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海辺 ⑥


 何を話したらいいのかわからなくて、ずっと何も言わないで、海を見ていた。

 膝から下は、お互いにびしょ濡れだった。よりにもよって、こんな日に限って風が冷たい。夜が近付いてきて、昼の熱が少しずつ海に奪われていく。そのくせ湿気は下がらないものだから、自分の匂いが気になって仕方ない。

 いっそ頭まで海に浸かってしまった方がマシだったかもしれない。

 ちら、と横目で絽奈を見た。

 じっ、と絽奈の目線は動かない。沈みゆく空の紫がかったあの色に、何かを見出しているみたいな瞳。輝いている。寒くはないんだろうか。いつもだったら絶対に寒がるんじゃないかと思う。なにせ、プールでもすぐに上がってしまうくらいなんだから。濡れたままの服で外にこうして座って風に吹かれているだなんて、唇の色をなくしていてもおかしくはない。おかしくはないけれど、夕暮れの暗さと明るさがそれを覆い隠してしまうから、式谷はそれを確かめることができない。

 手を握られている。

 放したらどこに行ってしまうかわからないから、なんて心細さを感じさせるような強さで、あれからずっと。

 振りほどいてどこかに行ってしまうべきなんだろう。式谷には、それがわかっていた。確かに寒い。こんな場所に一人で置いていたら心配になる。でも、いつかは電車はここに来て絽奈を乗せてあの街に戻っていくわけで、そのときまでにこの寂れた海辺のローカル線の終点まで誰かが来る確率は、きっとそんなに高くない。それに絽奈は、自分に付き添われることなんかなくてもこの場所まで電車を乗り継いでやって来たのだ。家から駅までなんて、ひょっとするとこの夏に自転車で遥々渡ってきたのかもしれない。

 心配しなくてもいい。

 自分がここに居なくちゃいけない理由なんて、一個もない。

 なのに、どうしていつまでもここに座っているんだろう?

「……お父さんと、お母さんは?」

 とうとう、絽奈が口を開いた。

 それで、ああ、と式谷は自覚する。声を聞いた瞬間に、心の中に湧いた気持ち。話が始まっちゃった、と残念がる気持ち。どうやら自分は、絽奈とはもう話したくなかったらしい。

 ただ無言で過ごして。

 やって来た電車に乗るところを見送って、黙って窓越しに手を振って、ちょっとだけ笑って。そんな別れを期待していたらしい。

「はぐれちゃった」

 でも、もうできない。

 できないことばかりが、どんどん積み重なっていく。

「ウミちゃんのこと、連れてきてくれてありがとね。怖くなかった? 夜中、電話したの」

 怖かった、と小さく、ほとんど聞こえないような声で絽奈が呟く。こっちを見ていない。何も話さない方がいいんだろうか。でも、まだ言葉は出てくる。

「たまたま近くでウミちゃんの友達に会ってさ。ほんとはその友達に学校の方まで行ってもらえた方がよかったんだろうけど、上手く信じてもらえなくて。でも、待ち合わせの約束だけは取れたから、」

 それで、と繋げて、言葉が途切れる。

 連絡して、来てくれるかわからなかったけど、来てくれた。絽奈がちゃんと電車とかそういうのを調べてきてくれたおかげだと思う。すごいよ。駅まで何で来たの。自転車? 暑かったでしょ。ちゃんと水分取った? ていうかここ寒いよね。大丈夫? タオルとかあればよかったんだけど周りにお店ないし困っちゃうよね。しばらく電車も来ないし、どこかコンビニでも探しに行ってみる? そんな言葉が、続けられない。続けてしまったら、会話がちゃんと流れるようになってしまったら、必ずいつか避けられない質問が来ると、そう思っているから。

 何年もずっと一緒にいたから、その質問を絽奈がどんな声で、どんな顔で、どんな言葉で、どんな言い方で口にするのか、目を瞑れば式谷は、はっきりと頭の中に思い浮かべることができる。

「湊、」

 これからどうするの?


