エピローグ ②
「よし、改めて訊くぞ。花野、式谷。お前ら、そろそろ進路は決まったな」
「せんせー」
「僕たち」
「私たちは」
何もしたくありません、と声をぴったり合わせれば、宇垣が机の向こうで頭を抱えている。
放課後の、空き教室でのことだった。
「……頼むから、卒業式でそれをやるなよ」
「え、私たちが答辞やるんですか」
「え、そういう話?」
「逆にお前たち以外の誰がやると思うんだ?」
「これバイト休むなら代役見つけてこいみたいな話ですか」
「あれ何か理不尽じゃない?」
わかるおかしい、と心の底から頷けば、すっかり外は短い短い秋だった。
夏の間あれだけ照り付けていた日差しが、今は別物みたいに涼しい。多湿と高温に耐え続けた校庭の葉も徐々に駐輪場の彩りに変わり始め、何よりクーラーを点けないまま長袖を着ていても汗をかかない。息切れしない。何も苦しくない。
二々ヶ浜中学にいくつもある空き教室の、奥の方の一つだった。
黒板なんか、もう六十年くらい使われた形跡がないように見える。机と椅子のほとんどは隅の方に追いやられて、こんなところで授業を受けていたかつての生徒なんてもう全員幽霊になってしまったんじゃないかと思わせるくらい静か。
衝撃の夏休みが終わり。
激動の九月も終わり。
花野は、相変わらず式谷と一緒に白紙の進路票を提出していた。
「……わかった」
頭痛を堪えるような顔をしているのは、退院してきて早々再び馬車馬のように働かされている宇垣真一郎。可哀想に、と式谷が言う。お前もだよ、と花野は隣で思っている。が、罪悪感が働くかと言われると、そうでもない。結構ちゃらんぽらんな人だとわかったから。どうせ、この人はこの人で昔はこういうことを言って人を困らせてきたのだろう。
今度は困らされる番が来た、というだけの話だ。
この論法で行くといつか自分も困らされることになるのかも、と一瞬考えが頭を過って、花野はしかし無理やりそれを忘れることにする。
「勝手に私が決める。お前たちは高校に行け」
「通学に片道一時間以上掛かるのに?」
「脚を鍛えろ」
「宇垣先生ってこんなめちゃくちゃなこと言うっけ」
言う、と花野は頷く。
病院ではもっとめちゃくちゃなことを言っていた。もっと無責任になれとか、別に世の中の人間が辛い目に遭っているのはお前が頑張っていないせいではないとか、社会は複雑に発達しすぎてもう個人の頑張りでどうこうできるレベルの遥か先に問題はあるんだとか、
自分は今は頑張れない、と思ったときには。
頑張れるようになるまで、他の人に頑張ってもらえばいいんだ、とか。
「というか、進学するにしても高校は別にいいんですけど。式谷のお姉ちゃんも直で大学行ったらしいし」
「そういえば花野さん、高校の教材どうだった? あれで大丈夫そう?」
「大丈夫じゃん。四周くらいしたら大学入試の問題だいたい解けるようになったし」
「天才じゃん」
「ぴーす」
「花野。高校に二年行けばそこから大学に飛び入学もできるぞ」
天才っぽい、と式谷が言う。
天才っぽいけど、と花野は、
「別に、そこまで生き急ぐ気ないです。やりたいことも特にないし」
「…………」
「これどういう顔?」
「自分の人生とか振り返ってるんじゃないの」
ええいやかましい、と宇垣は言う。あの日、病室でタガが外れたように己の過去を語られてからというもの、すっかり花野の中でこの教師はこういう扱いになってしまった。いいか、と宇垣は言う。別にどうでもいいので、どうぞ、と花野は言う。
「民主主義政治を円滑に行うためにはな、それぞれの主権者が一定の合意に至るための妥当な思考プロセスを共有できているかどうかが重要なんだ」
「政治の話が始まっちゃったんだけど」
「この学校、生徒に政治思想を注入してます。おまわりさーん」
