを持ってきている。お母さんと話を付けてきたらしい。そういえば、と思う。
「あそこって花火していいんだっけ」
「ちゃんと火の始末してゴミ残さないならいいみたい。深夜になるとまだ危ないかもしれないし、遅くならないうちにもう行っちゃわない?」
異論はない。
玄関の方に回る。靴確保。じゃあ行こ、と姿見の前で湊が振り返る。ふと、気まぐれが顔を出す。
「やっぱり裏から行かない?」
あの日みたいに、という意味。
湊が頷いてくれたから、サンダル片手にまた家の中に入っていく。サンダル寒いかな、と不安になる。でもスニーカーで行ったら砂まみれになっちゃうよ、と言われて、それもそうか、と納得する。お父さんが言う。おっ、花火か、いいなあ。いいでしょ。お母さんが言う。帰り遅くなりそう? いや、晩御飯までには帰ります。なんで湊が言うの。確かに、なんでだろ。ふふ。
勝手口の、やたらに高い上り框に二人で腰を下ろす。狭い。肩をぶつけながらサンダルを履く。湊の方はスニーカー。グラウンドを走ってきたんだろうか、砂が目立つ。お先にどうぞ、と合図されるけれど、ちょっと待つ。湊が先に立ち上がる。その腰を掴んで立ち上がる。ああそういうこと、と笑われる。まだ足痛いの。普通。おんぶしてあげようか。ふざけて肩を掴んで、湊が笑って、釣られて笑って、
扉が開いて。
最後の言葉を、絽奈は思い付いた。
昔、話を作っている最中に、湊からこう訊かれたことがある。
――今度は、どんな話作ってるの?
それに絽奈は、こう言って答えた。
――教えない。絶対、ちゃんと全部見てもらった方が面白いから。
今にして思い返すと、あまりにもすげない回答だと思う。湊はそっかそうだよね、と納得してくれたけれど、それは相手が湊だから成立するのであって、他の人にこんなの言ったら顰蹙を買うと思う。よくよく考えると普段の言動にそういうのが結構多めに混じっている気もするし、直した方がいいのかもとか思うけれど、今は一旦置いておいて。
でもやっぱり、それは自分の本音だった。
どんな風に説明したって、それが本編を実際に見るより面白くなることはない、と思っている。
だって、説明だけじゃ終われないから、それだけじゃ足りないと思ったから、文を書いて絵を描いて音を奏でて、全部を表現しているんだから。
それでももし――どうしても。たとえば同じことをもう一度湊が訊いてきて、それでいて湊にもたまには優しくし返してあげたいなと思ったなら。さっきまで作っていた話を絽奈はきっと、こんな風に説明しただろう。
天国の話の、その次のこと。
この世の話の中で一番最初に生まれてきたのは、きっと天国の話だろう。絽奈は本気で、そう思っている。何かの根拠があるわけじゃない。自然とそうなるはずだ、と思っている。
たとえば、悲しいことがあったとき。
どうしようもなく辛くて、これ以上生きていけないと思ったとき。あるいはたとえば――大切な人が、報われないままに死んでしまったとき。大切な人に大切なことを伝え忘れてしまったとき。もう二度と会えないということが、どうしようもない、耐え切れないくらいの後悔になってしまうとき。
天国がなければ、やり切れない。
生きてる間のことだけが全てじゃないって思えなきゃ、悲しすぎる。だから人は、天国の話を求める。天国の話を作り出す。自分のためでも、他人のためでも、どっちでも大した問題じゃない。きっといつか、そういう救いの物語を作り始める。
じゃあ、その次は?
気付くはずだ、と絽奈は思っている。
生きていないことや生きていけないことに物語を与えられるなら、その逆もできるはずだって。生きていくための物語。まだ生きていてもいいって、そう思えるだけの物語。
どんな話なのかは、こればっかりは予想が付かない。二番目の人は、一体何を求めたんだろう? きっと、いくらでも選択肢はある。目標を持って頑張る話かもしれない。あるいは目標が持てないままでも生きてさえいればいいなんて、いきなり消極的で、でもそれがかえって本当っぽい話なのかもしれない。自分自身を見つける話かもしれない。自分なんてどこにもいないと気付く話かもしれない。戦って勝つ話かもしれないし、負ける話かもしれないし、戦わない話かもしれない。どこかに辿り着く話かもしれない。辿り着かない話かもしれない。そんなの人によって違って、場所によって違って、時代によって違って、本当のところそんなの、何だってよくて、
でも、できるなら優しい話がいいな、と思うから。
絽奈が書いたのは、友達の話だ。
ある夏の日に、一人の子どもが、同じような子どもに出会う。ちょっとだけ、不思議な見た目。言葉だって、上手くは通じない。でも、お互いがお互いに興味を持っているから、少しずつ距離は近付いていく。一緒に楽しいこともする。どんどん人が集まってきて、気付けばその子は、全然特別なんかじゃなくなってる。当たり前のちょっとしたことで喜んで、遊んで、楽しんで、いつの間にか、他の子たちとも一緒に遊ぶようになって。でも、その子には目的があったものだから。夏が終わるころになって、その目的が叶ってしまうものだから。
その子は、元居た場所に帰ってしまう。
それで、
「ろな、みなと。ひさしぶり」
生きているってことは、と。
まだぎこちないままの足で駆け出しながら、絽奈は思っている。
きっと、猶予があるってことだ。
来週死ぬでも、明日死ぬでも、何だっていい。でも、そうと決めた日までは生きている。何かがやれる。やれなくても、何かが起こるかもしれない。
起こりうる、何かがある。
だからこれは、当然のことなのだ。
だって、あのとき笑顔で別れたんだから。友達だったんだから。
別れた友達とまた出会うなんて、そんなのみんな、毎日だってやるようなことなんだから。
こんなの全然、不思議じゃない。
意外でも何でもない再会を喜びながら、それを分かち合うために抱き合いながら――秋にはちょっと冷たいくらいに感じるあの体温を懐かしがりながら絽奈は、湊と一緒に。
思い付いた最後の言葉と、全く同じことを、心に思う。
明日も良い日になりますように。
(了)




