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海辺 ③


「ピザパ」

 何しに行くんだよ、と訊ねたときの答えがこれで、薊原は自分はいつの間にか変な夢の中に迷い込んでいたのだろうかと本気で思った。

 病院の待合室で。何だか急に大人っぽくなって口数も少なくなった倉持と、それからこの街にいる無数の爺さん婆さんと肩を並べて、この世で起きていることのうち報道しても問題ない範囲のことを当たり障りなくリポーターが読み上げるのを聞く。たったそれだけの、永遠に続きそうな停滞した時間。エレベータからいつ降りて来たのだろう。そっちの方から見慣れたのが歩いてくる。

 やけに決断的な足取り。

 何かそれに奇妙なものを感じながらも――「おいーす奇遇だねえ」「一緒に帰んべ」と倉持が明るく声を掛けるから、まあ言及するほどのことでもないのか、と思ってしまって。

 薊原は、普通に訊いた。

「終わったのか」

 花野は、決断的に答えた。

「行くぞ」


「ちょいちょいちょい、危ないって! 何、どした、忘れ物?」

 そうして今、三人で校門を乗り越えて学校に侵入を始めている。

 慌てた様子の佐々山が職員室脇の玄関から飛び出してきている。「中にいるんだから呼びな!」と言うが、もはや事態はそんな悠長な状態ではないと薊原は思うし、それどころではない。まずは自分が飛び越えた。その後に花野が乗り越えようとしたが、意外と鈍臭いのかそれとも大体みんなこんなもんなのか、足を門の上に上げ切ることができなくて、それを倉持が後ろから押している。危なっかしくて見ていられない。こいつ逆上がりとかできなそう。落ちてきたらキャッチしてやろう間違いなく死ぬからと薊原は両手を大きく広げている。自分で乗り越えるのよりも遥かに緊張する。花野がとうとう両足の裏を門の上に掛ける。その足をゆっくり下ろして、腰掛けるようにして、

 どけ。

 どいた。

 ぱしーん、とスニーカーの裏が、地上三階から叩き落とされたみたいな音を立ててアスファルトの上に響いた。

「薊原、ヘイ」

 倉持が言うから、薊原は校門の上に手を伸ばす。校門の前に適当に停めた各々の自転車の前カゴと、それから荷台に適当にゴム紐で縛ってきたレジ袋。レジ袋だけで一人の一食分くらい取られた。次々に倉持がそれを持ち上げる。ガサガサ鳴らしながら薊原はそれを受け取る。腕に引っ掛けたり、片膝を持ち上げて腹の辺りで抱え込んだり。とりあえず花野にも渡したり、花野は花野でどういう心境なのか「はいっ」とか言って佐々山に渡したり。佐々山は佐々山でどういう心境なのか「はいっ」とか言って受け取ったり。

 全部受け取れば、倉持は全然補助なんか要らないらしい。

 むしろ薊原がやったのよりもだいぶカッコよく、校門に手を掛けるとパルクールみたいに華麗に飛び越える。こいつすげえ、と思わず尊敬してしまう。式谷といいこいつらなんで運動部に入ってないんだよとも思う。陸部しかないからか。二人揃って走るのが嫌いなのか。それとも単純にそんなことをしている時間がないのか。

「えっ、何々何? どしたの君ら」

 急に抱えさせられた荷物を今度は急に倉持に奪われつつ、佐々山は困惑し続けている。可哀想に、と薊原は思う。非常勤らしい。何の責任もない。なのになぜかこの閉じた学校に一人で籠って何かの仕事をさせられている。他に職員室から誰も出てこないことからもわかる。

「先行ってて」

 花野が言うから、説得はそっちで引き受けてくれるらしい。

 了解、と薊原は請け負って、大量のレジ袋を抱えたまま動き出す。花野と佐々山から全ての袋を回収し終えた倉持も、ちょっと遅れて。先を行く。職員室の横の玄関から「何々」と佐々山の戸惑う声もすっかり無視して入って行って、当然上履きもスリッパも履かないで、袋が腕からずり落ちそうになるのを何とか膝を使って支え直したりして、こういうときは一階でよかった、と学校の構造に感謝しながら進む。扉を開ける。ネームプレートがかかっている。

 調理室。

 とりあえず一番近いテーブルの上に、全部置いてみた。

 どへえ重っ、と倉持が言う。全く同感で、けれどすぐに薊原は続けて動く。袋をまず二つだけ持って、調理室の奥へと進む。冷蔵庫。開いたら涼しい風が出てきた。冷えたままの食材も。あの日急に夏合宿の終わりが知らされたものだから、まだ使い切らない分がそのまま残っていたらしい。

