表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
61/68

海辺 ②


「だいじょうぶ?」

 ローカル線の、二両しかないこんな短い電車なんて初めて乗ったし。

 その他に誰もいない車両で座席をたっぷり広々と使いながら絽奈は、ウミの膝の上に頭を乗せてもらって満身創痍になっていた。

 土台、無理のある話だったのだ。

 だって最近になってようやく学校に行けるようになったところだったのに。それが県境を越えての大移動なんて、耐えられるはずがない。最初の頃は「リュックの中に入っててくれれば大丈夫だよ」なんてウミを励ましていたのに、途中からは完全に逆転した。交通系ICで降りるところは流石に気力を振り絞って自分で何とかしたけれど、それからこのローカル線に乗るときの切符は諦めて二枚買うことにして、もうすっかり手を引かれるようにして歩いている。ウミは自分よりも遥かに地上に馴染んでいた。段々こっちの顔色が真っ青になっていくのを「だいじょうぶ?」と心配してくれて、膝を貸してくれるくらいには。

 でも、正直なところ、これはこれで脇腹が突っ張って痛い。

 が、起き上がれるかというとそんなこともないから、脇腹が突っ張って痛いまま窓の外、こんな状態でもなければそこそこ感動したであろう海辺の景色をぼんやり眺めつつ、絽奈は答える。

「ダメ……」

「げんきだして」

 ぺた、とウミの手のひらが首元に触れる。首の脈のあたりが冷やされて、頭の奥の方にあったうっすらした痛みみたいなものが引けていく感じがする。ガタンゴトンと電車は進む。絽奈は思い出している。

 昨日の夜の、電話のこと。

 非通知設定、という文字が端末の画面に踊ったとき、殺されるのかと思ったこと。

 元々電話が苦手だ。着信画面が怖いから。それに普段から音も鳴らないようにしている。急に鳴り始めたら怖いし、チャットと違って十数秒の間に何かのアクションをしなくちゃならないのが追い立てられているみたいでものすごく焦るから。こっちの音がすでに漏れ聞こえているような気がするとか、音がした瞬間からすでにこっちの状況への監視が始まっているような感じも嫌だ。インターフォンも似たような理由で苦手で、両親がどっちも外に出ているときに鳴らされたりすると、思わずベッドの上で布団を被ったり、机の下に隠れて息を止めたりしてしまう。こういうときは自分の部屋が二階にあってよかったと思う。そこそこ運動になるのもそうだけど、中に誰かいないか、なんて外から覗き込んでくる人と目が合うことがないから。一階だったらそういうこともありえるかもしれない。たぶん今後一生、一階には住まないと思う。怖いから。

 だからその着信があったときはものすごくびっくりしたし、怯えた。

 そもそも普段なら非通知設定からの電話は着信拒否にしているのだ。知らない番号から掛かってきた電話も全部一回目は出ないことにしていて、留守番メッセージなんかから向こうの素性が知れない限りは二回目以降も絶対出ない。というか即座にその番号も着拒にする。知らない人からの電話なんて、出た瞬間に物凄い勢いで自分の名前と住所を絶叫されて「てめえ今から殺しに行くからな!」なんて恫喝されてよくよく聞いていたらその声が二重になっていて外を見るともうそれはそれは恐ろしい風貌の男がすでに庭先に立っていておどろおどろしい拷問器具をスプラッタ映画に出てくる武蔵坊弁慶みたいな調子でごっそり背負っていて――と簡単に想像できてしまう。

 でも、そのときは出た。

 元々非通知の番号でも端末が鳴るようにしていたのは、こういうときのためだったから。

 はい、とかそういうことを言ったんじゃないかと思う。このあたりのことはよく覚えていない。電話が繋がった瞬間に、ものすごい音が向こうから聞こえてきたから。ノイズなのかと思ったけれど、よく聞いたら違う。雨の音。それに紛れて、声が聞こえる。

 明日、夕方。

 ウミちゃんの友達が待ってる。

 それからどことも知れない駅名だけを告げて、すぐに電話は切れてしまった。その後も絽奈はしばらく考えていた。電話から聞こえてくる声は実際のその人の声とは違っているらしい。だから何度もそれを頭の中で繰り返すうちに、段々と不安になってきた。不安になればなるほど記憶もぼんやりしてきて、最後の方になるとベッドにうつ伏せになって考え込む羽目になっていた。

