花束の代わりに ③
どうせもう後は捕まるだけだ、と思えば行動はどんどん大胆になっていった。
濡れた紙幣は、アスファルトの上にしばらく置いておいたら精度の良いニセ札に見えるくらいには元に戻った。たぶん、と式谷は思う。たくさん入れておいたのがかえってよかったのかもしれない。これが一枚きりの千円札なんかだったりしたらもうビリビリに破けていたかもしれないけれど、薊原にカジノに連れて行ってもらって、その日から入れっぱなしにしていた一万円札の束は、少なくとも数枚くらいは自販機に通しても大丈夫そうな仕上がりだった。
お腹が減っていたから、最初はファミレスに行こうと思った。
現在位置がどこなのかわからなかった。端末はあれからずっと見ていない。見れば、悪い報せがそこにあるような気がしていたから。公衆電話を出てから闇雲に走って行った先は、見知らぬ街でも何でもない。野山から這い出した草木が道路を覆うような、猫も兎もキョンも我が物顔でそこらを闊歩しているような、自分の生きていた頃から何百年も経ってしまったような住宅街。その間を縫うように歩いた。荒れ果てた田畑と道の区別はほとんど付かない。それが道なのかもわからないような場所を、ただぼんやり、そっちに何かがあるはずだと信じて、強い日差しの中に髪の毛を熱くして進んでいった。
何となく、旧二々ヶ浜町と似たような雰囲気のある場所で。
いつかは自分の町もこうなって行くのだろうな、と思った。たぶん、自分がそれを見ることは叶わないのだけど。
だから林道に出てからは、指針を決めやすくなった。地元と同じだ。林の間に、それなりに舗装された道を見つければそれがそのまま道標になる。二度三度、目に映る景色が寂しくなっていく方に進んでしまえば引き返して、ときどきはバス停を見つけて、その掠れ切って読めない数字に落胆したり、あと十分で来るはず、と思った場所で三十分も待ちぼうけを食らって諦めたり。そういうのを繰り返して結局、先にホームセンターの大きな看板が見えた。向かって歩いていくと、どう見ても営業していない。だだっ広い駐車場のところどころに壊れたショッピングカートが投げ捨てられていて、どういうわけなのかテレビとかベッドとか、そんなのまで打ち棄てられている。ウインドウから中を覗き込むと、マネキンが二体寄り添って立っていて、その後ろでは天井が崩れ落ちていた。ゾンビ映画、とまた言葉が浮かんでくる。ゾンビがいてくれたら、と思った。やることがハッキリしていて、その分ずっと楽なのに。
結局、ファミレスなんてどこにもない。
そのまま歩いて行った先でベンチが壊れていないバス停を見つけたら、そこに書かれた一日三本の時刻表を信じて、ほとんど色褪せて目がどこにあるのかもわからないような選挙ポスターと一緒に、朝の八時を待つことにする。
果たして、バスは来た。
電光掲示には、『雲流駅行き』とある。全然知らない地名で、何だかお寺みたいな名前の駅だな、と思いながら、とりあえず乗り込んだ。
それからは気の遠くなるような道のりで、随分自分は適当に歩いてきたらしいということがわかった。両親と二人でいたあのラーメン屋の商店街なんか、もしかしたら夢に見ただけだったのかもしれない。車窓から見えるのはとにかく田畑と草ばかり。風になびいて、この景色がどこまでも続いていくのかと思う。どこにも着かないでくれればいいのに、とも思う。
願いなんて一つも叶わないから、そのうち終点に着いた。
