海辺 ⑤
四台目のホットプレートとともに下川たちが到着すれば、もうすっかり調理室はこれから三日は落ちないようなソースの匂いで充満していた。
最初の頃は、ちゃんとちまちま一枚一枚ピザを焼いていたのだ。が、四つ切りにして食べられていたのはほんの三十分にも満たない時間だったと思う。まず公民館組が合流した。こいつらだってそこそこの数がいて、四つ切りが八つ切りになって、しかも二枚焼いてそのうち一切れしか食べられない。こんなことでは永久に満腹になるはずもなく、一行は調理準備室へと迷い込む。するとそこに一台のホットプレートがあり、ホットプレートがあればまずお好み焼きと焼きそばを希求する心が生まれる。これだけ人がいれば誰がどこに住んでいてどう呼べば来るかくらいは何となくわかる。電話が掛けられ始める。お前来る? 来るっしょ。来るとき焼きそばとか粉とか買ってきて。金ない了解、今ギフト送るからそれで買ってこい。あ、タコ焼き機家にある?
水族館組が到着すれば、後はもう、いつもの夏合宿を賑やかにしただけだった。
調理台は全てが埋まり、焼きそばにはラー油がぶちまけられ、たこ焼きの中にはこの世のありとあらゆるものが混入している。お好み焼きはその名に恥じないお好みぶりを見せており、中でパチパチ炭酸みたいに弾けたら面白いんじゃね理科の実験だよとかそんな感じの不穏な言葉が聞こえてきて、誰も止める者がいないから自分が発した言葉の責任を自分で取るという多くの現代人が成し得ない偉業へ向かって十代前半の若き挑戦者たちが全速力で走っていく。
がぶ、と薊原も、ほとんど肉だけで出来たようなお好み焼きに齧り付いている。肉が多ければ多いほどいいと思ったけれど、これだとお好み焼きにする意味がなかった気がする。米を炊いて、焼き肉のタレと一緒に食った方がよっぽど美味いかもしれない。
米炊くか、と辺りを見回した。今更もう一つくらいオプションメニューが増えたところで誰も気にしない――かはわからないが、文句は言われまい。炊飯器。いつもなら出しっぱなしになっているはずだけど、今は目の届く範囲には見当たらなくて。
代わりに、花野が目に付いた。
よっぽど一途な性格をしているのか、ここに来てからずっとピザ焼き機の方にかかり切りで、真剣な顔をしながらじっと、上面のガラス越しに見える焼き加減に目を凝らしている。
「なあ」
「今忙しい」
話しかけて第一声がこれだった。
そしてどう見ても忙しくはない。なぜなら花野は真剣な顔こそしているものの、全く自分ではピザを焼いていないから。最初のピザ焼きも自分と小松と倉持の三人がほとんどやっていた。花野は黙って説明書を読んでいた。説明書を読んだならお前がやれよ、と思ったが、どんどん人が到着するにつれて作る側の人員も足り始め、結局その思いを口にすることもないままここまでズルズル来ている。
さっきまでは岩崎が焼いていたけれど、今はその岩崎は粉物の粉作りの方に出張して不在。では誰がピザ生地を作ったり焼いたりしているかというと、
「……替わりますか、俺」
「いいよ。先生こういうの好きだから」
佐々山だった。
頭を抱えて職員室に戻っていたはずが、いつの間にかここに来ていた。唇に付いている赤いのはまさかはみ出した口紅ではあるまい。ピザソース。それなりに満喫しているらしく、それなりに満喫するまでにこの教師が乗り越えなければなかったはずの感情の起伏について薊原は思いを馳せ、馳せながら肉まみれのお好み焼きをまたがぶりとやって、馳せるのをやめた。残念ながら、心配や配慮は食欲の前では無力になりやすい。
「炊飯器どこにしまった?」
「普通に準備室じゃないの」
ああ、とあまりにも普通の答えに、薊原は空振りのような相槌を打つ。普通に考えたらそうだ。そうなのだが、ホットプレートを探したときに炊飯器を見かけた記憶がない。となると棚の下の引き出しとか、自分がすぐには見つけられない場所に収納されているのだと思うが、この口ぶりだと花野も正確にはどこにしまってあるのか知らないらしい。
そうなると、うっすら「探すのめんどくせえな」という思いが生まれてしまい、佐々山の「会心の出来だ……」という言葉に視線が引っ張られてしまったりもする。確かにどう見ても会心の出来だった。美大を出るとピザを焼くのが上手くなるのだろうか。焦げ目もチーズの溶け具合も、チェーンのピザ屋に行くくらいなら佐々山に同じ額を払ってここで作ってもらった方がよっぽど得かもしれない。さっきまで自分たちがやっていたのは何だったんだ。お店屋さんごっこか。そう思わせるくらいの素晴らしい出来栄え。