「そしてそうした思考プロセスの中で今のところもっとも汎用性が高い――つまり前提を認識し、仮説を置き、誰でもそれに対する批判や検証が可能という意味だが――その形式が科学であり、ゆえにそうした科学教育を行うことで全ての子どもたちに社会の形成者としての能力を育んでもらうというのが学校教育の一つのモデルであるわけでだな、」
「言うほど誰でも検証できる?」
「無理でしょ」
「花野さんが無理なら無理じゃん」
「――それは確かに、今や現代社会も科学もどんどん専門領域が分化し、個人個人の一般的な科学的素養だけでは到底諸々の決定に対する精緻な理解は望めず、だから私はこれだけ社会が複雑化した今、義務教育を三十歳まで延長すべきだと思っているが!」
「長すぎない?」
「自分が三十くらいまでふらふらしてたからそれなんじゃないの?」
「あ、そうなんだ。じゃあ僕らもそれくらいまでふらふらしてよっか」
「ね」
「……ふらふらするなら、とりあえず学校に行っておけ。ふらふらしているにもかかわらず『何かをやっている』ように見える場所というのは、それほど多くない。やりたいことがないならなおさらで、教室に限らず何かのグループに足を踏み入れることで少なからず見えることもある」
それに、と宇垣は言う。
「何のかんのと言ってどこまで教育を受けたかというラベルはまだまだ社会においては何らかの便利なパスポートとして通用してしまうし――実際、さっきの科学教育がどうのというのも満更建前だけではない。科学的な思考がどれだけ共有できるかが社会運営と発展的維持の鍵になる以上、教育というものは今日日、『受けたければ謹んで受けろ』とか『成り上がりたければ努力して掴め』という類のものではなく、『できる限り受けてくださいお願いします』と頭を下げて社会全体が頼み込むべきものだ」
「私、別に学校行かなくても自分で勉強しますけど。それじゃダメなんですか」
「……これは、花野のことを信頼していないとかそういうわけじゃないんだが」
「はい」
「独学はどうしても修正を利かせるのが難しいし、専門的な分野になればなるほど参考になる例も少なく、学習ルートが把握しづらい。私も色々学ぶにつけ、『大学に居るうちにもっと色々なものに触れておけばよかった』と思うこと頻りだ」
「でも、大学に居る教員がめちゃくちゃな人だったらどうするんですか」
「この間やってたやつみたいなね。あの、緒方さんがやられたのみたいな」
うーむ、と宇垣は腕を組んで天井を仰いでしまった。
今日はこれで終わりだな、と花野は思う。時刻は五時過ぎ。秋の日はつるべ落としの言葉どおり、この間まではいつまで経っても昼だったはずの一日は、早くも日没を待ちきれずに薄暗くなり始めている。ひゅう、と風に吹かれた木の葉が、ベランダの床に擦れてかさりと音を立てる。
がら、とタイミング良く扉が開いた。
「ちす」
薊原が、学校指定のカバンを肩に掛けて立っている。
「まだやってんすか、これ」
「やって……る。が、どうした薊原。何か用事か」
「いや、オレがってわけじゃないんすけど」
こいつらが、と親指で廊下の方を差す。
いやいやいいっす、いいすから、とか声が聞こえてくる。聞き覚えがある。
「下川くん? あ、ごめん。待たせちゃってたのか」
式谷が言うと、ちょい、と扉の陰から顔を出す。下川だけじゃない。いつもつるんでる残りの二人も。進路相談?と式谷が訊けば、っす、と頷く。
じゃあいいや、と花野は椅子を引いて立ち上がる。
「今日はここまでということで」
「ということで」
式谷も便乗して立ち上がる。うーむ、と宇垣はまたも腕を組んだけれど、この学校の教員の数は限られており、進路相談のはずなのに生徒側が二人並んで三者面談みたいな謎の状態になっていたのも苦肉の策であり、さらには物事には優先順位があるわけで、少ない教育リソースは余裕ぶった顔をしてふらふらしている奴らよりもまだまだ学内外問わず問題があって戸惑っている生徒たちに割かれるべきだから、
