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海辺 ①


 佐々山祈里は自分が芸術関係の道に進もうと思ったきっかけを比較的、明確に覚えている。

 高校時代のことだ。まだ普通に美術部に入っているだけで、芸術関係の学校に進む気なんかさらさらない――というか、夢にも思わなくて。クラスTシャツをデザインしたり文化祭の喫茶店の看板のデザインを担当したりすることでそれっぽい立ち位置を確保して人生を乗りこなしていた、あの近いようで遠い日々のこと。

 台風が来るか来ないか。休校になるかならないか。そういう微妙な天気の、夏とも秋とも付かない季節だった。家が近かったから勢いで佐々山は登校し切った。そしてその直後、ざーっと凄まじい本降りの雨が降り出して、街のスピーカーから大雨警報が鳴り出して、五分も経たない間に全校生徒へメッセージが送られた。本日休校。

 そうして学校に閉じ込められた生徒は、意外にも佐々山一人ではなかった。朝早くから来て自学自習に精を出す勤勉な者たちはもちろんのこと、登校に使っているローカル線の時刻表の関係で毎朝始業の一時間前に席に着いている者。降り出した雨に窓を洗われて、大きな大きな洗車機に突っ込まれたみたいな学校の中で、ほとんど話したことのないクラスメイトだっていたのに、何なら全然登校してきたのがいなかった隣の特進クラスから越境してこっちの教室に来ているのだっていたのに、奇妙な仲間意識が生じて、ひそひそと、内緒話をするようにその時間を過ごしていた。

 担任の、もう名前だってうろ覚えのあいつが現れた。

 たぶん、石上とか石森とか、そんな感じだったと思う。何となく『石』という字が苗字についていたイメージだけはある。あだ名もあったはずだけれど忘れた。あの頃は若く見えたけれど、多分実際はそんなに若くない。四十そこらとかそんな感じの、万年ジャージにスリッパの先生。


 お前ら、こんな日に張り切って学校に来なくてもなあ。

 俺も家の前が冠水してるって言って休みゃあよかったよ。


 何気ない言葉だったはずで、だから多分、深く心を動かしたのだと思う。

 佐々山は昔からよく寝る。早寝遅起きの一族で、朝の洗面所はいつも大渋滞。大学に入ったときは静かな朝が自分に与えられたことに凄まじい喜びを得たものだけれど、結局枕と住所が変わっても一日最低八時間寝るスタイルは変えられなくて、一限なんて恐ろしいものは青椒肉絲からピーマンを取り除く野菜嫌いの子どものように、慎重に慎重に、履修計画から省ける限りを――省ければよかったのだけど、普通に一限に必修が入っていたのでちゃんと苦しかった。あと教職課程が時間割を圧迫していて忙しなかった。一回思い切り留年してしまうか、とりあえず卒業してから通信系のところに入り直して改めて教職を取り直すか……そういう誘惑もあることにはあったけれど、それはともかくとして。

 就寝前後を含めて、しっかり眠るためには九時間。

 二十四ひく九は十五。

 一日は、実質十五時間。

 働くというのは大抵の場合、その半分以上を毎日、何か一つに費やすということだ。

 別に、その場で急に「よし、芸術で行こう!」と思ったわけじゃない。そのときはぼんやりその石山だか石川だかの言葉が印象に残っていただけ。ただ、それがじわじわと方向を変えていく。何かが佐々山の中で、浮き彫りになっていく。

 一日の労働は、八時間。

 前後の通勤時間を入れて、残業だって考えて、そうしたら一日何時間?

 多分、と思った。自分は、そんなに仕事に費やせない。捧げられない。一日のほとんどを何の興味もないことに費やして一生を過ごせるほど、自分の心は強くない。

 好きとか嫌いとか、やりがいとか何とか、そういうキラキラしたことではなく。

 やり過ごすのではなく、やってやろうというものじゃなければ、多分一生は続けられない。

 そういうのがじわじわと溜まって行って佐々山は、やがてある日の夕暮れ、放課後。

 美術室の扉に、少し違った意味で手を掛ける。


「帰りて~……」

 わけなのだけど。

 そういう意気込みだけで人生が進んで行ってくれるわけもなく、あれから六年とか七年とかが経って今。佐々山は将来廃校間違いなしのくたびれた地方公立中学校の、大して効きも良くないエアコンの風に吹かれた職員室で、美術とは全く関係のない書類仕事の前で頭を抱えている。

 強制終了された夏合宿に関する一連の報告書だ。やたらに細かい会計書類だとか、日々の家庭訪問の結果だとか、消耗品がどうとかそういうのまで、全部。知らない間に宇垣がカタカタとキーボードを叩いて片付けていたのが、入院もあって一気に佐々山まで回ってきた。

 これ私の仕事?

 というのは多くの教師のみならず多くの労働者が日々一般的に抱える感情だけれど、今日このときばかりは非常勤で、新任で、担任するクラスも持っていない一コマいくらで雇用されたはずの佐々山も同じ感情を抱えている。これは自分の仕事なのか? そして同時に、これは宇垣先生の仕事だったのか、という疑問も。教頭は今日も今日とてそれは教頭の仕事なのかと思わざるを得ない外回りで二々ヶ浜中学校運営のために方々を駆けまわっており、職員室には誰もいない――どころか、夏合宿が終わったから学校全体を見ても誰もいない。

 廃校になった後に、あるいは世界が滅んだ後に、一人で仕事をしているみたいだった。

「……帰りて~よ」

 どこに帰りたいのかと問われると、ちょっと戸惑ってしまうけれど。

 たぶん、今住んでいるところに帰りたいとか、そういうわけではないのだろうけど。

 ぐ、と机を押して椅子を引いた。

 ダメだ。給料が出ないだけじゃなく、やる気も出ない。

 うん、と立ち上がって背伸びをする。鎖骨と肩甲骨のあたりがゴキゴキ鳴る。昔、こういうのが鳴る人はどういう生活をしているのだろうと思っていたけれど、こういう生活だった。随分遠くに来てしまった。そう思いながら腕を下ろす。はあ、と溜息を吐く。

 本当は、この昼の間にものすごく頑張らなければいけないのである。

 なぜと言って、一般的な定時――五時ちょっと過ぎくらいになると、冷房が止まるから。夏合宿の特例が終わったせいでそういう生活に戻って、あの恐ろしい地獄の、窓を開けてPCの灯りに群がってくる羽虫と戦いながら今日の仕事が終わるまで蒸し風呂と化した職員室で延々汗ばみながらキーボードを叩く謎のよくわからない、人生というものに対して無限の疑問を投げつけてくる不条理小説みたいな時間が始まるから。この間アパートの屋根の修繕をしていた炎天下の方がまだマシだった。あれはそうしなきゃならない理由がわかるけれど、超高温と化した部屋の中で書類仕事をしなくてはならない理由は全くわからない。あのとき近所のお爺ちゃんが貸してくれた空調服が恋しい。あれで毎日勤務したい。

 今から買いに行こうかな。

 どうせ今、勤務時間外だし。

 そう思いながら、クーラーの風の真下に立つ。こなさきゃいけない仕事の量とか、それをこなすに当たって必要になる気力体力とか、そういうのにうんざりしながら、外の景色を眺めている。

 夏の日差しに照らされて、真っ白に輝くロータリー。

 閉ざされた校門を勢いよくよじ登る生徒の姿を、うっかり捉えてしまう。


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