「一緒に住もっか」


 そして、思い出すことになる。

 目の前にいる彼女が、自分の知らない、遠い場所から来たことがあったこと。

 普段話していることとは想像も付かないくらいに綺麗な絵を、歌を、話を作る。そんな子だったこと。

 全然。

 全然そんなの、忘れてしまうくらいに、自惚れていた。

「……なに。その顔」

「……いや、」

 嫌なの、とか細い声で絽奈が言う。そんなことないけど、とすかさず式谷は言うしかなくなる。そういう意味の「いや」じゃなくて、

「じゃあ、どういう意味」

 ぐ、と握る手に力が込められた。

 痛い、とは全然思わない。そんな握力は、絽奈にはない。代わりにこういうことを式谷は思う。

 逃げられない。

「いいじゃん、別に」

 こっちを見ないまま、絽奈は言う。

「どうせどこにも行くところないんでしょ。だったらうちに来たらいいじゃん。いつもみたいに」

「……無理でしょ」

「なんで」

 だって、と式谷は続ける。無理な理由なんて、百個でも二百個でも思い付く。

 一個目から、

「警察に追われっぱなしだし」

「でも、何もしてないんでしょ」

「してないけど」

「じゃあいいじゃん」

 いいわけない。

「捕まるんだって」

「だからうちに来たらいいじゃんって。家から出なければ警察だってどこにいるかわかんないでしょ」

「いや、」

 もう一度、式谷はその言葉を口にした。

 今度は絽奈は、嫌なの、とは訊いて来ない。代わりに拗ねたような顔のままで、海ばかりを見ている。

「だって、お金だって」

「私が二人分稼ぐ」

「絽奈のお母さんとお父さんだって、困るでしょ」

「クリエイターで生きてくとか言ってる時点でもう困らせてる。あと何増えても同じ」

「そんなことないって」

「じゃあ隠す」

「隠せないよ」

「隠せる。ウミちゃんが家にいたのだって気付いてなかったし」

 いや、と式谷は反論すべきか迷った。

 前に、一度あったのだ。大きな買い物袋を持って千賀上家を訪れたとき。絽奈のお母さんと会って、じっとその袋を見つめられて、それから、


 ――湊くん、いつもあの子に付き合ってくれてありがとうね。

 ――あんまり私たちのことは、気にしないで大丈夫だからね。


 たぶん、絽奈が思っているよりもずっと、絽奈の両親は絽奈のことを気にしているのだ。

 だから全然、隠せてなんかいなかったんだと思う。まさか海から来た未確認生物と言葉を交わして地上人類として初の交流を深めているなんてことまでは知らなかっただろうけど――少なくとも、何かの生き物を部屋に連れ込んでいることまでは、見抜かれていたんじゃないかと思う。

 でも、それを言うべきなのかどうか、すごく迷って、

「じゃあ決まりね」

 迷っている間に、絽奈は勝手に立ち上がってしまう。

 手は握られたまま。だから式谷の左の手は宙に浮く。ん、と絽奈がそれを引っ張る。行こ、と言う。

 駅の方。

 式谷は、立ち上がらない。

「何」

 絽奈が振り向く。ちょっと不機嫌そうな顔。ほら、と言ってさらに手を引っ張られる。式谷はそれでも立ち上がらない。

 立ち上がれなくて、

「――げ、」

 言ってはいけないことを、言ってしまう。

「現実、見てよ」

 絶対言わない方がいいんだろうな、と思ってきた言葉の一つだった。

 もう学校には行かない、と言い出した同級生がいたとき。それで、こういうのを作ってこれからは生きていくなんて言われて、今とは比べ物にならないくらい拙い作品を見せられたとき。絶対そんなの無理だよなんて、絶対言わない方がいいんだろうなって。現実を見ろなんて、少なくとも自分だけは、これから一生言わない方がいいんだろうなって、