「――そうだな」
宇垣も、最後には結局頷いて、
「さっきの問いについては、明日までに答えを考えておく」
「大変ですね、宇垣先生。毎日生徒に宿題出されて」
お前な、と宇垣が式谷に苦言を呈そうとする。
けれど、人懐っこく笑ったいつもの顔を前に、その苦言は苦笑に変わって、
「――全くだ」
教室の外と中とが入れ替わる。花野は式谷と一緒に廊下に出て、下川たちを教室に入れる。すんません、大丈夫すか。そう訊ねられるから、大丈夫、と式谷が答える。宇垣は早速もう一個の机を運んで四者面談の場を作り始めている。
薊原が、
「終わり?」
「うん」
「んじゃ帰っか」
気を付けて帰れよ、の言葉に、三人揃って「はーい」と答えながら、歩き出した。
「お前らまだやってんの、進路相談」
「永遠に終わらない」
「永遠に白紙で提出してるもんね」
昇降口に降りていく。西日が差して、金色に輝いている。夏合宿の余韻はあれから一ヶ月が経った今でも頭の中に残っているらしく、こういう景色を見ると、花野は強制的に若干の空腹感を覚える。いつもこういう色合いになる時間帯には、調理室から食べ物の匂いが漂っていたはずだから。
ほんのりと夕陽に炙られて温かいスニーカーを、ぱん、と床に放る。三時間目のサッカーで付いた土埃が、少しだけ三和土の上に舞う。
「そういやどうだったの」
「何が」
「薊原屋敷の大冒険。昨日……あれ、一昨日だっけ。スペース増設に大掃除するって言ってなかった?」
残りの二人が靴を履き終わるのを待って、それから昇降口を出て行く。日の光は、意外と眩しかった。目を細める。
「とりあえず追加の奴らが来たとき用の眠れるスペースだけ確保して、後は査定の業者待ち……つーか、業者探し中。ああいうの、やべーところ多そうだし」
「一財産築けそう?」
んな上等な家じゃねえと思うけどな、と薊原は言う。いや、と花野は口を挟む。他の生徒を泊める余裕のあるばーちゃん家なんていうのを持っている奴は、そもそも一財産持っている。
「んなこたねーよ。久しぶりに乗り込んだら周りの草やべーことになってて玄関まで辿り着けねーし……廃墟だ廃墟」
「え、それ草どうしたの。刈った?」
「いや。適当に道だけ作った。冬になったらどうせ枯れんだろ」
「うわ」
「なんだよ」
それ虫とか草むら伝いにすごい入ってくるよ、と花野は伝える。マジかよ、の言葉を背にしながら、ちょっと奥の方に停めた自転車を引っ張り出す。
ちょうどそのとき、校門の前で軽トラが停まった。
「あ、」「お、」
「今開けまーす!」
やっぱりこういうのに気付くのは、式谷が一番早い。
校門の前まで行く。内鍵の簡単なやつを開けて、がらら、とそれを引く。停まった軽トラの運転席に座るその人は軽く手を挙げて、慣れたハンドル捌きで駐車場に入っていく。
出てくる。
「ありがとー。式谷さん。助かっちゃった」
はーい、と式谷はそれに答えると、改めて駐輪場に戻っていく。入れ替わりで花野は薊原と一緒に、自転車に跨って佐々山に近付いて、
「今日出張だったんじゃないんですか」
「うん。行って戻ってきた。ほんとは結構早めに終わる研修だったんだけど、県境跨ぎだから戻ってくるのに時間かかっちゃったんだよね」
「軽トラで高速乗ったんすか」
「いや下道。途中でコンビニ休憩とか挟みつつ」
直帰しちゃえばよかったのに、と二人で言うと、君たちは私の上司か、と佐々山は笑って、
「先生は満遍なく残業して負荷を分散させたいタイプなの。週五で八時間勤務するより週七で六時間勤務したいタイプ」
「私は週一の一時間勤務がいいですけど」
