海辺 ④
猫がいた。
じっと、こっちを見つめる一匹の猫が。
もしかして、と絽奈は思う。『切符回収BOX』におとな二枚の切符を押し入れて、それから線路の向こう。沈みゆく太陽。金色の、溶けていくような夏の海。それを背にして佇むその生き物が、ここに至るまでに辿ってきた道のことを、ほんのりと思った。
辛い目に遭っていなければいいな、と思うけれど。
そうでないとしたら――もう自分は、この先には進まない方がいいのだろう。
ふ、と左の手の感触が緩んだ。
「あ、」
隣を見る。ウミもこっちを見ている。初めの頃に比べたら、随分と表情豊かになった。窺うような表情。心配するような、不安そうな顔。
じっとふたりで、見つめ合う。
これが最後のお別れなのかもしれない、と思った。
本当は、まだ話したいことがたくさんあった。奇妙な偶然で出会った友達だから。一生会わないままで終わってしまっても、何もおかしくない距離に生まれたふたりだから。随分仲良くなれたと思ったけれど、それでも全然、長くなんかなかった。ずっとずっと、ずっと短い。夏の初めのあの日のことを、絽奈は昨日のことのように思い出せる。
何もない夏になるなんて、初めから思っていなかった。
知っているから。いつも絽奈は思っている。学校にいるとき、友達とチャットのやり取りをするとき。すごく良いものが作れたと思ってニヤニヤしながらネットに投稿しているとき。リビングでご飯を食べながら、遠くで虫の鳴く声を聴いているとき。テレビで知らないアニメ映画がやっていて、それを最初から最後までじっくり見るために、早めにお風呂に入って待機して、いつもなら見ないようなバラエティ番組で知らない人たちの笑い声を聞いているとき。全ての時間に、絽奈は同じことを思っている。
たぶん、この一瞬だけだ。
そんなことを、ずっと。
人生が長いのか短いのか。自分で生き切ったことがないから、そんなことはわからない。だけど年齢がたった一桁だった頃から、今自分が生きている時間と同じ時間はもう二度と訪れないということは知っていた。自分は変わり映えのしない日々を送るのが好きだから。ここに座ると決めて、そのまま座っているのが好きだから。何年経っても、他の人がどこかに行ってしまっても、変わらないままでそこにいるんだろう。そうして、今こうしている一瞬のことをほんの昨日のことみたいに、どんな他愛のないことだって大切な思い出にして、何度も何度も思い返すんだろう。
一生は、『一生にたった一度の時間』の寄せ集めで出来ていて。
だから、何もない夏なんて来るはずがないと知っていた。
だけど、と。
ウミの手を一瞬だけ、もう少しだけ強く握る。
こんな夏になるとは思っていなかった。ウミと出会ったことだけじゃない。学校に行ったこともそう。友達ができた。楽しかった。ウミが人間の姿に変身したときに予感したようなめくるめくSFの夏ではなかったけれど、それでも。
振り返ってみれば、ウミと喋るよりも学校の人たちと喋る方がもっと緊張していたような気がする。ウミちゃんは優しいな、と改めて思う。楽しかった。一緒に居て安心した。海から来たのがもっと違う子だったら、きっとこんな風には全然なれなかったって、自信を持って言える。
ウミにとっては、どうだっただろう?
こんな頼りなくて簡単なこともできなくて全然人に気を遣えもしないような奴――って誰に言われなくても、自分でわかっているけれど。それでも、たとえば怖くないとか、害がないとか、少しでも思ってくれただろうか。地上に来て一緒に暮らすことになったのがこの子でよかったって、ちょっとでも思ってくれただろうか。家の裏に何度も訪れて、部屋で一緒に過ごして、学校に来て、うっかり変身なんかして。プールに飛び込んで思いっ切りはしゃいだ夕暮れのこともみんなでこそこそ雨宿りをした夜のことも。
全部全部綺麗な思い出にして、大事に持って帰ってくれるだろうか?