残りのお好み焼きを口の中に押し込んで、無言で薊原は花野の隣に座る。すごい目で見られて「しっしっ」と手の甲で払われるけれど、当然気にしない。ピザカッターがあればな~、と言いながら佐々山がピザをサクサクと八つ切りにしていく。花野が腰を浮かす。薊原も腰を浮かす。花野が両手を広げてブロックしてくる。その頭の上から腕を伸ばして、とりあえず一切れを取る。
もし家庭科の授業でこれが作れるようになるのだったら、今の五倍くらいの人間が真面目に学校に通うことになるはずだ。そう思わせるくらいの美味。
そんなこっちの感動のことなんか何も知らない様子で、佐々山は次のピザの準備をしながら「タバスコあるよ」とこっちの机の近くに瓶を置く。ちょっと休憩、と花野の隣、薊原と逆側の方に座って、ピザを取って口に運ぶ。「うま、天才?」異論があるはずもなく、黙々と食は進む。調理室を満たすいつの間にかの喧騒の中、最近ではめっきり珍しくなったセミの声に紛れながら、目も眩むような夏の日差しに目を細めながら、この広く狭い学校の片隅で、三人で肩を並べている。
「美大行こうかな」
そして、花野がものすごいことを言った。
え、とちょっと嬉しそうな声を佐々山が出す。正気かよ、と薊原は花野を見る。学校にそこそこ顔を出していた時代に、こいつが副教科で叩き出す素晴らしい成果物の数々は多少見かけたことがある。その素晴らしい成果物のおかげで実は学年の内申点総合トップは花野ではないらしい。
が。
どうしてそんなことを言い出したのかは、話の切っ掛けには相応しいと思った。
「お前、何話して来たの。宇垣……先生と」
ずっと、気になってはいたのだ。
病室から出て来た花野の勢いに乗るがままここでこうして腹を満たしているわけだけど、当然その勢いの出所は気になっていた。一体あの市立病院の一室でどんな会話が成されたのか。何がどうなっていきなりピザパのために学校に乗り込むという話になったのか。ちゃんと、そのことは気になっていた。
「進路」
花野の答えは、実にシンプルだった。
「何。美大行けって?」
「いや、大学行かなくていいって」
驚く声を上げたのは、自分だけでなく佐々山もだった。けれど花野は右を向くことも左を向くこともなく、やけにさっくりと仕上がったピザの耳を口の中で噛み鳴らして、それから次の一切れに手を掛けて、どこか遠くを見ているようなまなざしで、
「佐々山先生」
「は、はい」
「美術とか音楽って、何の役に立つんですか」
すげえこと訊くなこいつ、と薊原は思った。
気持ち自体はわからないでもない。いきなり美大だの何だの言い出すあたり、宇垣との進路相談とやらで何かがあったのだろう。あの真面目顔の教師がいきなり「大学に行かなくていい」なんて言ったとしたなら、よっぽど深刻な話し合いが行われたのかもしれない。そういうことを踏まえると、ついこういう感じの口の滑らせ方をする気持ちも、わからないではないのだ。
わからないではないが、美大出の教師にそんなこと訊いてやるなよ。ただでさえ一人で留守番してた学校に押し掛けられて可哀想なんだから――
「……え、万物」
しかし意外にも。
きっぱりと、そしてあっさりと、佐々山は答えた。
万物、と花野が繰り返す。万物、と佐々山が頷く。かえって花野の方が驚いているくらいに薊原には見えて、
「美術って、色んなところに使われてるよ?」
佐々山は、妙に堂に入った話し方で――まるで何度も何度もこの質問に答えてきたような滑らかさで、指を差す。
「あれだって」
一人用ピザ焼き機。
「同じ値段で同じような性能が並んでたら、デザインが良いやつ買うでしょ。ほら、役に立つ。……シホンシュギ~って感じだけど」
花野は、反論することはなかった。
じっ、と考え込んでいる。さっきまで忙しなくピザを口に運んでいた手すらも止まっている。何かを頭の中で整理している。そんな様子。
「あの、」
じゃあ、と花野は、
「宗教は?」
「宗教?」
「何の役に立ちますか」
えぇ、と今度こそ佐々山は困った顔をする。そりゃそうだ。美術の意味ならさっと答えられるかもしれないが、全く専門外のことなのだから。けれどピザを手にしたまま、うーんうーんと唸った末に、
「……まあ、普通に役に立つよね」
霊感商法が流行ってる街だから言いづらいけど、と。
