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Anywhere ④


「大学二年の頃、私は講義をサボりすぎて留年寸前だった」

 もう十年以上前の話になるが、と宇垣は言った。

 なぜ十年以上前の話が始まるのか、全くわからなかったから虚を突かれてしまった。

「まあ、とりあえず聞いてくれ」

 今の子どもは英作文みたいにすぐ結論から始めようとするからな、と。

 らしくない微笑みを浮かべて宇垣は、これから時間が無限にあるような、のんびりとした調子で口を開いた。

「正直に言うと、何の興味もない大学の何の興味もない学部に入ったんだ。その頃は何となく普通に生きていれば幸せになれるような気がしていて……お前らと違って、真剣に『これからどう生きるか』なんて考えてなかったし、適当に生きていても何とかなるような気がしていた。楽そうだし、日本語なんて勉強しなくてもできると思ってな。日本文学を学ぶコースに入った」

「え」

「ん?」

 あれ、と思う。

 なんか、話が違うような。

「その頃の大学は『人生最後の夏休み』なんて言われていてな。それを真に受けてバイトだのサークルだの飲み会だのに『人生経験』とラベルを貼って没頭していたわけだ。弾けもしないギターを買ってバンドを組んで文化祭で大失敗してみたり、レンタカーで心霊スポットのトンネルまで向かったらちょうどそいつがエンストを起こして森の中で恐怖の一夜を明かしてみたり、生牡蠣食べ放題の飲み屋で馬鹿みたいな数の生牡蠣を食って案の定翌日全員食あたりを起こしてバイト先を崩壊させてみたり……まあ、そういう感じの益体もない日々に時間を投じていた。そうしたらある日、必修単位の出席点がどうやっても足りなくなっていることに気付いてな。これはもう留年だ、と気付いたわけだ」

 馬鹿だろう、と宇垣は笑う。

 はあ、と曖昧に濁しつつ内心ではマジで馬鹿だな、と花野は思うけれど、全然結び付かない。いつも四角四面で生徒にお小言を垂れているこの真面目教師と、その過去のエピソードが。

 全くイメージと違う。

 というか。

 そもそもこの人、理系なんじゃなかったっけ。

「しかし大学の同期に聞き込みをしたところ、どうも何とかなるんじゃないかという希望の光が見えてきた。どうもその担当教官、単位認定が相当緩いらしく、土下座して頼み込めばどうにか誤魔化してくれるんじゃないかと私は見込むに至った」

「えぇ……」

「で、実際に研究室に突撃したわけだ。それが退官寸前、まあ、六十歳くらいだと思ってくれればいい。落ち着いて鷹揚な感じの、年を取るならこんな風に取ってみたいものだと思わせるような穏やかな先生でな。事前にアポを取っておいて……もちろん本気で『バイトのやりすぎで』なんて言ったわけじゃないぞ。食あたりの話とかを持ち出して、どうしてもこの日は云云かんぬんと詭弁を弄したわけだ」

 言おうか言うまいか、まあまあ迷っている。

 が、相槌の一つくらいは打たないとそれはそれで失礼かも、と思ったから、

「最悪の学生ですね」

「全くその通りだ。返す言葉もない」

「で、誤魔化してもらえたんですか」

「レポート課題で追加点を出してもらえることになった。そっちの方は真面目にやったし、実際期末のペーパーテストもなかなかの出来だったから、ギリギリセーフだった」

 へえ、と頷く。

 普段だったら心の中だけで言うやつを、雰囲気に乗じてあえて口に出す。

「大学の単位って何の価値もないんですね」

 うむ、と宇垣は頷いた。

 うむ、じゃないだろ、と花野は思った。

「しかしな。考えてもみろ。果たして学校で習うことのどれほどが人生の役に立つ?」

 それ教師が言っちゃいけないだろ、とも思う。

 段々花野は不気味になってきた。目の前にいるのがあの宇垣真一郎とは思えない。あの絵に描いたような真面目ぶり。塾講師よりわかりやすいと噂の全科目総合夏季講習。絶え間なく振りかかってくるそれ業務関係ないだろみたいな無理難題にも卒なく答えつつ最終的には生徒の身代わりになって銃弾を身体にぶち込まれるような教師が、こういうことを言うとは思えない。

 もしかすると、と思ってしまうのは、そういう例を知っているから。

 ウミみたいな生き物が、宇垣のふりをしてここに寝ているのではないか?