手のひらに、ひんやりと冷たい感触がある。
この夏をずっと一緒にいたからすっかり慣れ親しんでいた。もう一生、離さなくてもいいって思えるくらい。
だけど手を握るのと同じくらい、言葉を交わしてきたから。
どうしてウミがここに来たのかも、寂しがりやで心配性のこの子が、どんな思いでこの夏を過ごしてきたのかも知っているから。
少しずつ、
少しずつ指先は、離れて。
「大丈夫だよ」
最後は、絽奈からその手を解いた。
「こっちは大丈夫。いってらっしゃい」
笑いかける。ほんの数秒。ウミの手が持ち上がる。顔にぺた、と冷たい感触。何を意図した動きなのか、絽奈にはわからない。でも、わからなくてもいいと思ってもいる。何もかもに意味や意図があるわけじゃない。そんなの、現実に生きていたら誰だって知っていることだから。
手が離れる。
「ろな、」
ウミが、一歩を踏み出して、
「――ここまでつれてきてくれて、ありがとう」
それからは、あっという間だった。
ウミが駆け出す。人の姿じゃなくなる。猫でもなかったと思う。何か抽象的な動物の姿になって、友達の下に駆け寄っていく。ふたりは肩を並べると、ずっと昔からそうしてきたように息を合わせて、風を切って走り出す。瞬きの間にまた違う姿に変わって、それが何なのかもわからない間に、ふたりは緩やかに打ち寄せる波間に飛び込んで消えていく。
残っているのは、小さな足跡だけ。
夏はそうして、あっという間に過ぎ去ってしまったように思えた。
それから絽奈は、風に吹かれる髪を押さえてふらふらと、駅のベンチに腰を下ろす。
野晒しのベンチだった。もう少し浜の砂でざらついているんじゃないかと思っていたけれど、案外そうでもない。日が傾いて、徐々に暗くなる海を見ながらぼんやりと考える。余韻。それからそう間を置くこともなく、実際的なこと。次の電車は一時間半後だ。こういうとき、たとえば自分の作る主人公だったら「近くを歩いてみよう」とか「喫茶店で時間でも潰そうか」とか、そんなことを言う。言わせるのは簡単だ。自分でやるわけじゃないんだから。いざ同じ立場になってみたら、土地勘もない場所をふらふら歩き出してこの駅まで時間通りに戻って来られるかも怪しいし、緊張するし、喫茶店なんか夢のまた夢。チェーンのファミレスだって自分を含めてせめて三人以上じゃないと入る気がしないのに。かと言ってこんなほとんど遮るもののない場所で、身を隠すこともできないで、駅員の人の影すらないままに一人でぽつんと座っていると怖いし緊張する。
ウミちゃんと違って、自分が探していた人は待っていなかったから。
あとは、一人で帰るしかない。
少しだけ、瞼を閉じた。
海の中でふたりが話す声が、聞こえないかと期待して。
「――あ、」
そのとき、ふと気が付いた。
勘違いだろうか。確かめてみる。ベンチの、自分が座っていないところを触ってみる。ざらっとした、少し厚い感触。手に砂が付く。砂を払う。立ち上がる。自分が座っていた場所を触ってみる。
じっ、と考えた。
勘違いじゃない。
絶対そうだ、と思った。
この期に及んで少し迷ったのは、そこに行こうとすると線路を跨がなくちゃいけないからだ。法律で決まっていた気がする。線路に入っちゃダメって。一時間に一本も電車が来ないようなところでも? 誰も来ない二々ヶ浜の夜で、それでも信号を守るのかどうかとか、そういう話。いつもだったら、多分一緒にいる誰かが言ってくれる。別にいいでしょ。それに自分が言う。ダメだって。危ないよ。それからわけのわからない、確率一パーセント未満みたいな極端に悲観的な未来予測を持ち出して、その結果どっちかが根負けして守る必要があるとも思えない法律を守ったり、守らなくちゃ危ないはずの法律を破ったりする。
でも、今日はもう、誰もいないから。
自分で全部、決めるしかない。