「そんなの、できるわけないじゃん」

 そう思っていたのに。

「家の中にいるだけでやり過ごせるとか、本気で思ってるの?」

 抑え切れなかった。

 絶対上手くいくわけない。ちょっと考えただけですぐにわかる。あんな田舎のスーパーなんだから。この夏だってレジの人に話しかけられたのだ。いつも随分いっぱい買っていくんだねえ。そうなんです、今友達が泊まりに来てて――そんな言い訳、いつまで通用する? 電気だって水道だってガスだって、メーターを測る人がいる。住んでいる人数に対して使用量が多いとか、そういうところから怪しまれる。ちょっと聞き込みをすればまだ捕まっていない式谷湊って奴と親しかった同級生なんてすぐに絞り込める。それで? 警察が聞き込みに来たらどうするつもり? 玄関先に靴なんか置いておいたら絶対バレるよ。燃やさなきゃ。燃やしたってまだ不審がられるかもしれないよ。押入れの中にでも閉じ込めておいて、それが開けられないことを祈る? 天井裏にでも隠してみる? それとも床下? 変な病気に罹ったらどうする? 保険証も何も使えないよ。そのまま死ぬまでどこかに隠してみる? それでもいいよ。死ぬなら別に、それでいい。けど死ななかったらどうする? 動けなくなって、一週間とか一ヶ月ならまだいいかもね。でも一年二年って続いたらどうする? 十年とか二十年とか、そんなの、

 耐えられるわけなくて、

「冗談やめてよ」

 こんなことを。

 折角来てもらったのは、こんなことを言うためなんかじゃなかったはずなのに。

「もう、帰って……」

 こんなことなら、と思った。

 こんなことなら、あのとき飛び出さなきゃよかった。どうせあれより沖の方になんて入っていくわけがないんだから。膝の辺りまで濡らして、誰も出てこないことにがっかりして、くしゃみをしながら電車を待つ。自分のことなんか忘れて、二々ヶ浜に帰っていく。そんな姿を遠くから見ているだけでよかったのに。

 それだけで、よかったのに。

 絽奈は、少しだけ立ち止まった。

 顔を見ることができない。合わせる顔がない。それから、またゆっくりと絽奈は砂浜の上に腰を下ろしていく。手を放さない。この期に及んで、振りほどく勇気もない。どうして立ち去ってくれないんだろう。早くどこかに行ってくれればいいのに。電車が。電車がもっと早く、この駅に着いてくれればいいのに。どこか安全な場所へ、もう一度絽奈を連れて帰ってくれればいいのに。

 夏と、海の音がする。

 絽奈の唇が、開く音。

「じゃあ、来週とかに一緒に死のうよ」

 顔を見た。

 なぜか絽奈の方がぎょっとした顔をして、こっちを見ていた。

「うそ。泣いてる?」

 ごめん、と焦ったような声。何も謝ることなんかないのに。勝手に泣いてるだけなのに。焦ったような動きでポケットを探り始める。あった、と取り出したのは、どこかで一回使ったのか、変な折り目のついたハンカチ。小学生の頃からの癖で、絽奈はいつもハンカチとティッシュを持って歩く。

 大丈夫、と不安そうな顔をして、そのハンカチをこっちの目元に当ててきた。絽奈は涙の拭き方を知らない。擦るように動かすから、きっと後で目が腫れる。

 でも、されるがままになって、それを受け入れる。

 これでいいのかな、とやっぱり不安そうに絽奈はハンカチを離して、それから、

「湊って、泣くんだ」

 本当に不思議そうに、意外そうな顔をして。

 無遠慮なくらいまじまじと、こっちの顔を覗き込みながら言った。

 大丈夫、大丈夫、と絽奈は言う。ちょっとこっちに向き直ったままで、肩を寄せてくる。とんとん、と弱い力で背中を叩く。

「別にいいじゃん」

 何でもないことのように、絽奈は言った。

「一年とか十年とか、そういうのが無理なら、一週間くらい続けようよ。それでいいじゃん」

 何が、と思う。

 思うのに、反論が出てこない。あんまりにも極端な言葉だったから。その極端な言葉を口にする絽奈の口調が、今まで聞いた中で一番優しかったから。どこからでも反論できる言葉だから、かえって最初の一つが出てこない。