「これ入れる順番とかあんの?」

「わかんね」

 じゃあいっか、と適当に物を詰め込んでいく。どうせ今日中には大体使うつもりなのだから――本当にこんな量を使い切れるのか? わからないが、とにかく詰めていく。肉類みたいなすぐ悪くなるやつから先にして、後はチーズとかも常温だと溶けだすんじゃないかと思うから中に入れていく。野菜とかは別にそのへんの野に咲いているわけだから放っておいてもそんなにすぐには悪くならないんじゃないかと思う。倉持が最後の一袋を持ってくる。薊原は立ち上がって、部屋の奥に移動して、

「……点かねえ」

「何。エアコン?」

 そう、と頷いてカコカコカコカコ壁のボタンを押し続ける。『運転』のボタンを押しても押しても動き出す気配が全くない。まさかたった数日のうちにぶっ壊れたわけでもないと思うから、

「何かやり方あんのか、これ」

「さあ。晶だったら知ってんじゃないの?」

 いいっしょ行こ行こ、と背中を叩かれて、調理室から出て行く。来た道を戻ろうとしたら、倉持が突然右折した。ああそういう、と察したから薊原はそのまま直進して、職員室で靴を履き直す。放り投げられたサンダルをついでに手に取って、すぐに扉から出て「おい」と声を掛ける。ちょうど昇降口の方の鍵を開けた倉持と目が合うけれど、ガラスの向こうで「いい、いい」みたいなジェスチャーをしている。いいならいいけど、とサンダルを元の場所に戻せば、すぐに駆け足で校舎の中から倉持が回り込んでくる。サンダルを突っ掛けるのを待って、二人で改めて出て行く。

「説得どうした」

「終わった」

 訊けば、自信満々に花野は答えた。

 一応その横の佐々山を見る。頭を抱えている。あんまり終わっているようには見えないが、かと言って佐々山の味方になってやろうとも思わない。そういうことを思っていたらここまで来ることもない。敵でもないつもりだが。

 カコンカコン、と悲しいベルの音がした。

 たまにあるやつ。ベルが錆び付いてるのか何なのか、異様にくぐもった音がするやつ。外から聞こえてきた。整備の間に合っていない乱雑な生垣の向こうから、校門の柵の奥、そいつが現れる。

「ちっす――お、薊原」

「おう」

 小松大翔。

 結構急いで来たのだろうか。額に汗して、自転車の前カゴに段ボールの山を敷き詰めて、マジあちーぜ外、と服の袖で鼻のあたりを拭う。自転車に跨ったまま、これ俺どっから入ればいーの、と言うから、

「佐々山先生。開けてもらっていいすか」

「…………ちょ、ちょっと待ってね。今葛藤して――いや待て待て! 危ないから登るな!」

 うす、とすでに手と足を掛けていた小松が大人しく地面に戻っていく。待ってなね、と佐々山は言って、ずっと左の手の中に握り込んでいたらしい鍵を指に挟む。端の方、屈み込むと金属の杭があって、南京錠と組み合わせて門を地面に繋ぎ止めている。へえ、と薊原は思う。改めてここの構造を見るのは初めてだったけれど、随分ちゃちい造りだからいざとなれば無理やりぶっ壊せそうな気もする。

 危ないからね、と佐々山は生徒に、門から離れるように言う。

 別に大して危ないような距離にもいなかったけれど、言われたとおり一歩だけ下がる。

 がららら、と学校の門は、もう一度開いた。

 ちょっと驚くくらいに、あっけなく。

「薊原、もう呼んじゃっていいよ」

「おう」

「チャリ入れちゃっていいんこれ」

「いいっしょ」

 薊原は端末を取り出している。チャットアプリを起動して、けれども文字は打ち込まない。通話のボタンを押す。コール音が鳴り出す。

『うぃー。どした?』

 聞き慣れた声。

 瀬尾。

 適当に状況を説明し始める。『は?』とか『なんで?』とか言われるけれど、「こっち来てから訊け」の一点張りで押し切る。瀬尾はこういう押し切られ方が好きだから、半笑いで『了解であります』とか何とか言って話を切り上げてくれる。これで公民館の方はオッケー。水族館の方は、と考える。新貝……は流石に一年だしちょっと連絡先にはしにくいから、

「花野。岩崎ってもう水族館にいんのか」

 自転車を引く花野に訊ねる。ああ、と花野はちょっと考えてから頷いて、「んじゃそっちは私から連絡するわ」と答える。んじゃ頼むわ、と薊原は言って、先に動き出していた倉持と小松の二人にちょっと早足になって追い付く。

 にしても、と思った。

「小松、前カゴすげーな。なんだそれ」

「いや、ピザ焼き機が中身どんなんかわかんなかったからさ。段ボール多めに持っててグルグル巻きにしといたんだよ。コンポー材。運んでる途中で割ったら申し訳ねーじゃん?」