雲流駅、なんて仰々しい名前には似つかわしくない、こじんまりとした駅だった。そのまま空に続く道だってありそうな名前なのに、改札口も出口も一つしかないし、バスの他には車の一つも止まっていない。一応駅舎の中にも入ってみたけれど、駅員だって一人も見つからなかった。券売機と自動改札、電光掲示板だけが百年も未来から来たみたいに新しく見えて、そこにはこう書かれている。次の電車は二時間後。二々ヶ浜でも一時間に一本は来るのに、とちょっと驚いた。田舎だ田舎だと思っていたけれど、あそこはあそこでちょっとした都会だったのかもしれない。離れてから、そんなことを思う。
駅周りにはほとんど何もなかったけれど、民家みたいなところの前に小さく看板が出ていた。『今日の日替わり 煮込みハンバーグ』本当に民家みたいなところで、というかどう見ても民家にしか見えなくて、そこそこ躊躇ったけれど扉を開けて中を覗き込む。訊ねる。すみません、やってますか。
まだやってないけど、入っていいよー。
そう言われたから、やってないのに入って行った。
外から見ると民家みたいなところだったけれど、中に入ると普通にお店っぽいところだった。椅子と机が並んでいるし、メニュー表が壁に貼られている。じゃらじゃらした暖簾の向こうからおばさんがやって来て、あら珍しい若いこと、と言いながら冷たい麦茶の入ったコップと、冷たい麦茶の入ったピッチャーをドン、とテーブルの上に置いてくる。自動的に式谷はそこに座ることになる。
注文する前に、そこそこ話をした。開店準備はいいのかな、と思ったけれど、朝の早い方の時間だったし、そもそもこういう立地のところだからそんなに客の来る想定もしていないのかもしれない。このへんの子じゃないよね、と訊かれたから、式谷はあらかじめ用意していた答えをすらすらと口にした。原付の免許取ったばっかでそのへんぶらぶらしてたんですけど、昨日の大雨でぶっ壊れちゃって。大雨? あれ、このへんじゃ降らなかったんですか、野宿してたら溺れるくらい降ってたんですけど、最近の天気ってわけわかんないですもんね。
どっから来たの、とちょっと探るような声で言われる。
二々ヶ浜、と答えるのが憚られたから、プラネタリウムのある街の名前を口にした。
そのせいで足なくなっちゃってめっちゃくちゃ歩いてようやく駅まで着いたんですよ。そしたら次の電車二時間後とか書いてあったからぶったまげちゃって。あ、もう注文してもいいですか。日替わり……あ、ラーメンと半チャー餃子もいいな。すごいメニュー豊富ですねここ。あ、時間かかる? うーん……じゃあ、やっぱり日替わりで。ところでここの駅ってローカル線ですよね。上りの終点まで行けばローカルじゃないやつ……何て言えばいいんだろ。そういうとこと接続ありますよね?
煮込みハンバーグは、たぶん自分が作った方が美味しいんだろうな、というくらいだった。
会計を終えると、お釣りを渡すついでに肩を叩かれた。外は暑いから電車が来るまでここで待ってな、と食べ終えてからもしばらく引き留められて、怪しまれないようにその場その場で嘘を吐き続けていたら、いつの間にかこの原付の壊れて彷徨い歩く旅人は中学卒業後にとりあえずファミレスに就職してみたはいいものの新店長の凄まじいパワハラぶりで職場が崩壊、同じ仕事をしているというだけの縁で付き合っていた先輩とも徐々に疎遠になって連絡を返してもらえなくなり、一度思い切り気持ちを入れ替えるためにと出発した原付の旅でも散々な目に遭って、それでも気丈に振る舞っている可哀想な若い子、という妙なディテールがくっついてしまっていた。店主は言った。生きてりゃそのうちいいことあるから、何ならうちで働くか? 儲かってないから給料全然出せないけど!