「だって、ここにいたって湊、何もないんでしょ。だったら何でもいいから帰ろうよ。帰って……何だろうね。ゲームしたりとか、話したりとか、そういうことして、全部ダメになっちゃうまで一緒に居ればいいじゃん」

 私ね、と絽奈は言う。

「いつでもいいよ。いつ終わりにしてもいい」

「……終わりって」

「だって、もう全部わかったから。生きてるうちに何をやるのか」

 たとえばね、と指を折る。

「ご飯を食べる。面白い話とか、すごい絵とか、綺麗な音楽を聴く。で、そういうのから受けた気持ちとか考えを自分で何かの形にして……それで一応、明日生きていけるだけのお金に換えられればラッキー。で、ときどき家族と話したり、友達と遊んだりする。お風呂に入って、快適な部屋に戻って、安心して眠る」

 それだけ、と。

 無理するような調子でもなくて。心から、という声色で、

「そういうの、全部叶ったから。後はもう、いつでもいいよ」

 だってそうでしょ。

 別に、今日は夕方まで遊ぼうって言ってたのが、何かの用事で昼までになっても、ちょっと残念だなって思うだけ。それで昼まで楽しかったことはなくならないし、そういうものでしょ。もう私、自分がやりたかったことは全部できてる。後はずっとこれを続けていくだけで、だけど、

「幸せって、量じゃなくて質じゃない?」

 だから、と。

 彼女は言った。


「帰ろうよ。寂しいもん、湊がいないと」


 きっと、と式谷は思った。

 これは、決して乗ってはいけない誘いなのだ。

 二人乗りで海に行こうとか、そんなレベルの甘っちょろい誘いなんかじゃ、全然ない。無免許のバイクの後ろに乗るのよりもずっと酷い。夏祭りで金魚すくいに挑戦させられるのよりもずっと頼りなくて、たまたま遠くからやってきた未確認な生命体を家に泊めたり、学校に連れ込んだり、みんなで匿いながら一緒に生活を送ってみたり、そういうのよりも断然望みがない。合法カジノで脱法のお金を友達に奢ってもらうのと比べたって怪しくて、身体にものすごい悪影響を及ぼすドラッグを鼻から吸いまくるのと多分、そんなに変わらないくらい危ない。図書館から本をすぐに返すつもりで勝手に持ち出しちゃったなんて、そんなのとはまさか、比べ物にならない。

 なのに式谷は、あの日のことを思い出していた。

 金魚が死んだ、あの夏の終わりの日のこと。

 絽奈は泣いていた。泣いて、埋めて、縁側に腰掛けて、まだ線香の香りが煙のように漂う庭先に、目を落としていた。まだ夏の日差しが残っていたから、蚊取り線香の匂いもひょっとしたら混じっていたかもしれない。セミの声。焦げ付く西の空。今よりも少しだけ涼しい、夏の暮れ。絽奈は呟く。

 幸せだったかな。

 それが、最初の一回目。

 二回目も三回目も四回目も、同じ答えを自分は口にした。うん、きっとそうだよ。でも、そのうちわかるようになってきた。それは絽奈が求めてる答えじゃないってこと。勝手に他の生き物の気持ちを代弁するような言葉を求められているわけじゃ、全然なかった。だから、何回目からだかは覚えていないけれど、それからは絽奈がそのことを忘れられるまで――あるいは忘れないまま、それでも口に出さずに置いておけるようになるまで、同じ答えを口にするようになる。

