エピローグ ①
「『あなたの一票が国を変える』みたいなのって普通に詐欺だよね。前から思ってたけど」
溜息みたいな声で葵が言うから、緒方は隣を見る。
そこそこ広い講堂でのことだ。緒方もここに来るのは久しぶりのこと。学会発表とかシンポジウムとか、そういうのがない限りは学生はここに訪れることはない。講義に使われるような場所じゃないから。学部別の卒業式に使われるくらいが精々だから。
どうやって発表しようか、という話になったときに、あそこなら、と龍門寺が挙げた場所。
実際、配信関係の機材がそのあたりに揃っていたらしくて、今は機械に詳しい人たちがこぞって調整を進めている。
その合間。
隅っこの方の席でスピーチ原稿を考えていたはずの葵は、珍しくにこりともしないでそんなことを言った。
「どういう意味で?」
「一票で変わるわけないじゃん。そりゃ全国規模で探してくれば数十票とかで選挙結果変わるとこもあるかもしんないけどさ。そんなん特殊事例だし」
「葵って選挙行ってないの?」
「あったらとりあえず行ってる。けどさー……」
選挙って言うほどそういうやつじゃなくね、と葵は、
「たとえば集まった何千万票の中からランダムで一個だけ引いてその人を当選させますとかだったらその一票にも価値あるけどさ。小選挙区制とか死票ばっかだし。一票入れたところでそのへんに捨てられて終わりなんだからさ。あんなんガス抜きじゃんね」
「何のガス? 革命?」
「……なんか由加利の語彙怪しくなってきてない?」
だって、と緒方は指を差す。
ちょうど今、龍門寺たちがプロジェクターを使って壇上に投影している資料。理学部棟のあの、怪しいパソコンの中で見つけた告発文。あんなの一日中眺めてたら、嫌でも変な語彙は身に付いてしまう。なあ、と龍門寺がこっちを見る。これ、いくら何でも文章が怪しすぎるし配信では見せない方がよくないか。同感、と緒方は葵と一緒に頷いて返す。
「結局、その政治圧力がかかって違法逮捕に踏み切ったっていう資料一本で行くんでしょ? そっちのテキストファイルのことは伏せて、偶然見つけた体でやっちゃった方がいいんじゃない? 未確認生命体の軍事利用研究がどうとか、国民番号でオンライン不正選挙がとか、そういうのまで載せちゃったらかえって信憑性なくなるし」
だな、と龍門寺も頷いて返す。それから画面が切り替わる。さっきまでの赤字に大文字ゴシック体の、いかにも活動家が撒いてるビラでございます、みたいな文書がスクリーンから消える。代わりにデスクトップの、あのデジタルっぽい山と空の壁紙が出てくる。マウスカーソルが動く。フォルダをクリックする。
テキストファイルと、音声ファイル。
どっちもタイトルは同じ。『0810_警察打ち合わせ会議』あの怪しい文書に従っていくつも立ち上げたパソコンのローカルフォルダに収納されていた、幸いなのかそうでもないのか、聞き覚えのある出席者の名前と発言趣旨、声がふんだんに盛り込まれた一応暫定証拠品。
あんなので大丈夫なのか、ともちろん不安になるけれど。
後はもう、手持ちのカードで誤魔化すしかないところまで来てしまっている。
「革命とか、そういうんじゃなくてさ」
葵が言う。
「政治とか選挙って、『他人にどれだけ影響できるか』のゲームじゃん。運動でもムーヴメントでも政策でも利権の構築でも手段は何でもいい――いや良くはないけど。どうせ今のやり方だと、多数決やって勝つ以外に方針の転換ってさせられないんだし。それを『あなたの一票』って言葉で目ぇ逸らさせて封じ込めてんなっていつも思うわけ。嘘じゃん。一億人もいる国でいきなり誰か一人が『よし、国を変えよう!』とか言ってせっせこ投票所に行ったって何も変わんねーよ。手作業開票の集計誤差に吸われて終わり」
じっ、と緒方は葵の横顔を見た。
講堂の電気は、まだ点けていない。夕暮れ時。紫色の奇妙な明かりが窓から差し込んで、葵の瞳には壇上のスクリーンから差す光が映り込んでいる。状況を差し引いても、ちょっと顔色が薄い気がする。
「だいたいそういう『他人にどれだけ影響できるか』のゲームってエリート有利なわけじゃん。人と対面で会って取り込める量なんてたかが知れてるわけだし。つーか大学入って思わんかった? もしかしてボク、間違えて貴族学校に入っちゃったのかなあみたいな。全然世界違う……ってまあ、それはあたしらだって別のとこから見たらそうなんだろうけど。でも結局そういう貴族みたいな価値観の奴らが経済も社会も中央のあたりはほとんど内輪で抑え込んで回してるわけじゃん。それで上から『あなたの一票のせいで今の国があるんですよ』とか言われても、そんなん責任転嫁だし無力化じゃんね。おめーらだろ国の形決めてんのは――」
「葵」
「なに」
「相当飲んでる?」
ぴた、と葵の口が止まる。
ぺた、と葵が顔に手を当てる。
「顔に出てる?」
