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Anywhere ①


 金魚は海では生きていけない、というのが全ての始まりだったように思う。

 誰から聞いたのかはわからないけれど、あの頃の二々ヶ浜小学生が持つほとんど全ての知識は花野さんから出てきていたはずだったから、多分花野さんが絽奈に教えたんだろう。少なくとも式谷は、今でもそう思っている。

 金魚は淡水魚だから、海で生きていくことはできない。

 じゃあ、あの金魚すくいの金魚は、お祭りが終わったらどこに行くの?

 そして多分、絽奈のその問いかけに答えたのは絽奈のお父さんだったんじゃないかと思う。よく絽奈のお母さんにひっぱたかれていたから。夢がないとか、なんでわざわざそういう言い方するのかなとか、もうちょっと気を遣えとか、そういうことで。だからきっとこういう風に、あのころの調子で悪気なく、さらっと答えてしまったんだと思う。

 そのへんに捨てるか、他の魚の餌にするんじゃないかな。

 それが本当のことだったのかどうかは、今でも結局、よくわからない。

 でもそのころ小学生だった自分たちにとって、親の、大人の言うことなんて神様が教えてくれたことと大して変わりはなかったから。絽奈はそれを頭から信じ込んだ。焼きそばを食べて、たこ焼きを食べて、かき氷も食べて、もうそろそろ帰ろうかって雰囲気があって、それでもずっと、その場所を見ていた。

 ぜったい、ぜったい、大切にする。

 袋を手にした絽奈はそう言って笑っていたけれど――今になると、式谷は思う。

 多分、今の絽奈があの日に戻ったら。

 金魚すくいになんて目もくれないで、背を向けて、一目散に家に帰ってしまうだろう。

 こんな人の多いところにいたら眩暈がする、なんて言って。

「――来たのか」

 終点は、風のよく吹き渡る駅だった。

 たったの二両の、小さな小さな列車に揺られてここまで来た。その列車もすぐに誰も乗せないままで折り返して行って、今はただ、自分一人が残るばかり。

 電車の駅とは思えないような場所だった。

 バス停の方が、ずっとイメージに近い。赤さびた線路が目の前にあって、駅のホームはそれより高くて、だけど、ホームと外とを区切る境目はどこにもない。学校のプールにだってフェンスがあるっていうのにここにはなくて、どこからだって入れて、どこからだって出て行ける。一応、と言い訳のようにベンチと、その上に庇になってかかる東屋みたいな簡素な屋根。『切符回収BOX』には数枚、自分が手にしているのと同じようなのが入っていて、少しだけ雨に濡れた跡がある。

 目の前には冗談みたいに真っ青な、二々ヶ浜よりもずっと綺麗な、晴れ渡る空と海がある。

 そのほとりで、一匹の猫が自分を待っていた。

「来たよ。こんにちは」

 語り掛ける。猫はじっとこっちを見て、近付いてこない。四方八方吹きさらしのホームだから、どこにだって逃げられる。逃げられたら、と式谷はわかっている。自分の足じゃ、絶対に追い付くことはできない。

 そうとわかるから、むしろ心は楽だった。

 ベンチに腰を下ろす。ざり、と砂か塩か、そんな感触がしたけれど、もうここまで来たら関係ない。背もたれに身体を預けて、後はただ眠るだけ。そんな気持ちで、目の前の猫と向かい合う。

「罠の準備は整ったのか?」

 あのとき、あの雨の夜。

 再びこの、猫であって猫でない生き物と出会ったときのこと。

 ああ、と式谷は思った。探していたあの生き物だ。友達の友達。この夏にできた新しい友達が、海の中からこんなところまでわざわざ訪れた理由。言葉を喋る猫なんて他に心当たりもないからそうやって簡単に結び付けて、実際、その後の反応を見ればそれで正解だったんだと思う。

 なぜ、仲間を呼ばない?

 ずっと猫は、自分の後を尾けていたらしかった。

 多くを語ったわけじゃないから、そのとき式谷が理解していたのはほとんど自分自身の想像だった。猫はずっと――きっと猫じゃない、虫とか鳥とか、あるいは生き物以外とか、そういう姿になって――自分を監視していた。警戒していた。「君の友達を、僕は知ってる」なんて咄嗟に口に出した言葉を、「お前の正体を知っているぞ」とか、そんな脅迫の意味として受け取って。