『わかんない。

 でも、僕だったら――』

 式谷は、覚えている。

 絽奈が、死んだ金魚を水の中から、そっと両手で掬い上げたところ。あんなに虫が苦手なのに裏の山に入っていって、いくつかの花を摘んで戻ってきたところ。小さく掘られた庭の穴にその花を敷き詰めて、金魚をその上に、大切に寝かせるように置いたところ。

 その次に、絽奈が書いたのが。

 一匹の魚が、天国を目指す話だったこと。

「絽奈、」

 名前を呼ぶ。

 ん、と絽奈がこっちを見る。安心させるように笑っている。こんな風に笑ってるところを初めて見る。いつも不安がっているのに。これから先に、そんなに遠くない未来に、これまでなんか比べ物にならないくらいの不安が待っているはずなのに。

「人生全部、めちゃくちゃになっちゃうよ」

「いいよ別に。今更だし」

「……絶対、いつか後悔するから」

「後悔するくらい長生きできたらね」

 それなのに。

「――ここまで、」

 どうしてこんなことになっちゃったんだろうと思いながら。

 式谷は、口にしてしまうのだ。


「ここまで迎えに来てくれて、ありがとう。すごく嬉しかった」


『わかんない。

 でも、僕だったら、幸せだったと思うな』


 ほっとしたみたいに、絽奈が息を吐いた。

 さっきまでの作りものの笑顔が消える。それからいつもの、すごく見慣れた、あの無防備な笑顔が現れる。

 あーあ、と式谷は思う。

 何もかも全部、台無しになっちゃった。

「別に。湊だっていつも迎えに来てくれるでしょ」

「距離が違うよ」

「……いや、えっとね。三、四、七年分」

「これ一回で?」

 何、計算する?なんて急に絽奈が喧嘩腰になり始める。しゅっ、とあのよくやっている運動ゲームで鍛えたらしい右ストレートが飛んでくる。手のひらで受け止める。心配になるくらい力がない。何百発向けられても、たぶんちょっと嬉しいだけで終わると思う。絽奈がふと、またこっちの顔に目を留める。手の中に握ったままのハンカチを、もう一度顔に寄せてくる。

「これ、一回やってみたかった」

 またごしごし床みたいに顔を擦られながら、式谷は目を瞑る。はいできた、と言われて何ができたのか知らないけど目を開ける。安心したのか、絽奈がふふ、といつもよりやわらかく笑う。

 一人で生きて行けたらよかったな、と式谷は思った。

 そうすればもっと長く、こんな風に笑っていられただろうに。

「次の電車って何時?」

「知らない。駅の看板に書いてあるでしょ」

「一時間後とか? ちょっと待って、調べる……あ、そうだ。なんで返信くれなかったの。見てすらないし」

 仕方ないじゃん、みんなに迷惑掛けたくなかったし。

 絽奈が端末を弄るところをじっと眺めている。経路検索に手間取ってる。ろくに外に出掛けないから。ついでに充電の減りもすごい。まさかほとんど家から出ないのにモバイルバッテリーなんか持ってるはずもないし、早めに調べ切っておかないと途中からは勘で二々ヶ浜まで帰ることになるかもしれない。

 全然わかんない、と絽奈がローカル線の、質素を通り越して何かの暗号みたいになっている時刻表のページを前に音を上げる。湊やって、と端末を渡される。どうやって帰るつもりだったの、と訊ねながらそれを受け取ると、絽奈は自分の仕事は終わりとばかりに両手を砂の上に突いて、

「ウミちゃんが、」

 ぽつり、呟いた。

「一緒に帰ってくれるかなって、ちょっと期待してた」

 釣られて式谷も、海を見た。

 もちろん、その場面も見ていた。絽奈が無事に電車に乗ってこの場所を後にできるまではと思って、終点の駅のさらに先、ホームの陰に姿を隠していたから。あの猫に向かって一直線に走っていくウミの姿を、式谷は見ていた。