「出てないけど、葵がこういう話するときって大体酔ってるから」
「あたし酔ってるといっつもこんな話してんの? 最悪じゃん」
「ね。記憶もなくしてるし」
なんで飲んじゃったの、と緒方は訊ねる。いや違う、と葵は口答えをする。飲んだんじゃなく飲まれた。より悪いじゃん。より悪かったわ。いつ買ってきていつ飲んだのか、と訊ねると葵は短く答えた。さっき。あんまり答えになっていないけれど、何となく緒方は察する。理学部棟を出るときに一瞬姿が見えなくなったから、あのときに自分のロッカーにでも寄って取ってきたのかもしれない。それはそれでロッカーに常にアルコールを常備しているちょっとおかしな人になるけれど、まあ、葵は初めて会ったときからちょっとおかしな人だ。
はーあ、と葵は椅子に凭れ掛かる。勢いが良すぎてどかっと首をぶつける音がする。いってえ、と言いながら、けれどそれ以上は何も動かないで、薄暗い天井の方を眺めて、
「どーでもいーよ、こんな国。滅んじまえ」
気持ち良さそうに目を瞑って、
「……って、わけにもいかないわけですわ」
「ね。追い詰められちゃった」
「なー」
追い詰められちった、と葵は言う。それからしばらく黙る。もしかして寝たのか、と不安になって顔の前で手を振る。んん、と首を振って嫌がった。実家の犬と全く同じリアクションで、ふと、久しぶりに会いたくなった。
やだなー、と葵は言う。
「改革とか刷新とか聞こえはいいけどさ、そういうので一番苦しむのってそうしなきゃいけなくなるような状態を作ってきた余裕の層じゃなくて、変化を受け止めるだけの余裕がない現在進行形で苦しい立場の人たちじゃん。やだわマジで、そういうの」
「葵ってそういうのどこから仕入れてくるの」
「インターネッツ」
「ネット断ちした方がいいよ」
「あと地元。うちの地元、政治と宗教と野球の話しかしないから」
「逆に?」
やべ、と誰かが言った。
壇上のあたり。何がヤバいんだろうと目線を向けると、いや、とその誰かが首を振る。だいじょぶ。さっき一回限定公開で配信テストしてたんだけど、そのチェックボックス外すの忘れてただけ。わかった、のサインとして緒方は頷いて、それから思う。
もうそろそろ。
自分たちで、何かを決めなきゃいけない時間が訪れる。
はーあ、と今度こそ葵が溜息を吐いた。
「大人になっちった」
「私、代わろうか?」
「いーよ。由加利、あんまこういうの得意じゃない……つーか、普通に傷心中でしょ。何かどんどん立て続けにピンチになってるから、そのへん麻痺して何でもない風になってるだけで」
そうなのかな、と緒方は葵の言葉を受け止めて、けれど処理できずにいる。
葵が部屋のインターフォンを鳴らしてくれたあのときよりは、今の方が格段に精神状態は良くなっている気がするのだ。けれど、どっちの方が客観的に追い込まれているかと言われると多分今の方――
いや、
「そうでもないと思うけど」
「嘘だあ」
「葵がずっと隣にいるから、落ち着いてきただけだと思う」
まじまじと。
まじまじと、葵がこっちの顔を覗き込んできた。
覗き込まれれば受けて立つ。真っ直ぐに緒方はそれを見つめ返す。目と目が合う。何この時間、と思いつつ、表情をとりあえず崩さないようにしていると、
「あたしそのうち、宇宙に行くんだけど」
決定事項みたいな言い方で、葵は言った。
「一緒に来る?」
それから、少しだけ関係のない話をした。
これから忙しくなるだろうから、やろうと思っていた海外進学が怪しくなるとか、そもそもこういうことをした後だと国営機関に雇われるのも難しくなるかもしれないな、と実際的な話。意外と将来のこと考えてたんだ、と感心する。じゃあそれどうするの、全部終わってから国外逃亡? 人聞き悪、国外進出な、進出。するの? どうしよっかなー、向こうの滞在資格とかの問題もありそうだし。それとも自分で宇宙開発の起業とかしてみる? 出た。何が。経済学部お得意の起業が。今って理系の方がスタートアップのベンチャー多そうじゃない? あー、どうだろ……由加利はどうなの。何が。得意なの、起業。
知らないけど、と緒方は答える。
やってみたらわかるんじゃない。
やるか、と葵が立ち上がる。緒方もその隣に立って、壇上へ続く。
立ち位置を何となく決める。一人でやるよりは数がいた方が何となく説得力が出るだろう。そんな何の根拠もない感覚で、ほとんど全員が映ることを決める。葵が真ん中。とりあえず緒方はその左に立つ。右には龍門寺が立って、もう一度、さっきと同じことを訊ねる。
「式谷、やっぱり俺が――」
「じゃーんけーん」
ぽん。
ぱー。
ぐー。
「だからこういうのは、」
打って変わって余裕の表情。不敵に笑って、いつ見ても機嫌良さそうなあの雰囲気に戻って、ひらりと手のひらを宙に踊らせて、葵は、
「その日一番運が良い奴がやるんだよ」
四勝〇敗。
五勝目に向かってその日、配信開始のボタンが押される。