「そりゃ私だって許されるならそっちの方がいいよ」
オレは週七で働くくらいなら週二で四十時間の方が、と薊原が言う。そんなこと言ってられるのは若いうちだけだ……と暗い瞳で佐々山が言う。式谷が追い付いてきて、
「おっ、なんか高校生がいると思ったら佐々山先生だ」
「ありがとう、気を遣ってくれて。でも大丈夫、先生はもう加齢を楽しむフェイズに入ってきたからね」
「早」
「二十三とかでそれすか」
「かえって健康に悪そうじゃない?」
「ちびっこども……」
さっさと帰れ、ととうとう言われてしまう。はーい、とやっぱり三人で言って、お疲れさまです、無理しないでくださいね、そんな余計なお世話を残してみれば、向こうもお返しにいつもの言葉を投げてくれる。
気を付けて帰りなね。
「もうめっちゃ秋だねー」
坂道を下った先で、そんな話をしながらカーブを曲がって行った。
式谷の言うとおり、あたりの景色はすっかり秋だった。あのうだるように暑かった夏、暑すぎて周囲一帯がたわんでぐにゃぐにゃに変形するのではないかと思われたような夏は、いつの間にか過ぎ去っている。今や冬に向けて枯れるのを待つ秋草と、少し乾いた風ばかりが二々ヶ浜の町にそっと添えられている。
な、と薊原が言う。
「つーか寒暖差異常だろ、マジで」
「薊原、九月くらいちょっと体調怪しそうだったもんね」
「半袖で行けると思ったら全然無理だったわ」
「今年厳冬らしいよ。酷暑の次、厳冬」
終わってる、と花野は言う。多分、同じようなニュースをこのあいだ見た。冷え込みが厳しく暖房代がピンチ、みたいな番組。電気代を節約しながら室内温度を保つための十の技、みたいないつものやつ。
そういや、と薊原が言った。
「冬合宿ってやっぱ、夏合宿と似たような感じでやんのか?」
「あ、うん。一応……って、そっか。薊原って冬合宿も初めてだっけ」
「おう」
「まあ大体似たような感じ……だよね?」
「じゃん。ストーブかエアコンかけてご飯作って布団敷いて寝る。あ、でも風呂だけちょっとアレ」
「あ、そうだ。流石にプールのシャワー室使うと凍え死ぬから」
へえどーすんの、と薊原が訊くから、式谷が答える。普通に家と往復か、後は公民館の大浴場行くかかな。夏と違って雪降らない限り往復の間に死ぬ心配ないし。外行って出歩けるから割と夏より気楽だと思うよ。
ふーん、と薊原は頷く。来るでしょ、と式谷が言う。行く、と口にはしないで薊原が頷く。こいつら結構仲良いよなということを花野は思う。式谷も普通に呼び捨てにしてるし――なんてことまで考えるとしかし、二々ヶ浜小学校の名前の呼び方文化に自分が与えてしまった影響のことを振り返ってしまいそうになるので、
「まあでも、受験近いし三年は夏より落ち着いてるかもね」
そんなことを、言い添えた。
そっかそうだな、と薊原は頷く。オレもいい加減本腰入れねーとな。なんでこいつは私らより後から学校に本格登校し始めて私らより先に暫定進路を決定してんだ、と花野は思う。しかし学校に本格登校すらしていない友人が暫定どころか本格進路を決定していることを考えると、そういうものなのかもしれないなとも思い、左に曲がって林道を抜けて、右にセピア色に生い茂る秋の草むらを眺めながら、
『おおはま』と書かれたポスターの脇をすり抜ける。
すでに終わった、一番近くの選挙跡。
「そういや、また勝ったな。オマエん家のねーちゃん」
同じものを見たのか、薊原が口に出した。
「え、あれ。今日だっけ。もう出てる?」
「出てた。……よな?」
「知らん。いつ?」
「さっき。開票速報かなんかで当確出てた……と思うんだけど、わり。あんま細かく見てねーからソース適当だわ。間違ってたら許せ」
いやでも、と花野は思う。
「勝ったんじゃないの、そりゃ」
連戦連勝、選挙の魔術師。