 行っちゃった、と思う。

 それと同時に、こうも思う。

 迎えに来てくれる誰かと迎えられる誰かがいて、そのふたりが、どこかに並んで帰ることができるなら。

 それは、とても幸せなことなんじゃないかって。

 絽奈が立ち上がる。指がほどけそうになる。それをもう一度強く握り直したのが自分の手だったのか絽奈の手だったのか、式谷にはわからない。二人は立ち上がる。歩く。思い出している。あの日。夏の始まりの夜。

 えい、とまた絽奈が水面を蹴った。

 ほんのわずかに波が立つ。だけどそれは海を丸ごとひっくり返せるほどのものじゃないから、すぐに夕暮れに紛れてしまって、見えなくなる。

「呼んでみる?」

 ううん、と絽奈は首を横に振った。

 いい、と言う。折角友達に会えたんだから。自分にとっては短い夏だったけど、ウミちゃんにとっては長い夏だったかもしれないから。長い夏を越えて、ようやくまた友達に会えたんだから。だからいい。ウミちゃんが幸せなら、それでいい。

 でも、

「寂しくなるね」

 うん、と式谷は頷いた。

 少しだけ強く、絽奈の手を握った。

 何となく浜に引き上げる気分じゃなくなって、二人はそのまま足首から下を海に浸しながら、しばらく佇んでいた。けれどそれほど間を置くこともなく、式谷は空にそれを見つける。一番星。夏の月。夕暮れは、もうすぐ夜に移り変わる。IRも何もないこの海辺の夜は、どれだけ暗くなるのだろう。自分では決して辿り着くことのできないあの星は、どれだけ明るく輝くことだろう――思いながら、けれどそれよりも先に、実際的な用事。

 ちゃんと時刻表、確認しないと。

 そのとき、一通のメッセージが絽奈の端末に届いた。

 電車の中でマナーモードにしたままだったらしい。通知音は鳴らない。それから式谷は、ほとんど不可抗力的にその通知の文面を軽く目にしてしまう。差出人は『花野晶』、省略された本文の書き出しは『https://』。何かのURL。流石に自分が見てしまうわけにはいかないし、

「絽奈、これ」

「わかんないって」

 そっちじゃなくて、と押し付ける。

 もしかしたら、緊急の用事かもしれないから。

 絽奈も同じく、怪訝な顔をした。いきなり花野からそういうのを送られてくる心当たりがないらしい。じっ、と画面を凝視する。それからこっちにそのURLを見せてくる。

「これ、ダミーサイトじゃないよね?」

 花野がダミーサイトを送ってくることは恐らく今後一生ないような気がしたけれど、今の状況が状況だから。一応式谷も、ちゃんとそのURLを確認する。自信があるかと言われると、そんなにない。でもそれなりに見慣れているから、多分そうなんじゃないかと思う。

 絽奈がいつも使っていた、一番大手の動画サイトのURLだ。

「違うと思うけど。何? アカウント復活したの?」

「いや、これ多分……配信かな。今配信してるやつのURLだと思う」

「何の配信?」

「わかんない。開けてみていい?」

 絽奈がマナーモードを解除する。いいよ、と式谷が頷いてからも、しばらく躊躇している。知らないサイトを踏むのが相当嫌らしい。追撃のメッセージが来る。『見てる?』絽奈が返す。『まだ』

『見て』

 リンク先に飛んだら、ものすごく見覚えのある顔が映っていた。

 絽奈もそれなりに家に来たことがあるから、すぐにわかったらしい。これ、と声に出す。一方で式谷は声が出ない。出ないまま、その情報をどうにか処理しようとしている。これはどこなんだろう。体育館みたいに見える。そうじゃなければ、どこかのあの、視聴覚室みたいな場所。卒業式とか入学式とか、そういうのをやるような壇上。一人じゃない。何人もいる。隣に座っているのは男の人と女の人が一人ずつだけれど、その後ろに何人もいる。緊張したような面持ちで、唇を引き結んでいる。