「……いや、普通に役に立ちますけど。国語ができなかったら何するにも契約書とか読めなくて損するし、算数できなかったら毎日の生活のやりくりとか全然できないじゃないですか」

「お前は偉いなあ」

 偉いなあ、て。

 無責任な親戚のおっさんみたいな話ぶりに、どんどん力が抜けてきた。

「そういうのがわかる奴はな、ごく少数なんだ。もちろん花野の言うとおり、役に立つことは大量にある。が、そうだな……技術家庭と体育はわかりやすいから、美術、音楽。後は小説、古文、漢文か。こういうのがどう役に立つか。すぐに説明できるか」

 たぶん、古文と漢文を先に出されたらそこそこ答えられたんじゃないかと花野は思う。

 ついこの間、そういうのを使わなくちゃいけない場面に遭遇したから。未確認生命体が過去にどの場所にどんな風に現れたかの記録を読み解こうとするとき絶対その知識が必要になります――まさか素直にそれをそのまま言うわけではないけれど、似たようなことはそれらしく理屈立てて言えたと思う。

 が。

 美術、音楽。

 絽奈とか佐々山には申し訳ないけれど、「どう役に立つか」と言われれば、咄嗟に出るのは「楽しい」とか「それで食べていける才能のある人を発見できる」とか、その程度のことしか出てこなくて――

「と、ここで話は私の学生時代に戻ってくる」

 宇垣のペースだった。

「どこまで覚えてる?」

「大学の単位には何の価値もないってところまで」

「よし。そして私は何の価値もない単位を取ってめでたく進級した。しかしな、大学三年にもなると巨大な厄介事が降りかかってくる。何だと思う」

「……三年? 四年じゃなくてですか」

「そのとおり。就活は三年から早速始まってしまう」

 さて困った、と宇垣は言う。

 良い就職先を見つけるためには三年の夏からインターンだの業界研究だのをして準備をしなくてはならない。自分の周りのお気楽大学生たちもこれまでの夏休みぶりが嘘のようにそういう宿題に取り組み始めた。しかし一方で、自分は何もやりたいことも学びたいことも見つからないと何となく日本文学コースなんかに来たわけで、そういう空気には馴染めない。遊んで忘れようにも皆忙しくなり始め、遊ぶ相手が見つからない。

 そこで、

「勉強してみることにした。逆にな」

 はあ、ともう一度花野は頷く。

 何も逆じゃないだろ、と思う。大学は勉強するところなんだから。

「私の行っていた大学にはゼミというものがあってな。聞き慣れない言葉だろうし大学によって形式が違ったりするんだが、まあここではお試し研究室みたいなものだと思ってくれればいい。指導教官と一緒になって特定のジャンルの文献を読んだり、いわゆる卒業論文を組み立てていったりする。そういうものがあった」

 へー、とようやく素直に花野は頷けた。

 話がどこに向かっているのかは、さっぱりわからないけれど。どこに行ったんだろう。未来への興味とか、そういう話題は。自分の進路は。そもそも大学に行くことに価値があるという話をしたいのかそうでもないのか、そんなことすらわからない。

「で、私はさっきの留年を上手いこと消してくれた教授のゼミに入った」

「…………」

「返す言葉もない」

 まだ何も言ってない。

 言ってないのに、ぺらぺらと宇垣は言い訳を始めた。別に単位認定が緩そうだとかそれだけが理由ではないそもそもゼミだの何だの言っても何も興味がなかったわけだから結局そのゼミを持っている教官がどういう人物かという話になり、他の奴らは就職に有利だとか大学院に向けてどうたらだとかそういう基準で決めたわけだがその頃の大学ではキャンパスで自分の助手に怒鳴り散らしながら歩く教授なんかもいたりしてそういうのに当たらんようにと考えると多少なり面識があっていかにも人間が出来ていそうなその先生のところに応募するのが安牌だったんだ。返す言葉もないんじゃねえのかよ。