「たとえば飢饉になったときとか……ごめん、飢饉って言われてもピンと来ないよね。これ昔、郷土博物館みたいなところでそういう年表見たときに『これは神様でも信じてなきゃやってらんないな』と思ったのがあって――うん。今年の夏とかものすごく暑いけど、これで冷房が使えなかったらと思うとみたいな話。そういうとき、『信じるだけで救われる』『耐え忍んでいればいつかは報われる』みたいな考えって心の支えにはなるんじゃないかな。それが良いのか悪いのかは、とりあえず置いておいて」
「それって、科学じゃダメなんですか。それこそ『じゃあ冷房を開発しよう』みたいな」
ううん、ともう一度佐々山は唸る。
けれど、それでもやはり、言葉を選びながら、
「それで解決することは、それでもいい……のかな。ごめん。話半分で聞いて。でもたとえば、『カガクテキには他人に優しくしない方が個人の人生は豊かになる!』とか研究結果が出たとしても、実際にそうはしたくない……よね?」
ちら、とこっちの方に目線が振られる。
まあ、と話を円滑にするために、あまり深く考えることなく薊原が頷けば、
「そういう科学では言えないけど、気持ちとしてはそういう方向で行きたいなみたいなことを補完するときに、『根拠はないけどそうなんです』って考え方も……ごめん。これも宗教じゃなくていいのかもね。こういうの、私も無宗教だから上手く言えないや」
三拍、間が開く。
「……どうでしょうか。花野先輩。こんなもんで」
恐る恐る、佐々山が訊く。はい、と花野は答える。ありがとうございます。そう言って、まだ何かを考えている。そこに「せんせーピザー」と佐々山をピザ呼ばわりする一年生が数人やって来て、「お、食べたい?」と佐々山は腰を上げる。少しだけ気遣わしげな目で花野に振り向いて、花野はそれに軽く手を挙げて「大丈夫です」の意思表示をする。
先生上手いよ、と佐々山が腕を振るう背中を見つめながら、ぼんやりと二人。
「宇垣がさ、」
独り言みたいな声色で、花野が、
「進路のこととか、考えたくないなら考えなくていいって」
「……よくなくね?」
ね、と花野が言った。こっちを見ない。だから薊原も、そっちを見ない。ピザを口に運ぶ。そういえば、と思う。このあいだ式谷と食ったときは、額を突き合わせるみたいにしてたっけ。
一応、と薊原は思った。
誰もそういうことを言わなかった場合のために、自分が言っておいてやった方がいいのかもしれない。
「花野は、大学行った方がいいだろ」
「なんで」
「頭良いから」
「絵が上手いからって美大には行かなくてもいいし、足が速いからってスポーツ選手になったりもしなくていいんだって。そういうの全部、周りが勝手に期待して勝手にそいつの将来で賭け事やりたがってるだけだから」
「宇垣が?」
宇垣が、と花野は頷く。
まあそりゃそうなのかもしれねえけど、と相槌を打って、
「……てか、それなら逆にちゃんと進路考えた方がよくね。『合ってること』じゃなくて『やりたいこと』探せみたいな話だろ、それ」
「ないよね。そんなん」
うん、と頷いて答えた。
うん、とそれに応じるように、花野が頷いた。
「……薊原は、」
続けて、花野が、
「進路とか、もう決めてんの」
念のため、少しの時間を取って薊原は考えた。そこに何もないことを、確かめるための時間。いや全然、と重たく聞こえないように答えて、
「明日のこともわかんねーし」
だよね、と花野は頷いた。
何となく、それで気持ちが楽になった。「花野でもそうなのか」と思う気持ちがどこかにあった。思ったよりも自分はこの同級生を尊敬しているらしい、と薊原は自分で気付く。
どいつもこいつも。
似たようなことで、いつも悩んでいる。
佐々山が「ほら具の載せ方が美しい」なんて言って調子に乗っている。ほんとだすげー、と一年生が感心の声を上げる。たこ焼きの焼き方で岩崎と桐峯が争っている。絶対焦げてた方が美味しいから。いや焦がしすぎなんですってそもそも先輩今日お腹痛いんじゃなかったんですか大人しく私が焼いたやつを食べててくださいよ。それを遠巻きに和島が見守っている――と思ったらその横で新貝が「カレーに納豆入れると美味いしもしかして焼きそばもそうかもしんなくないっすか」とか言い出して、下川と秋村と一緒に羽交い絞めにする羽目になる。オマエらもうちょっと大人しくしろよなあ、なんて鈴木は保護者面で苦言を呈し、さらにその奥のテーブルでは三上は中浦と仲良くパンケーキを焼いていて、その後ろから瀬尾が「アイス食べれる? 