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知らない町 ④


 泊まっていけ、と大浜の爺さんが言ったとき、まさかそれが自分にも掛けられた言葉だとは薊原は夢にも思わなかった。

「あー……風呂、全員貰いました。すんません」

「おーぅ。さっぱりしただろ」

「……ぅす。あの、洗剤ってどこにありますか。場所だけ教えてもらえれば、こっちで洗っておくんで」

 いいんだよそんなの気にすんな、と大浜の爺さんは言うが、そうもいかない。いやそんな、と粘ると、風呂入ってすぐにそんなんやったら汗かくだろ、明日でいいんだよ明日で、明日やれることは明日やりゃいいんだ。そんなことを言って大浜の爺さんは、綺麗なジョッキに入ったビールを煽る。口元に真っ白な髭ができる。もう結構な量を飲んでいるらしく、耳まで赤い。

 大浜家のリビングだ。

 ついこの間までは娘が帰ってきていたというけれど、今はもういないらしい。自分たちが泊まる方はエアコンの存在が奇妙に浮き上がって見える広い和室だけれど、こっちにはソファと脚の長いテーブルがある。それほどリフォームして間も置いてなさそうな洋室。いかにもな生活空間で、流石にちょっと気後れする。テレビが点いていて、衛星放送か何かなのか、今時珍しいちょんまげの侍の時代劇が流れている。

 こんな広い家に、一人なのか。

 そういう気持ちが、薊原にもないではなかった。

 自分も大して変わらないような生活を送ってきたつもりだけど、一軒家とマンションとでは、老人と子どもでは、かなり印象が違う。そんなことを、ぼんやりと思った。

「少年、イケる口か?」

 一瞬、言われたことの意味を捉え損ねた。

 こういう世代の人間と話す機会なんてほとんどなかったから。それで、そもそもそういうことを訊かれることだってなかったから。

「……まあ。そこそこ」

「おっしゃ。そんならそこ座れ」

 おいおいマジかよ、と慄いた。

 カッコつけなければよかったかもしれない。水族館組とか公民館組の中でも夜に家に帰るのが難しい奴ら、かつ友達の家に泊まるのも難しい奴ら。そういう奴らが大浜の誘いに乗ってこの家に来た。花野と洪は帰る家があって、岩崎は花野の家に泊まることになって、そうなると必然、普段からまとめ役を買って出ている奴がいなくなる。仕方ねえからここはオレが、と半ば義務感で大浜との連絡役を買って出た。

 が、気まずいものは気まずい。

 いまだに痣が顔に残ってしまっているのは、老人の怪我の治りの遅さだけが由来のものでもあるまいと思うから。

 そしてその深めの怪我の元になったのは自分の親なのではないかと問われたら、多分そうだとしか言えないから。

 大浜がキッチンの方に回っていく。冷蔵庫を開ける音。コップを取る音。液体を注ぐ音。戻ってきて、ほれ、とコップをテーブルの上に置かれる。こうなるともう、座るしかない。

 誰が使う椅子だったのだろう。テーブルには椅子が四脚。そのうち二つは空調服だの薬箱だのの置き場所にされているから、必然的に座る場所は一つ。大浜の対面。よっこら、といかにも爺臭い掛け声とともに大浜が座る。っす、と自分でも何が何だかわからない声を上げて、薊原も腰を下ろす。そこそこと言ってもそんなに強いわけでもなければ、そもそもそんなに好きというわけでもない。付き合いで飲む程度。

 とんでもねえ大酒飲みだったらどうするか。

 コップを手に取る。

 乾杯。

 考えるよりも先に、とりあえず思い切りコップを傾けた。

「…………?」

「どうせそんなに酒ぁ好きじゃねえんだろ」

 全然、それらしい味がしなかった。

 怪訝な顔になって薊原は手元のコップを見る。一気に底まで乾かすつもりだったけれど、途中で止めたから半分くらい残っている。果物の匂いがしたから、最初は日本酒か果実酒なのだろうと思った。が、口に含んで胃に押し込めても、あのアルコール特有のぐらっと来る感じがない。薊原は正直なところ、あれが全然好きではない。酒に酔うことができるというのは一種の特権だと思っている。自分から判断能力を落として、弱くなるための行為。どれだけ周囲に対して無防備でいられれば、信頼が置ければ、そんなことを好き好んでできるのか。