「しかし、ここで誤算があった」

「また留年の危機ですか」

「ああ、今度こそ留年した」

 しかしな、と宇垣は続けた。

 どんな「しかしな」が続いても挽回できないだろ、と花野は思った。

「今度は遊び惚けていたわけじゃない。さっきも言ったとおり、今度こそは他にやることもないし勉学に真面目に取り組もうと思って、様々な講義に顔を出し、ゼミにも真面目に出席していたんだ。が、そうしたらどんどん面白くなってしまってな」

「興味なかったんじゃないんですか」

「不思議なことに、興味のないことでもやっていると面白くなるものだ。教師だって初めの頃は何の興味もなかったしな」

 さらっと衝撃の事実を知らされた。

 この先を聞く必要があるのだろうか、と花野は思う。結局この人、この話の最後まで行っても「何も興味はないんだが他にやることも見当たらなかったのでとりあえずやってみた」が続くんじゃないだろうか。こんな人だとは全く思わなかった。

 思わなかった、けど。

 ふと思う。

 何となくそれは、自分とも近いような――、

「で、やっているうちにどんどん面白くなってきたから、もう一年大学に居たいと思うようになってしまった。幸い大学一、二年の頃の蓄えもあったし、その頃やっていた家庭教師のバイトが『金はあるところにはある』と言わんばかりのとんでもない時給でな。後にも先にもあれより金を持て余していた時代はないかもしれん」

 というわけで、と。

「自主留年することにした」

「……どうやって?」

「ゼミが必修だったから、その担当教官に頼み込んで単位を落としてもらった」

 大変だなその教授も、と思う。

 この間まで「留年を取り消してくれ」と頼み込んできていた学生が、今度は打って変わって「留年させてくれ」。嫌にならないのだろうか。

 意外と有意義だった、なんて悪びれもせずに十年以上前のことを宇垣は語る。

「他の奴らは大してもう捕まらん時期だからな。集中するにはうってつけだ。もちろんさっき言った日本文学の勉強もそうだが、教職課程を取ってみたり、理系の講義にも顔を出して数学だの物理だの生物だのの表層を舐めてみたり」

「あ、それで理系に行ったんですか」

「……いや?」

 何の話だ、という宇垣の顔。

 ここに来て花野は確信していた。宇垣真一郎。理系の研究者をしていたのが大学の大規模廃校に伴って中学校教師に流れてきた。噂に聞いたそんな経歴は、完全な嘘だったらしい。誰が言ったのか覚えていない。田舎の噂なんて全部こんなもの。わかってはいたけれど、見事に引っ掛かった。

「そのうちゼミを飛び越して研究室に入り浸りになった。院生の先輩に多少の指導を受けてその見返りにちょっと研究の手伝いをして……後はまあ、現代に残る伝統文化の調査なんて名目で、各地の祭りだの花見だのに送迎の車を出してみたり。そのときの研究室のメンバーはことごとく運転嫌いで、これが大層評判だった」

 結局遊んどる、と花野は思う。

 大学というのは本当にこんなに遊び放題の場所なのだろうか? それとも宇垣が見かけによらず大層な遊び人なのか……。信じがたいことに、この二択問題は病室に入ってくる前の自分だったら夢にも思わなかった方に正解の雰囲気がある。すなわち、後者。

「で、まあそのあたりはいいんだ」

 いいんですか、と花野は訊く。じゃあ今までの長々した説明は何だったんだよ。そんな内心を察しているのかいないのか、宇垣はいかにも怪我人らしいゆったりとした調子で頷く。

 いいんだ。

 肝心なのは、ここからのことだから。

「その教授とな、近場でやっていた花祭りに行ったんだ。他の研究室のメンバーは都合が付かなかったから取り止めになるはずだったんだが、たまたまそれぞれ個人的に来ていたところに出くわした」