 もちろん、そんなわけはなくて。

 証拠になるものはたった一つ――前に、絽奈に撮ってもらったツーショット。千賀上家の風呂場で撮ったそれを、猫の目の前に差し出した。

 別に、君を捕まえようと思ってるわけじゃない。

 ただ、君に会いたいって子を知ってるだけだ。

 パトカーのサイレンが聞こえてきたのは、その直後のことだった。

 もしかしたら、と式谷は思っている。それは目の前の、この猫が仕掛けたものだったのかもしれない。自分の正体を知っている生き物と対峙するときの保険として、もしものことがあっても混乱に乗じて逃げ出せるように、人間の声と言葉を使ってあらかじめ準備をしていたのかもしれない。それ自体は別に、どうだってよかった。向こうの立場になって考えてみれば、怪しい相手に対して細心の注意を払うことは当然のことだと思うし、それに、そもそもただの偶然だったのかもしれない。確かにあのあたりは驚くくらいに寂れた街で、人の住む気配なんか全然なくて、警察だってきっと寄り付かないはずだと思ったけれど、そんな場所なのに他にたむろしている人間の姿もなかったから。何かの治安システムがあって、それが無意味な稼働をずっと続けていて、それに自分たちが意味を与えてしまっただけなのかもしれない。いずれにせよ、間違っていたのは自分だ。あんなに逼迫した状況で、ほんの少しの油断が命取りになるような状況で、わざわざ親の元から離れてふらふらと無防備をさらしてしまったのが間違いだった。たったそれだけの話。

 だから、大事なのは約束の方だった。

 君がここにいることを、この子に教えてもいい?

 ほんの数秒だって、足を止めているのは怖かった。

 じっ、と猫は瞳を見つめてきた。推し量るような目。あと二秒数えたら走ろう。あと三秒。あと五秒――果たして、猫は言った。

 明日、夕方。

 そうして、聞いたことのない駅名も。

 後はただ、走った。

 走って走って――こんなことに意味なんてないのかもしれない、いくら走ったってどこにも辿り着けないのかもしれないと、怖くなってきた頃。どうやって伝えよう、どうすれば巻き込まずに済むだろう。そんなことばかりを考えて、いつの間にか、それだけが全ての目的のように感じ始めて、何も言わずにこのまま消えてしまおうと思い始めた頃。

 公衆電話。

 見つけたそれに、何を考えるよりも先に駆け込んだ。

 向こうに何も喋らせないまま、猫から聞いたことをまくしたてて、受話器を置く。

 そうしたら、後のことはもう、全部どうでも良くなってしまった。

 たぶん、気が抜けたんだと思う。

「罠なんか張ってどうするの」

 今目の前にいる猫の言葉を、笑ってしまえるくらいに。

「君たちの方がずっと強いし、僕じゃ何もできないよ。見たよ、首長竜に変身するところ」

「――首長竜?」

「ウミちゃん――あ、このあいだ君に、写真で見せた子。あの子が見せてくれた。こーんなでっかい恐竜になるところ」

 って、僕の腕じゃ全然小さいけど。

 じり、と猫が前足で砂を擦った。

「誰が見た」

「結構。学校ってわかる?」

「研究機関」

 おっと、と意外な思い違いに戸惑う。

 こっちの猫はウミと比べて随分流暢に話すと思っていた。地上に来て長いんだろう。見た目からはわからないけれど、ウミよりも大人なのかもしれない。

 でも、『学校』なんて、結構基本的なことに関してこういう認識だけでいるのなら。

 もしかすると、傍にいて付きっ切りで言葉を教えるような人間はいなくて、独学だけで済ませてきたのかもしれない。

「それは学校の中でも大学かな。小学校、中学校、高校、大学、って四段階の学校があって、研究機関なのは一番上の大学だけ。僕が言った『学校』は中学校。下から二番目」

 猫は何も言わない。

 情報を処理しているだけではないんじゃないかと式谷は思う。たぶん、まだ疑問があるのだ。でも、『その概念に関係することを知らない』というだけでも、こっちに情報を渡したくなくて、自分から言葉を発するのを渋っている。

 だから式谷は、さらに続ける。

「僕ら人間は大人と子どもがいて、子どもは段々成長して大人になってく。大体寿命は八十年……季節が八十回巡るくらいで、小学校には六年目に入る。十二年目で出て、十三年目に中学校」

 あとは順番に、淡々と数えるように。

 大人になったって言われるのは十八歳になってから。だから、中学校だと大体みんな子ども。そんな感じ。

「まあだから、君が心配してるようなことは起こらないと思うよ。子どもなんて、どうせ何にもできないし」

「大人が関わればどうだ」

「そんなのあの子次第だよ。一応言っておくけど、子どもが突然『首長竜になる今まで見たことのない生き物と会った』なんて大人に言ったって、『何馬鹿なこと言ってんの』って片付けられて終わりだよ」

 猫は、何も答えない。

 ただじっと、こっちを見つめてきている。これ以上何を話したって言い訳っぽくなるだけだろう。そう思うから、式谷もそれ以上を話すのはやめた。やるべきことは全て終わり。これ以上自分ができることは何もない。背もたれに寄りかかる。瞳を閉じる。

 風が吹いていた。

 何だかそれで、全てが終わってしまったような気になって。

 次はどこへ行こう、と思う。


 どこへだって行っていいんだ。

 どこにも行っちゃいけないんだから。


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