選挙民主主義の寵児。世界を変える百人の一人。在職二十年のベテランにワンラウンドKO勝ちを決めた革命のスーパールーキー。指名手配から一気逆転、衆院占う地方選に次々快勝、なるか汚職一掃新政権。
スポーツ紙なんかを中心に、そんなめちゃくちゃな感じで書かれるくらいの人だから。
「どうすんの、式谷姉。未来の大統領?」
「たまに帰ってくると疲れた顔して『早く辞めてー』って言ってるけど」
「マジか。やっぱ遠征で体力持ってかれてんのか?」
「いや、なんか純粋に政治とか選挙とかやりたくないみたい。地方選の時点で結構妨害食らってるから国政選挙が始まったらどうなるかわかんないってよく言ってるし、年齢的にまだその、団体?の人たちもほとんど被選挙権がないから、自分たちで直接立候補して決着を付けるみたいなのができないし、現地で信頼できる人を増やすのも骨だしみたいな。でも中途半端に終わるとまた指名手配かけられるかもしれないし、やるところまでやるしかないみたいな。遠出はむしろ好きってうか、ストレス発散になってるんじゃないかな。昔からふらふら旅とか出てたし。あ、次は北海道だから蟹とか送ってくれるかもって言ってた。食べにくる?」
「……いや、悪いだろ」
別に、と式谷は言った。父さんはお姉ちゃんたちのボディガードで向こう行っちゃってるし、母さんは今ほら、前の選挙戦で怪我人出過ぎて忙しいから、あんまり家にいないし。
「千賀上は?」
「絽奈って絶対脚の多い生き物食べるの好きじゃないと思う」
「わかる」
「ね」
「蟹のこと『脚の多い生き物』って思うか……?」
絶対カニカマの方が好き、と花野が言えば、わかる、と式谷が頷く。
でも多分蟹の身全部取ってもらえるなら普通に美味しく食べるよね、と式谷が言うから、わかる、と花野も頷く。
じゃあ決定、と、
「貰えたら適当に連絡するので集合してください」
「うぃー」「了解」
式谷がにっこり笑う。
それから不意に、ああでも、と。
「そっか。もうあと半年ないんだ。中学生活」
ハンドルに体重を預けるようにして、白く色づくような声でひっそりと呟く。
「寂しー……」
花野には、思うことがあった。
いかにも夏の過ぎ去った寂しげな、というか完全に盛りを過ぎて後は衰退していくばかりのこの国とか町とかそういうのを背景に、こういうことを前よりもさらに頻繁に言葉にするようになった友人を見つめながら、
「式谷」
「ん」
「今度進路調査の紙貸して」
「なんで」
「勝手に式谷の進路希望書くから」
「なんて」
「アイドル」
「なんで?」
「情緒不安定だから」
変なツボにハマったらしかった。
式谷が珍しいくらいの大笑いをするのをひとしきり薊原と遠巻きに眺めた後、しょうもない話ばかりをした。僕、花野さんのその偏見シリーズ結構好き。結構ってレベルじゃなかったろ今。偏見じゃなくて事実でしょ。こいつの偏見のレベルもやべーし。いやアイドルじゃなくて式谷の方ね。いやまあまあまあ……え、それなら花野さんの進路調査の紙も貸してよ。なんで。アイドルって書くから、二人でやろ。やだよ。こいつすげーな自分で言っといて。
マネージャーなら考えてもいい、と言うころに、二々ヶ浜小学校の手前の交差点に辿り着く。
いつものように、自転車を少しだけ止めて、
「そういえば薊原って今日どうすんの。普通にこっち来てたけど。式谷の家?」
「いや、大浜の爺さんのとこに寄るだけ。余ってる布団とかくれるっつーんだけどこっちの道よくわかんねーから……今気付いた。家戻ってから原チャ乗って来た方が楽じゃねーか」
「いいじゃん。一緒に帰れて楽しかったし」
オマエな、と薊原が式谷を見る。
式谷はにっこり笑っている。
薊原は、釣られたように苦笑して、
「……だな」
んじゃオレ行くわ、と自転車を切り返す。