 河川敷沿いの、桜並木だったのだという。

 詳しくは覚えていないけれど、桜が咲いていたということは春だったのだろう。花の盛りになってからそう遅くもなければそう早くもない。散った花びらが傍を流れる川を真っ白に染めているかと思えば、首を傾けると世にも美しい花の雲が青空にかかる。そんな見頃の季節。風が吹いてわっと花がどこかに吸い込まれていくのを目で追えば、その教授と目が合った。

 こんにちは、宇垣さん。

 こんにちは、先生。

 自主研究、感心、感心。なんて笑われて、桜の下を二人で歩いた。あなたはこういうのにまめに出てきますからね、将来はツアーコンダクターなんかになったらいいんじゃないですか。ツアコン……先生、就職の斡旋先が? ないけど。なんですか、それ。言ってみただけです。

 大体あなた、まだ就職も進学もする気がないんでしょう。何も決めたがってないんだから。

 ふと立ち止まる。

 訊きたかったことを、宇垣は訊く。


 ――先生は、どうして日本文学の道に進んだんですか?


「進路を決められない理由の一つに、結局は『大人のことをよく知らん』というのが自分にはあった。そういうことに、二十を超えて、酒でも何でも飲めるようになって、ようやく私は気付き始めたわけだ」

 だから訊ねた。

 教授はそれに意表を突かれたような顔をして――うーん、と小さく呟くと、同じく足を止めた。桜の舞い散る河川敷の歩道の上。その舞う花びらの一つが空に昇っていくのを見つめるように、目を留めていた。

 紫式部の、

「『一といふ文字をだに』。知っているか?」

「……いや、それだけ言われてもちょっと」

「そうか。まあ、花野ならいつか学ぶだろう。そのときにでも思い出してくれ」

 地域の図書館で触れた言葉なのだという。

 古文の勉強をするつもりで、つまりは完全にその教授は受験対策のつもりで、図書館にあったその本を手に取ったのだという。紫式部日記。そして、

 何だか、そうしたら不思議な気持ちになってしまったんですね。

 ああ、そうなんだ。こんなに昔から、千年も前から自分と同じような悩みを抱えている人がいたんだって。そう思ったら、歴史を学んでいたときなんかは何ともなかったのに、ふっと急に、時間の流れがこの世にあるんだなっていうのが、いくつもの過去が折り重なって、繋がって今のこの場所があるんだなっていうことが、わかったような気になったんです。

 もちろん、話はそんなに単純なものではないんですけど。

 でもそのときは、素直に感動しちゃったんだなあ。

「それを聞いて実のところ私は、ますますわからなくなった。そんな経験は一度もしたことがないからだ」

 思わず花野も頷いた。同じだったから。別に勉強をしていて感動したことなんてない。教科書を読んで、問題集があって、解いて、後はそのまま忘れないでいるだけ。料理とか工作とかと同じ作業の一種で、その中でもあんまり自分にとっては苦じゃない方のやつ。座ったり、寝っ転がったままでできるから。ただそれだけのもの。

「そして結局、答えが出ないまま夏休みにも終わりが訪れる。何となく卒業したはいいものの、進学するわけでもなければ就職するわけでもなかった。とりあえず今までやっていた家庭教師と並行して、予備校講師のバイトも始めた」

 これが意外と食えてな。案外このまま一生を終えるんじゃないかと思ったくらいだ。そういう意味では花野もとりあえず大学を出ておけば三十くらいまではこれだけで食いっぱぐれずに済む――かはわからんな。受験制度もどんどん変わっているし、少子化の進行ぶりも酷い。それにお前の場合だと、受験産業の構造自体に思うところが出てくるかもしれん。

 三十まで自分は生きているんだろうか、と思いながら、そんな話を聞いていた。

 二十までだって、怪しい気がするのだけど。

「そこでも日々、ぼんやりとした悩みを繰り返すばかりだった」

 いつかは就職せねばならん、という意識自体はあったらしい。

 が、目の前に訪れる仕事に忙殺されることで、そういう意識を薄めていた。自分で言うのもなんだが、と宇垣は自分で言う。結構評判は良かった。その頃はまだだいぶ若かったし、生徒からしても取っつきやすかったんだろうな。時間外に捕まえられて自習の監督をさせられることもあった。こういう規定外の業務をこなしてしまうことは、やがて成長した子どもたちが職場で似たような苦労を強いられる可能性まで考えるとあまり褒められたことではないんだが……まあ、今もやっていることは大して変わらん。許せとは言わんが、ところどころ見逃してくれ。

 ときどき、進路相談を受けることもあった。

 だが、どの口で何を言える?

