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Anywhere ②


「正直に言うとな、大学に行こうが行くまいが、好きにすればいいと思っている」

 一度死を覚悟すると、みたいな話なんだろうか。

 全然イメージにそぐわないことを宇垣が言うから、花野は思わず病室で唖然としてしまった。

 とっさの判断だった。みんなはどうしてる。元気か。そんな問いを与えられて、しかもよりにもよって自分は花野晶で、隣にいたのは薊原一希だったのだ。式谷湊の話を避けながら進むのは難しいし、かと言って病室のベッドの上で動くこともままならないこの熱血教師に「あいつ警察に追われて行方不明です。世界のどこかにはいると思います」と正直に伝えたところで、胃を痛めさせて傷の回復を遅らせる以外の効果が生まれるとも思えなかった。

 だから、「まだ進路も決まってないんで」なんて言って、こっちに誘導した。

 そうしたら、生徒を庇って銃で撃たれるような教師が、そんなことを言い出したから。

「……言っておくが、熱で意識が朦朧としているとか、そういうことではないぞ」

 こっちが茫然としているその内心を、見透かしたように宇垣が言う。

 そうではなくて、と声色だけはいつものとおり。いや、ちょっとだけ緩んでいるようにも聞こえなくはない。学校の外だからだろうか。

 そんなことを考えていると、

「すまん。ちょっと横になりながら話してもいいか」

「あ、はい。大丈夫です」

 すみません、と花野は言う。死にかけでお忙しいところ、とは付け足さない。付け足さないが、そろそろみたいな感じなんじゃないかと縁起でもないことを思う。宇垣はハイテクな割にやたら黄ばんだリモコンを手に取って、矢印のボタンを押す。ぴ、と短く音が鳴って、大体四十度くらいまでベッドが傾く。リクライニング付き。自分の家にもちょっと欲しい。

 ふう、と溜息を吐いた。

 珍しいことの連続で、何か変な夢を見ているんじゃないかと思う。この教師が、生徒の前で溜息を吐くことなんてほとんどなかったから。精々式谷にからかわれて、「お前なあ……」の後にわざとらしくやるくらいだ。

 疲れているようですので、と帰宅しようかと思った。それだって、目的は達成できるから。

 でも、それでも目の前のこの宇垣っぽくて宇垣っぽくない、どこからかやってきたウミの仲間が変身でもしているんじゃないかという入院着の男は、何かを話すつもりが満々らしくて、

「まあ、今日だけだ。学校に帰ったら色々と、いかにも公立中学の教師らしいことを言うと思うが」

 そんな風に言って。

 窓からよく差し込んでくる夏の日差しの中で、薄く笑った。

「一応最初に断っておくが、さっきの『好きにすればいい』は花野の進路相談に匙を投げたということではないからな。『どうでもいい』ではなく、『どっちでもお前ならやっていける』という意味だ」

 はあ、と花野はとりあえず相槌を打つ。この話は――ほんの誤魔化しのつもりで始めたはずのこの話は、どこに向かっているのだろう?

 行く方は、と宇垣は、

「花野もわかっているだろう。自分が行く意味を感じるかどうかとは別の話として、周りの大人がどうして進学を勧めるか、その理由は」

「……まあ、はい」

 思い付いたことを、とりあえず花野は並べてみる。

 大学に行った方が就ける仕事の幅が広がるから。将来の年収が変わってくるから。昔はみんながみんな行くような雰囲気があって、その頃の雰囲気をまだ大人は引きずっているから。周りの同年代と成績を比べたとき、かなり競争結果が良くなりそうな気配があるから。

 大体、そんなところかなというところで。

 そういうのは、全部わかっているけれど。

「――が。色々な建前を忘れて正直なことを言うとだ。あまりそういうのは、花野にとって本質的な問題ではないんだと私は思う」

 はあ、とやっぱり花野は曖昧に頷いた。

 ホンシツテキ。そういう言葉が当てはまる事柄が、この世に何か存在するんだろうか。


「お前、あんまり未来に興味がないんだろう」


 随分、と思った。

 随分ホンシツテキな指摘が出てきたな。

 まあ、とか。いや、とか。そんな感じの言葉が口を突いて出る。あまり意味はなかった。ただ、言われたことをきちんと受け止めていますよ、だから今は話しかけないでくださいね。そういうこっちの思いをはっきりとは言葉にせずに伝えるためだけの、喉から出る音の一種。

 未来に興味がない。

 まあ。

 言われてみれば、そうなのかもしれないけれど。

「図星だとして、自分でその理由を説明できるか?」

「……何字くらい使っていいですか」

「何字でも。数学の答案なんて読めればいくら書いてもいいんだ」

 数学の答案ほどきっちり答えられる気はしないけれど、そっちがそう言うなら。そう思ってゆっくりと、自分のペースで、

 花野は、

「……あんまり、良いことが待ってる気がしない」

 こう、と手で示したのは、ちょっと前――そうだ、確か宇垣が銃で撃たれた日のことだ。桐峯の言葉に対して、自分が頭の中で考えたこと。咄嗟に考え付いたわけじゃない。きっとずっと前から頭の中にあって、たまたまそのときに取り出されたイメージ。