それもよかったな、と思いながら、頑張ります、とだけ言ってその場を後にする。
十五分後、電車が来る。
上りの電車に揺られて四十分。そこそこ大きな駅に着く。何となく改札を抜けていくと、何となく街がある。いかにもな地方都市で、地方都市の例に洩れずに衰退を始めている。かろうじて駅ビル自体は残っているけれど、人通りがあるのは昼前の地下のスーパーマーケットだけ。改札を出てすぐのフードコートは半分くらいの店が撤退していて、明日になれば残ったもう半分もどこかへ行ってしまいそうで、うどんを食べてる家族連れが二組と、ハンバーガーを食べてるお爺さんが一人だけ。最上階の本屋にはビジネス本ばかりが置いてあって、四階の半分くらいはだだっ広い空き地になっていて、三階のカードショップには値札ばかりが貼られていて、二階の携帯ショップではそんな閑散振りを無視して最新機種の素晴らしい技術を紹介するCMが延々流れ続けている。バスターミナルへ続くエスカレータの前には『現在故障中 階段をお使いください』の看板が文字が掠れてしまうくらい長い間置かれていて、駅前の街路樹は誰も手入れしていないのか道にまで根が生えて人を迂回させていて、少し見上げれば鳥が飛び回って、タクシー乗り場の黒い車体はカブトムシみたいに輝いて、ときどきパチンコ屋の自動ドアが開いて想像を絶するような音を通りに響かせる。
交番の前を横切って、映画館を探す。
なかった。仕方ないからゲームショップに入る。据え置きの最新ゲームは無視して、中古の古いゲーム売り場に行く。ワンコイン、と書かれたワゴンをじっと見つめる。それを遊ぶための携帯ゲーム機の値段とにらめっこして、結局外に出る。パチンコ屋に一度入ってみて、いくら何でも音がすごすぎてすぐに出る。カラオケ屋に入る。時計を見ながら伝える。二時間。ドリンクバー付き。
ドリンクバーでアイスを十杯食べて、メロンソーダとコーラを混ぜたやつを三杯飲んだ。
別に大して歌いたい曲があるわけじゃなかったから、前の人の残した履歴を順番に流していた。ソファの上に寝っ転がって、気分が向いたら歌った。飽きてきたらそのまま二十曲くらい『生演奏』の文字が付いているやつを入れていって、そのまま寝た。電話が鳴って起きた。ポテト頼めばよかった、と思いながら延長なしで外に出た。
ちょっと寝たらちょっと元気になって、そのまま街を歩き回った。別に、どうってことはない街だった。明日なくなってもこの街以外に住んでいる人は誰も困らないだろうな、という街。それでいて、明日なくなったらこの街に住んでいる人はものすごく困るんだろうな、という街。ずうっと歩いていくとやたら広い公営コンサートホールがあって、回転ドアのエントランスなんてすごくお洒落なものが付いているのに外壁を蔦が覆っていて、すごく大きな未来のお化け屋敷みたいだった。見かける飲食店の全部に入って一番高いメニューを一個ずつ頼んでいきたいな、と思いながら歩く。結局入った先はハンバーガーチェーンで、今度こそポテトを頼んで持ち帰る。紙袋の中に手を突っ込みながら歩いていくと国道が見える。ファミレスをようやく見つけた。サイクリングショップも、バイクショップも。自転車に乗った高校生とすれ違う。その背中を追うように歩いていくと、見知らぬ高校に辿り着く。カキーン、と金属バットがボールを弾くマンガみたいな快音。そういえば、と思った。甲子園って、どこが勝ったんだろう。
高校生のふりをして、学校の中まで入ってみようかと思った。
でもやめた。
やっぱりそれは、自分には関係のない場所だから。
来た道を真っ直ぐ戻るのも味気なくて、デタラメな道を歩いた。国道を逸れたらもう自分がどのあたりにいるのかなんてわけがわからなくなって、何となく見かけた自転車とか車とか、そういうのの後を追っていくばかり。どんどん日差しは強くなってきて、自販機でスポーツドリンクを買った。時刻は午後三時過ぎ。ファミレスに入りたくなって、でも途中で買ったポテトの袋をどこに捨てたらいいかわからなくて、仕方ないからずっとそのまま歩いていった。余計なものを考えなしに手に取ってしまうと、身動きが取れなくなっていく。よくあること。道端にゴミが捨ててあるのを見て、それなら自分一人が捨てたくらいじゃ何も変わらないよな、と思う。変わらないから、捨てずに進む。結局、買った店の前を通りがかるそのときまでずっと持っていた。捨てる。そんなに広い街じゃないんだな、と思う。
駅に着く。
立ち食いそばなんて初めて食べて、よりにもよってあったかい海老天そばなんて食べたからもうクラクラするくらいで、アイスの自販機でレモンソーダを買って、食べ終えて、ゴミを捨てて、スポーツドリンクをもう一本買って、これもまた後で捨てるところに困りそうだと思ったからその場で飲み切って、トイレに行って、でも水分補給って小まめにしないといけないって前に母さんが言ってたよなと思い出して、またもう一本買って、汗がすごくて、駅中の売店で制汗シートを買って、使って、捨てて。
ホームに降りる。
ローカル線の、下りの電車を待っている。
来た道は、真っ直ぐ戻れないから。