踏切を探して、早足で歩き出した。
もういい、と絽奈は自分で自分を諦めることにした。多分自分は、一生こんな感じなんだ。人が不安にならないようなことで必要以上に不安になって、怯えなくてもいい場面で怯える。自分が使わなくなったものを人にあげるのには何の躊躇いもないくせに、ジュースを半分分けて貰ったときは毎回律儀に六十円とか七十円を渡そうとしてそんなのいいよって呆れたみたいに笑われる。どうせ人と同じようにすることもできないくせに、人並み以上に細かいことにこだわって、法律を作る人すら法律を守ってない世界で滑稽なくらい律儀に法律を守って行動する。馬鹿みたい。馬鹿そのもの。でも結局、そういうのは理由のないランダムな奇行なんかじゃなくて、全部自分なりに考えて、自分なりに自分に安心を与えるためにしている最善のつもりの行動だから、それが居心地が良いから、一生続ける。ある日急に頭が良くなってもっと良いやり方を思いついたり、ある朝目が覚めたら急に別の人になっていて立派な人生を送れたりしない限り、ずっとずっと、それを続ける。
もういい。
もう別に、自分は一生、それでいい。
ホームの床がなくなると、急に外に出た感じがした。さらに身の置き場のない感じ。入っちゃダメなところに入ってる。歩いちゃいけないところを歩いてる。不安になる。夏の長い日ももうすぐ終わりが近付いて、夕陽は海に近付いて、夜は少しずつ足元に忍び寄ってきている。振り払うようにして視線を右、左。
そんなに遠くない場所に、その踏切はあった。
腕を振ってみる。何だかんだ家の中で運動しているから体力はないでもないはず。スニーカーで地面を蹴ると、不思議なくらいにはっきりと靴裏の柔らかさと、地面の固さが伝わってくる。海辺の踏切。黄色と黒は夕焼けの中に溶けてしまって、ほとんど用をなしていない。自分だったら、と絽奈は思った。この踏切は閉じておく。閉じておいて、主人公はその前で何かこう、大いなることを考えたりする。いつまでも開かない踏切に直面して、それを自分で開けることの意味とか意義に気付いたりする。踏切のバーを蹴っ飛ばしたり飛び越えたりして、時間は夕方よりも昼がいい。爽快な、真っ青な夏を駆け抜けていく。
夕暮れの踏切は、初めから開いている。
それでも右を見て、左を見て、もう一度右を見てから、線路に靴を引っ掛けないようにおっかなびっくり絽奈は走っていく。
砂浜に足を取られない。でも不安になる。あまりにも砂が柔らかいから、こういうところにスニーカーでずかずか入って行っていいのかわからない。二々ヶ浜なら何の問題もないけれど。誰かに怒られるかもしれない。誰に? 近所の、海を大切にする人とかに。考えている間に靴の裏に水が吸い付いてくる。海を汚すなって怒られるかも。こんなに悩むなら最初に気になった時点で靴を脱いじゃえばよかった。足の裏が冷たくなる。足の甲。ざぶざぶと音を立て始めれば踝なんてもう一瞬で、ふくらはぎ、膝、ちょっとよろけて、
呼ばなくても、その人は来た。
肩を掴まれている。すごく近い距離。荒い息遣いが聞こえてくる。走ってきたんだと思う。それともこれは自分のものなんだろうか。鼓動も? 夏休みに浸かる海は、プールよりもずっと冷たい。その代わり、肩に乗せられたその手だけが熱くて、
「――あ、」
ほらやっぱり、と振り返る。
知っている顔。思わず飛び出しちゃった、という感じのバツの悪そうな表情。走ってきた分の体温が今になって上がったのか、ちょっと額に汗が浮いていて、それでもじっと。手を離したら何をするのかわからない、なんて失礼なことを考えていそうな力強さで、
「危ないよ。海、そんな恰好で入ったら」
もちろんそんな当たり前のこと、絽奈にははっきりわかっていた。
危ないから傍にいてくれるはずだって、そう信じていた。