 傾きが負の、一次関数。

 右に向かって、真っ直ぐ落ちていくグラフ。

「一応、自分ではそこそこ頑張ってるつもりなんですけど」

 取り留めのないことを、ぽつぽつと語った。

 思い出されるのは、やっぱりこの夏を過ごした学校のことばかりだった。一年目や二年目と比べれば、結構慣れてきてたくさんのことができるようになったと思う。あまり学校に来なかったり来られなかったりする生徒たちとも多少は関係が築けていて、いざというときには学校を頼ればいいとか、そういう考えを少しずつ浸透させられてきた気がする。もちろん学校の中にいる生徒たちだって、自分が入学した当時と比べたらずっと穏やかになったし、そういうのは自分の力だけでというわけではないけれど、全く自分の力によるものではない、とも思わない。

 自画自賛みたいになるけれど、結構、みんなと頑張れていると思う。

 でも、

「いるじゃないですか、あの説教ジジイ」

 ああ、とすぐに宇垣は笑った。

 これ一発で伝わるとなると、と花野は思う。もういいやと思って思わず口にしてしまったあだ名すら把握しているとなると、宇垣は自分たち生徒が思っているよりも、ずっとこっちを見ているのだと思う。ひょっとすると、自分が本人のいないところでは教師を呼び捨てにしていることも普通に知られているのかもしれない。通知表にそんなの、一度も書かれたことがないけれど。

「ああいうのに限らずなんですけど、『女は馬鹿』とか『女に教育を受けさせるな』とか言う人ってそこら中にうじゃうじゃいるじゃないですか」

「……まあ。うじゃうじゃいる、とは流石に思いたくないが。いるのは確かだな。平安時代からタイムスリップしてきたような奴らが」

「ああいうの、そのへんでたまたま遭遇しただけなら『ああ、はいはい』『死ねよ』で終わるんですけど」

 でも、と続ける。

 いくらでも「ああ、はいはい」で終わらないパターンは思い付く。

「たとえば職場の上司とかがそのタイプだったら、一気に厳しくなるわけじゃないですか。上司じゃなくても、取引先とか。簡単にその場から離れて終わりにできる相手じゃなかったら……っていうか極端な話、そのへんでたまたま遭遇したときに相手の方が足速くて、周りにちゃんとした人がいなかったらそれだってものすごく危ないじゃないですか」

 思い出す。宇垣が言ったこと。一番良いのは逃げて、助けを呼ぶことだ。それから可能な限り外出は二人以上で。そんな、何もできない自分たちを守るための手段。

 毎日必死になって、色んなものを良くしようと頑張ってはいるけれど。

 そんなの、壊す側からすれば何も関係なくて。

 そういうのを壊そうとする奴は、どこにでもいて。

 毎日が、そういうリスクとの戦いで。

「だから、結局、」

 思う。

 自分は二々ヶ浜にいなかったら、どんな人間になっていただろう?

 何となく、想像が付くのだ。自分はここに居場所がある。頭が良いと思われているから。『頭が良い』というのを長所として認めてくれる友達に囲まれているから。何か考えごとをしているときに同じ目線に立って一緒に悩んでくれる絽奈みたいな友達もいるし、紬とか岩崎とか式谷とか小松とか、そういう考えごとを評価して、褒めて、頼ってくれる友達もいる。

 そういうのがなかったら。

 それを想像することが、簡単にできてしまう。

 たぶん、ものすごく性格が悪いはずだ。人のことも全然好きじゃないと思う。不愛想で、近寄りがたくて、他人を心の底から見下している。そういう感じの人間に育って、適当に人を踏みつけにしながら悪びれもせずに生きていく。そっちの方が手っ取り早く儲かるし騙される馬鹿が悪いから、なんて自分の中で勝手な理屈を組み立てて、詐欺とか霊感商法だってどんどんやっているかもしれない。今よりきっと豊かに生きられるけれど、今の自分は少なくとも、そんな風にはなりたくない。そんな感じの、どこにでもいるような人間になっていたんじゃないかと思う。

 親が違っていたらどうだっただろう?

 もっと悪かったんじゃないかと思うのは、単に自分が結構家族を好きだからとか、そういう理由だけではないと思う。家にいて、「勉強するな」なんてことは一度も言われたことがない。テストで良い点を取れば褒められるし、「今勉強してる」と言えば大抵の用事は後回しにしてくれる。邪魔されない。塞がれない。怒鳴られない。否定されない。暴力だって振るわれない。当たり前のことだと思っていたけれど、そんなの全然当たり前じゃない。今はちゃんと、わかっている。

 別の場所に生まれていたら、きっと自分は全く違う人間で。

 もし全く同じ能力と性格を持って生まれて来られたとしても、なんて前提を考え始めれば、全く違う能力と性格を持って生まれて来た場合の想像だって、簡単にできてしまって。

 そしていくらでも遡って考えられることは、いくらでも未来に広げて行けるから。

 だから、結局、

「人生って、ずっと終わらない運試しみたいで、」

 たまたま幸せになれる場所に、今は立っていられるだけで。

 明日には、何が起こるかわからない。

 そんな世界で。


「明日のためにとか、そういうの。馬鹿馬鹿しくて付き合ってられなくないですか」


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