 もっ、とアザラシみたいな姿のウミが、いつもみたいに背中に乗ってきて。

 落ち着いた声で、自分に訊ねてきた。

「だれ?」

「湊」

 よかったね、とウミが嬉しそうに言うから、それで目を覚ました。

 そうだ、と気合を入れた。こんなことをしている場合じゃない。ウミに言う。お友達、見つかったって。ほんと? 本当かどうかはわからないけれど、あれが本当に湊だったなら絶対そうだと思う。湊はこういうことで嘘を吐かない――というか、吐く理由がないから。どこ、と訊ねられれば、任せてよ、とすぐに絽奈はパソコンに検索画面を出した。忘れないうちにと駅名を入れてみる。

 とんでもない距離と時間を算出される。

 もしかすると湊じゃなかったかもしれない、とまた思い始めた。

 だって、と今でも思う。ウミに優しく頭を撫でられながら、今でも思うのだ。こういうことを湊は自分には要求しないと思う。こんなの縄文時代に日本から大陸に舟で渡るみたいなものだ。どう考えても不可能。湊は不可能なことを自分に要求しない――待てよ。あの大雨の日に無理やり家庭科室に連行されたのは何だったんだ。いやでもあれは結局それなりにできたわけだから。後輩たちから拍手までされたわけだから。晶ちゃんからは「私より上手い」なんて言われて「今度から給食当番代わってあげてもいいよ、私料理得意だから!」なんて胸を張って鼻で笑われたわけだから。鼻で笑われたということは実はそんなに上手くはなかったのだろうか? でもあのカレーが美味しかったことは真なわけで、それに湊だってカレーが作れるなら他も何でも作れるよこれって基礎練みたいなものだからなんていかにも説得的なことを言っていたし――

『次は、終点――』

 聞こえてきたから、頭を上げた。

 だいじょうぶ、とウミにもう一度訊かれる。もちろん全然ダメだ。正直に言うと二々ヶ浜の駅に着いたあたりからだいぶ厳しかった。全然知らない場所に行くと、自分が夢の中にいるような気がする。自分を取り囲む情報が多すぎて入力量の多さにクラクラしてしまうし、電車の中とか駅のトイレとか、そういうところで起こった事件のニュースを思い出すたびにものすごく不安になる。知らない人がたくさんいる場所に身を晒していると思うととにかく落ち着かなくなって、疲れに疲れて、何もわからなくなってしまう。気が張り詰めている分、限界まで眠くなったときよりもずっと酷くて、全然やったことのない一度死んだら終わりのゲームを、一度も握ったことのない操作性の悪いコントローラーでプレイしているような気持ちになる。

 でも、そのおかげかもしれない。

 もしかしたら何かの罠なのかもと警戒していた気持ちが、今は薄れていた。

 そうだったときのことを考える余裕が、もうないから。

「……頑張る」

 言えば、もうすっかりウミは自分のことを『外の世界に耐えられない生き物』だと理解してくれたらしい。心配そうに手を取って、先に立ち上がってくれた。電車の仕組みもすっかり覚えていて、扉の前に立つ。その隣に佇みながら、自分がこの地上社会のことを教える側でいられる時間はたぶんもうそんなに長くないんだろうな、と絽奈は思う。何だか寂しい気もするし、当然のことな気もする。

 乗り始めた頃はまだ青かった窓の向こうは、今はすっかり金色だった。

 よくわからない色だな、と思う。

 どういう季節を表しているのか、よくわからない。古い日本画みたいな色。そういえば、と思い出した。ちゃんと体系立った形で美術の勉強もしたい。音楽にも作曲理論があったり、文章にも論理学とかそういうのがあったりするらしいけれど、とりあえず一番苦手な美術から。あの佐々山っていう先生は前にいた美術の先生とは違って何だかふにゃふにゃしてる感じで話しやすそうだし。他の子たちに訊いても評判が良いし。ちょっと行って「どうやって勉強すればいいですか」って訊いて怖そうだったらわーって逃げよう。日が沈んでいく。一日が終わる。もう一度車内アナウンスが流れる。

 終点のホームが、少しずつ近付いてくる。

 調べに調べた。そのことを絽奈は思い出している。ローカル線の終点。交通系ICは使えない。それどころか自動改札もない。買った切符は駅構内にある回収ボックスに入れればそれでおしまい。調べても公式サイトでは上手く出てこなくて、結局、個人の旅ブログまで調べてようやくその情報に辿り着いた。

 その記事が書かれた一年前から、何も変わらないままでありますように。

 絽奈はポケットからその切符を取り出して――あの、行ったこともなかった駅の切符売り場で、自分の指が押したボタンのことを考えている。


 おとな二枚。

 つまらない冗談の中では、そこそこ面白い方だと思う。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