 真ん中にいる人も、珍しく。

 子どもの頃からずっと――ずっと、こんな風にしていたらみんなが安心するんだろうなって自分に学ばせてくれた笑顔を引っ込めて、真剣な顔をして。

 そして、何だか。

 ものすごいことを、全世界に発信している。

 茫然と見ていた。みんなどこから辿り着いたんだろう、視聴者数はすごいことになっていて、コメント欄の流れも滝みたいに速い。茫然としていたら、そのまま配信が終わった。絽奈は自動的に次の動画に飛ぶように設定していないらしい。配信終了後の真っ黒な画面が映って、それでも視聴者数はまだ半分以上残っていて、コメントもいつまでも途切れることなく流れている。

 一番喋っていた人のフルネームを、式谷はもちろん、答えることができる。

 自分のフルネームと、三分の二くらい一致しているから。

 見終わっても、まだ茫然としていた。

「……今の、何?」

 訊ねても、もちろん絽奈にだってそんなのわかるわけがない。わかんない、と短く呟く。そうだよね、と式谷は思う。

 それから、自分の端末を取り出した。

 もう、見ないでいる意味がなくなったような気がしたから。

 検索ボックスを出す。でも、なんて入れたらいいのかわからない。指が遊び出す。通知欄。しばらく見ていなかったから、とんでもなく長いレシートみたいになっている。一気に消そうとして、いや一気に消しちゃマズいか、と思い直す。指で一つずつ、ちまちまそれを消していく。その間に何かを思いつくかと思ったけれど、結局何も思いつかなくて、

「メッセージ、めっちゃ溜まってる」

 当たり前じゃん、と絽奈が言った。

 そのままメッセージアプリを開けてしまう。こんなに未読のまま溜め込んだのは初めてかもしれない。一番上にあった名前に触れる。

『薊原一希』

「……なんか、めっちゃピザの画像送られてきてる」

「学校?」

「うん。薊原」

 ピザパほんとにやったんだ、と絽奈が言う。ピザパって何、と式谷が訊き返す。すぐに思い出す。そういえば絽奈の買ったはいいもののすぐに使わなくなっちゃいました家電シリーズの中に個人用のピザ焼き機があったな、と。薊原が送ってきた写真は、ピザだけじゃなかった。焼きそば。たこ焼き。スクランブルエッグ。それからみんなが笑っている写真。いつも学校にいる子もいれば、いない子も。どうやって集めたのかはわからないけれど、とにかく笑ったり、怒ったり、焦ったり――そんな感じの写真。絽奈が言う。あのね、湊が行っちゃってから学校も色々大変だったんだよいきなり夏合宿が――

 通話画面が、パッと表示された。

 反応しようとしたけれど、そのときにはもう遅かった。一秒もコールされなかったんじゃないかと思う。通話元は何を隠そう再び『薊原一希』。既読が付いた瞬間にこっちの存在を感じ取って連絡してきたのか。そしてそれからすぐに、もしかすると電話できる状態じゃないかもしれないなんて気を遣ってくれたのか。

 たぶん、そんなところで。

 取れなかった電話の代わりに、一通、メッセージが届く。


『学校来い、夏休み終わんぞ』


 無茶言うなよ、と式谷は思う。

 でも、すぐに思い出す。そういう無茶を先に言ったのは自分だったこと。程度が違うよチンピラと警察じゃ、なんて言い訳が、ついさっき、どうも使えなくなったような気がしたこと。