 オマエ賢い、と薊原が言えば、実はね、と小松は鼻の下を自慢げに擦る。それよりさあ、と倉持がそういうのを軽く流して、

「絽奈は? 『ピザ嫌いだから行かない』とか?」

 ピザ嫌いだったらこんなの買わねーだろ、と小松が駐輪場の庇の下に自転車を突っ込む。わかんないじゃん絽奈って「買ってから気付いたけどそんなピザ好きじゃない……」とか「食べ過ぎたからもうピザは一生食べない……」とか言いそうだし、と倉持が自転車のストッパーを立てる。言いそうだけどさあ、と小松が言うから、言いそうなのかよ、と思いつつ、薊原は無言でその梱包材代わりの段ボールを手で押さえておいてやる。サンキュー、と小松がその間に四角いピザ焼き機の箱をズボっと引き抜く。

 確かに、あまり使い込まれた形跡のある箱じゃない。

「普通にいなかったんだよ。家に」

「え、雪降る?」

「雪降るんだったら夏場は毎日家から出てほしいよな」

 可哀想だろ!と倉持が小松の肩を叩く。仰る通りです!と小松がそれに甘んじる。開け放たれた校門の前では佐々山が今もなお頭を抱えていて、その隣で花野が端末に耳を当てている。目が合う。花野の自転車を指差す。それから駐輪場。入れとくか? んじゃ頼むわ。

 軽く走って、花野の分の自転車も駐輪場に運ぶ。

 一応鍵も掛けといてやるか、とサドルの下を弄っていると、さらに倉持と小松の話は続いていて、

「何それ。んじゃ式谷ってもうこっち帰って来てんの?」

「は?」

 顔を上げた。

 ちょうどガコン、と鍵が掛かるタイミングで。

「なんだそりゃ。連絡あったのか?」

 ん、と倉持がこっちを見る。小松の方が先に「ちゃうちゃう」と手を横に振る。

「家行く前に連絡したんだよ。千賀上って連絡なしに家来られるの嫌いだし、いきなり凸して『貸すのやだな~』とかなったら対面で断んのも体力要るじゃん。花野から連絡してくれるとは言ってたけど、一応俺からもさ」

 行き違いとかそういうのないようにと思って先にチャット送ったんだけど、

「なんか『今家にいない』っつーわけ。でも学校開いてないしさ。訊くのも変かと思ってどこにいんのかとか訊き損ねたんだけど」

「あたしらは全員ここにいるし、そしたらもう式谷しかいないじゃん。帰って来てんじゃないの、あいつ」

 呼んだら出てきたりして、と倉持が口の横に手を当てる。ご近所迷惑だからやめましょうね、と小松がその正面に回ってバスケのディフェンスみたいな動きをする。どうでもいい攻防が繰り広げられるのを見ながら、薊原は思う。

 へえ。

「水族館の方は連絡――何ニヤニヤしてんの、薊原」

「は? 別に」

 してねえけど、と言えば、あっそ、と戻ってきた花野は軽く流す。あと適当に連絡網回せる奴に回しといたから集まりたい奴は勝手に集まってくると思う。あのさ、と倉持が、

「晶、式谷帰ってきてるかもって知ってる?」

「いや全然。そうなの?」

「絽奈にピザ焼き機のこと連絡したときに何も聞いてない?」

 何にも、と花野が首を横に振る。

 私が連絡したときは「もう小松くんから聞いてる」って。

「俺は報連相の早い男……」

「何。絽奈の家の玄関に式谷の靴あったみたいな話?」

「逆。絽奈、今家にいないんだって」

 ぴた、と止まる。

 それから何かを考え込むような仕草をして、

「――ま。帰って来てるなら、どうせ学校寄るでしょ」

 それより、と花野は言う。

 行くぞ、ともう一度、あのやけに決断的な口調で音頭を取る。

「私もそれ使ったことないけど、どうせ一枚ずつしか焼けないでしょ。人集まってきたら食べるペース遅くなるから、今のうちに焼きまくるぞ」

 それもそうか、と前半と後半のどっちに納得したのか、倉持も小松も素直に頷いた。どっちから、と小松が言う。職員室の方? いや普通に昇降口さっき開けた、あと材料とかも全部冷蔵庫ぶっこんである。オッケー了解……この中だともしかして俺が作る人? あたし食べる人。私も食べる人。薊原せんぱーい助けて~。

 呼ばれたから、薊原も素直にその後に続く。別に自分だって、そこまでそういう料理が得意なわけじゃないけれど。さっさと三上あたりが来てくれると嬉しい。あと他に料理が上手いのは誰がいたっけ。思い付き次第に個別に連絡しておこうか。

 一度だけ振り返る。

 途方に暮れて、夏の空を仰いでいる佐々山がいる。罪悪感がないと言えば嘘になるが、まあしかし、とも思う。

 こんなの全然、大したことじゃない。

 クソみたいな政治とか、詐欺とか、暴力とか、身を持ち崩すほどの賭博、酒、ドラッグ。そんな物騒で、ありふれたものと比べれば。

 ガキが学校に集まって、楽しくやる。

 たったそれだけの、他愛もない話なんだから。


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