また明日、と式谷がその背に声を掛ける。釣られて花野も、また明日、と続ける。
薊原は振り返らないまま、ひらりとその手を挙げて応えた。
「そういえば、花野さん家って」
別に、そのままの流れで解散でもよかった。
薊原の背中が見えなくなって――その颯爽とした漕ぎっぷりに、そういえば自分にも帰る家があったな、なんてことを思い出して、すぐにハンドルを握り直してもよかった。けれどそんな風に式谷が話を続けてくるものだから、
「何」
「今、ご飯の準備とかどうしてるの。お母さん忙しくなったでしょ」
「普通にお父さん……が多いけど、たまに私がやってることもある。めっちゃめんどい」
「このへんお店ないもんねー」
「しかもうちの妹好き嫌い多いし何もしないし……まあ、小学生だしそりゃそうだけど。式谷とかもそうじゃないの。今ほぼ一人暮らしでしょ」
「ほぼ自炊。料理好きだからいいけど」
「理解できない」
「だって自分で作った料理って美味しいじゃん」
持てる者の傲慢、と言ってやれば、あはは、とやっぱり式谷は笑う。薊原屋敷って誰が料理やってるのかな、瀬尾くん? ローテ組んでるんじゃないの。ああまあ、そうだよね。
はあ、と息を吐いて、
「じゃ、また――」
「あ、花野さん、」
「……寂しいならさっさと絽奈ん家行ったら?」
違う違う、と式谷は言う。
絶対違わないだろうな、という目で見ていると、そうじゃなくて、と続けて、
「市長は?」
「何が」
「進路」
指差す先を、花野は見た。
さっき見たのと同じポスターだった。『おおはま』と書かれた、つい先月の激動の、けれどもう随分昔のことにすら思えるような、選挙の名残。
当日は雨だったな、なんてことを思い出す。
「なんで?」
「向いてそうじゃん。頭良いし」
「式谷の方が向いてるでしょ。人当たり良いし」
「えー……絶対花野さんの方が向いてると思うけどな」
次の市長は、と花野は思う。
確か市長選は四年に一度。式谷姉がこっちに戻ってきて対抗馬を探していたときのあの感じからすると、次に出るのはもしかすると教頭だろうか。それとも最近任期付き採用だったことが発覚した上に、自分たちと同じタイミングで雇い止めを食らって学校から出る羽目になるだろう宇垣? あるいは自分たちみたいな中学生が知っている範囲の狭い世界からじゃなくて、二々ヶ浜のどこかに住んでいる顔も名前も全然知らない誰かが出てくるのかもしれないし、四年後だったら年齢要件を満たしているはずだから、式谷姉が直接ここに出てくることもあるかもしれない。
「ていうか、」
年齢制限。
選挙権は十八歳からで、市長選の被選挙権は二十五歳から。
「ずっと先の話じゃん、それ」
「でも、進路って全部ずっと先の話じゃない?」
いやそういう話じゃなくて、と花野は言おうとしたけれど、さっき人に『アイドル』とか言った手前、何とも否定しがたい返しだったのは確かで、
「まあ、」
ぼんやりと思う。
学校も、学校にいる自分もそんなに嫌いじゃないなとか、そういうことを。
「早くて十年後とかだし、だらだら考えとく」
うん、と式谷は笑う。
こいつもずっと一緒にだらだらしてくれてたら何だかんだ心強いのにな、なんてことを花野は思う。
やりたいことなんか、全然ないし。
自分一人が金持ちになったところで、あんまり満足する気も、幸せになれる気もしないし。
何なら何をやったって無駄で、良くなるところなんか一つもなくて、ひたすら何もかも悪化していって台無しになるような、そんな気だってするけれど。
それでも。
「じゃ、」
「うん」
「またね」
「また明日」
やりたいことがない間は、人がやってほしいと思うことに一生懸命になってもいいのかもしれない。
そんなことを思いながら、花野は。
市長かアイドルって、と笑って、西日を浴びながら自転車をゆっくり漕いでいく。