 自分は。

 そういうことを言って欲しかったんだな、ということ。

「……来るとき、時間。どのくらいかかった?」

「覚えてない」

「ピザパ、間に合うかな」

 わかんない、と絽奈が言う。

 その直後、ぽぽんぽぽん、と絽奈の端末が鳴り出した。

 うわ、と言って取り落としそうになっていたから、式谷も慌ててその下に手を出す。幸いにも絽奈の手から落ちることはない。しっかり握って、画面を見る。

「うわ、一気に来た」

「なんて?」

「薊原くんが言ったのかな。みんな、湊がそこにいるかって。……うわー。こんなに一斉にメッセージ来たの、初めてかも」

 もちろんそれは、他人事じゃなかった。

 自分の端末に目を移すと、さっき消したはずの通知が、ものすごい勢いで増えていく。試しにちょっとだけ音を出してみたら、通知音が渋滞を起こして聞いたこともないような音を出し始めた。これ充電大丈夫なのかな、と式谷は不安になる。最後に充電したのはいつだっけ。ああ、お父さんとお母さんと車の中にいたときに交代交代でやってそれ以来だ。そうだ。二人はどうしてるだろう。連絡しようか。しても大丈夫だろうか。いや、向こうから連絡が来るのを待った方が賢いかもしれない。どうしよう。そんなことを考えている間にも、どんどんどんどん未読のメッセージは膨らんでいって、

 ぽん、と音がする。

 式谷は、隣を見た。

 素知らぬ顔をしている。海の中に落としてしまわないように、両手で端末を握っている人。こっちを見ない。ちょっと喋りかければそれで済むのに、わざわざそんな風にして送ってきた、回りくどい人。

 メッセージを開いてみる。

 ひらがな四文字。

 だから式谷も、同じくひらがな四文字で、それを返した。

 隣でも、ぽん、と音がする。指が動く。隣に立っている人が、その文面を確認する。夕日の名残なのか、それともこっちの期待が見せてしまった幻覚なのか、それとも単に、本当にそうなったのか。

 耳まで赤く見えて、

「――全然ちがう!」

 あはは、と式谷は笑った。

 絽奈がもう一度水面を足で蹴飛ばす。飛沫が夏の名残に輝く。今度は絽奈も謝らない。ていうか、と式谷は言う。もうとりあえず駅に入っちゃおうよ。逃げるな。逃げるとかじゃなくて、次の電車逃しちゃったら嫌じゃん。次の電車っていつ来るの。わかんない。端末で調べてよ。絶対駅の中に時刻表あるでしょ。それ見た方が早いよ。

 そう言って、ゆっくり二人は歩き出す。

 二人分の足跡。

 海に近いものは、波に洗われて瞬く間に消えていく。離れたものも風に浚われて、そう遠くないうちに消えてしまう。ずっと、そういうことを繰り返してきた場所。

 式谷には、まだ誰にも話したことのない思い出がある。

 ずっとずっと昔のことだった。ある日、いつも通っている田舎の小学校に転校生が現れた。そこそこ話して、とりあえず悪い人じゃなさそうだ、なんて安心して。家の方向が似ていたから一緒に途中まで帰るつもりで、だけどその子はまだ家の場所を覚え切っていなくて、仕方がないから途中までじゃなく、ちゃんと家まで送り届けてあげることにした。

 大きな大きな家の前。

 無事に着いたことに安心したんだろう、彼女は振り向いて、笑ってこう言った。

 ありがとう、


「また明日!」


 そんなたった一言で好きになった、なんて。

 あんな些細な約束で、次の日が来るのが楽しみになって走って帰った、なんて。

 そんなことを打ち明ける日も、いつかは来るのかもしれない。


 あのときは、五文字の詩。

 今はお互い、四文字のメッセージ。


『おかえり』

『だいすき』


 大切に大切に、互いの手を握りながら、二人は歩いていく。

 どこに行っても、一緒に居られるように。


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― 新着の感想 ―
[一言] 未来への希望も夢もない世界で湊君の心情が大層つらかったのですがようやく2人がそろって今ある幸せにたどり着いて見守っていた身として一安心です…… よかったね湊君。いつもは手を引かれる側だった絽…
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