「ネームバリューがあって偏差値の高い大学に行くと収入が高くなりやすいだとか、将来的に潰しの効く学部はここだとか、そんなありきたりな話をするのが精々だ」

「……ちなみに、どこの学部が一番潰しが効くんですか」

「一昔前なら法学部だろうな。公務員試験の筆記に法律科目が大量に入っているから、大学で普通に四年を過ごして、後は中学までの数学を覚えていれば大体どこでも通るようになる」

 中学数学?と訊き返せば、あまり興味はなさそうに宇垣は頷いた。公務員の筆記試験には多くの場合『数的推理』という科目が含まれていて、その内容がほぼ中学数学だと。他の科目も要求されて精々が高校程度の知識だから、お前なら二ヶ月もあればどこの公務員試験も筆記までは受かるだろう。

 ふうん、と相槌を打った。

 それなりに有用な情報だったと思う。公務員になれば一生安泰みたいな時代が、今も続いてくれていたなら。

「しかし不思議なもので、私より人生経験が短いはずの子どもたちの中には、すでにきっぱり自分が人生で何をやるべきなのかを決めているのもいた。ゲームデザイナーになりたいだとか、海外の貧困問題を解決するために国際機関の職員になりたいだとか、そういう立派な志を持つ子どもたちだ」

 言われて頭に、一人の友人の顔が思い浮かぶ。

 千賀上絽奈。中学生にして、なんてレベルの話じゃない。小学校の、まだ年齢だって二桁に達してないような段階で、これから自分が何をするかを決めた子のこと。

「決めてもらえれば楽なもので、そういうことがしたいならこういう道があって、ここの大学にこういう研究室があって、だから今の偏差値からこのくらい伸ばす必要があって、さらに将来のことを考えるならこの科目を重点的に――そんな風にアドバイスできる。が、私はその間もずっと困惑していた。自分の人生だってろくに指針を立てられずふらふらしているのに、自分よりずっと小さな子どもが目標を決めて走り出すのを目の当たりにし続けているわけだからな。似たような見た目をしているだけで、自分とは全く違う生き物なんじゃないかとすら思ったよ。――そんなときに、一通の訃報が来た」

 想像した。

 聴いている曲の、メロディの続きを何となく予想するのと同じ。話の流れを読んで、その訃報が誰のものなのかを、花野は想像していた。たぶん、それが宇垣にとって何かの転機になったのだと思う。素直に浮かんだのは、申し訳ないけれどさっきの話の中に出てきた教授。それから次点で、顔も名前も、それどころか存在しているかすらも定かではない宇垣の両親。

「大学のサークルの同期だ。まだ、三十にもなっていなかった」

 そのどちらでもないものを、提示された。

 全然、会うことはなくなっていたのだという。特に宇垣は日本文学のゼミに入ってからというもの、留年したり就職も進学もしないまま大学を出てみたりとふらふらしていたから。ときどき近況を伺うメッセージを送り合うことはあっても、生活時間も出す話題もなかなか合わず、段々と疎遠になっていった。そんな相手だそうだ。

 ただ。

 よく笑う、優しい人だったそうである。

「花野。私からお前に言えることは、実を言うとこれだけ言葉を重ねておいて、たったの一つしかない」

 いいか、と宇垣は言う。

 いつもは真面目腐った仏頂面ばかりの癖に。

 こんなときだけ、優しげに笑って。


「勉強したくなかったらしなくていいし、未来のことを考えたくなかったら、考えなくたっていいんだ。

 別に、一人きりで生きているわけじゃないんだから」



 三十分後。

 花野は、紬と並んでロビーでテレビを観ていた薊原の前に立っている。

 終わったのか?

 行くよ。

 は?


 学校。


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