載せたら美味そうじゃん」と馬鹿でかい業務用のパッケージを持って声を掛ける。洪は角見や山田、それに相田らと額を付き合わせて「そろそろまた補充の買い出し行きますか」「もういっぺんに行っとこうぜ」「いや冷蔵庫の容量もあるし、ていうかそろそろみんなお腹限界なんじゃない?」「いや俺の見立てだとまだ増える」と打ち合わせをしていて、近くで高良と向島がその買い出し組に自分たちの注文を通すチャンスを窺っている。部屋の片隅では暇そうにしていた羽生とか竹村とかを捕まえてキャベツを切らせるべく小松が舌戦を強いられており、一方で倉持は西山とか渡辺とかの同級生と一緒になって見事なスクランブルエッグの前で「おいガキどもクレープが出来るとか言っといて完全に朝ごはんが出来ちゃったじゃねえかこの行き場を失ったチョコとバナナはどうしてくれんだ」と凄んでおり、それに萩尾なんかの二年生が肩を縮こまらせながらも「先輩たちの腕の問題です」と言うことを言っていたりする。
がら、と扉が開いて、似島。日桶。沢渡。まだ増える。
そんな光景を見つめながら、ふと、薊原は、
「俺さ、」
もしかすると、と思った。
今日のこれは、突拍子もなかったから。いつもの花野だったら、多分言わないんじゃないかという提案だったから。
でも。
もしかすると。
「こういうの、一生続けてみてえわ」
自分と同じ理由なんじゃないかと、そう思ったから。
ふうん、と花野は大して興味もなさそうに頷いた。ぱり、とピザの耳を食べる。じっ、と遠くを見るような目。考えごとをしているのか、それとも本当に何かを見ているのか。自分は、と薊原は思う。返事を待っているような気もしたし、何も待っていないような気もした。
ただ、こうして隣り合っている時間が、妙に居心地が良かったから。
立ち上がる理由なんてできないようにと、小さく小さく、少しずつ手の中に残ったピザを食べていく。
けれど、
「こいつら全然料理する気ないんだけど! ヘルプ!」
もちろん、そんな風に過ごしていられるほど学校は悠長な場所ではなくて。
小松が目の前に近付いてくる。あいつら全然動かねーの許せねえ、と堂々指を差す。指を差された羽生や竹村は「いえー」と両手を挙げて勝ち誇っている。完全にナメ腐られてるな、と薊原は思う。一朝一夕のナメられ方ではない。
きっとこいつらはこいつらで、この夏休みの間に何かがあったのだろう。
学校に居られなくてIRに出て行った奴らにも、学校になんか来る必要がなくて遠い街の夏季講習に行った奴らにも、親の地元に遥々帰省して行ったような奴にも、家に籠ってゲームに没頭していた奴にも。必ず何かはあって、だからこの夏には、何もかもがあったのだろう。
自分には、何があった?
「しゃーねーなあ」
最後の一口を、丸めて口の中に放り込んだ。
立ち上がる。おおっ、と小松が拝むように両手を合わせる。大袈裟な奴、と薊原は笑って、口の中のものを胃に下す。ものすごく美味いから、少しもったいなかったような気もする。
「おら一年、キャベツ切んぞ。立って働け」
はーい、と声は返ってきた。おいおい、と小松が言う。態度あからさまに違うじゃねーか何これ人望の差? そうだよ、とその背中を叩きながら、しかし、と薊原は思っている。逆だろう。小松の方が人望があるから、向こうはああいう口答えをしていただけだ。それはそれでいい。こっちだって人望がないなりに、何かのきっかけになれるのだから。
肩が凝りそうな仕事だな、と腕を回す。
薊原、と後ろから声がする。
「あん?」
振り返れば、花野だった。
動く気はないらしい。残っていたもう一枚の新しいピザを手に取っている。けれどまだ、口には運ばない。目が合う。目が合って、それから、
「今日、付き合ってくれてありがと」
なんだからしくないことを、花野が言った。
おう、と薊原は答える。何かを付け足した方がいい気がして、言葉を探す。
見つかって、
「最近、『優しさ』にハマってんだよ」
へ、と花野が鼻で笑った。それからぽつりと、他の誰にも聞こえないような大きさの声で、言う。
大変そ。
まあな、と薊原は頷く。振り返るのをやめる。すでにキャベツの千切りは始まっていて、小松が「でかい口を叩いていた割に大して手際が良くない」と責め立てられている。ヘルプ、ともう一度小松が言う。はいよ、と一歩足を踏み出し掛けて、
窓の外に、夕暮れの気配。
もう一瞬だけ足を止めて、薊原はポケットから端末を取り出した。