 大浜は赤ら顔で笑って、ジョッキをぐらぐらと手の中で揺らしている。

「付き合いで飲む酒より不味いもんはねえぞ。好きじゃねえならやめとけ。若いうちは特にな」

 オレみたいに馬鹿になっちまうからよ、と豪快に笑う。

 なんだそりゃ、と困惑よりも呆れが先に来た。

「なんすかこれ」

「知らん。燈子が――娘が置いてった。あいつ酒ぁ飲まねえからな。反面教師だ、反面教師。で、どうだ。美味いか」

「美味いっす。かなり」

「何味だ」

 口を付ける。口の中にちょっとだけ溜める。もう一度口を付ける。また口の中に溜める。

 飲み込む。

「わかんねっす」

 だはは、酔いが回ってらあ。

 大浜はジョッキの残りをぐい、と飲み干すと、また立ち上がった。ふらふらとした足取りでキッチンに向かう。おいおい大丈夫かよ爺さん、と薊原はその背を見送る。それから、この隙にとポケットから端末を取り出してメッセージを打っておく。新貝宛て。ちょい話してる、心配なし。こいつの既読は早い。ちまちま端末を弄ってる奴だと思われると悪印象だろうから、返信を待たずにまたポケットに端末を押し込む。ばたん、と冷蔵庫が閉まる音がする。大浜がまたふらふら戻ってくる。

 だん。

 どん!

 でっけえのが二つ出てきた。

 片方はそんなに大したインパクトのあるものじゃない。麦茶を作る二リットルのポットみたいなやつ――自分の家で見たことはなくて式谷の家で見たのが最初だけど――に、透明な液体が入っている。自分が今飲んでいるのと同じやつだろう。たぶん爺さんの娘が看病に戻ってきたときに、何かを作り置きしていったのだ。何なのかはさっぱりわからないが。

 もう片方がすごい。

 いかにもな一升瓶。

 おいおい大丈夫かよ爺さん、ともう一度薊原は思う。

 知らねえぞ、泡吹いてぶっ倒れたって。さり気なく一升瓶を手に取って杯に注ごうとすると、うるさそうにしっしっ、と手で払われた。オレは目下の奴にそういうしゃらくせえことをさせんのがでえ嫌えなんだ。いかにも長年そうしてきたような堂に入った動きで爺さんが手酌で酒を注ぐ。ぐい、と一口で乾かす。目が据わり始めているにもかかわらず、間髪入れずにもう一杯。とぽとぽと、

「で、どうなんだ」

「は?」

「将来どうするとか、そういうことはもう考えてんのか。中学三年生」

 酔っ払いというのは、とにかく遠い過去か未来の話ばかりする。

 どういう仕組みなのかはわからないが、いつもそうだった。酒が入ると大体どいつもこいつもこうなっていく。薊原はそのことを知っている。バーで出くわす奴らはわざわざ「ここは華やかなところだ」と思っているらしい場所までノコノコ出てきては小学校の頃の楽しかった思い出の話ばかりしているし、酔いが回ってきて夜が更けていくと「オレらこれからどうなんだろうな」と涙を浮かべ出す。本当にどいつもこいつもこんなもんで、夜の間に家まで帰れれば次の朝は二日酔いに悩まされるくらいで済んでいるのだろうけど、朝方まで居座ってしまうと悲惨だ。バーの扉を開けた先にある朝日を見るや、一晩たっぷり抱え込んだセンチメンタルがどろどろに溶け出してしまう。殺してくれ、なんて叫び出して道端で泣き出すくらいなら可愛いもので、可愛くないやつは本当に可愛くない。ろくなことにならないし、そういうやつが道端でゲロ吐いて死にかけてるのをカンカン照りの朝陽の下で引きずり回しているとき薊原はああ世界ってやつは本当に美しいなあさっさとなくなっちまえこんなもんなんてことを思う。

 頼むから、いい年こいてんだからそういう酔い方はしてくれるなよな。

 恐る恐る、コップに口を付けながら答える。

「いや、全然す」

「何もか」

「何も」

 かぁーっ、と大浜は言った。

 ちび、と今度は表面を舐める程度に留めながら、

「最近の子どもは夢がねえなあ! オレぁの頃なんかよぉ……」

「あったんすか」

「そりゃあもう……」

 へえ、と頷きながら薊原はわざとらしくない程度に笑みを浮かべる。ありもしない将来の話なんかを出されて説教されるくらいなら、爺さんの昔話を聞いていた方がまだマシだ。それに実のところ、この爺さんの過去にはちょっとばっかし興味がないでもない。このあたりの政治家のことは一通りプロフィールくらいは知っているつもりだけど、この爺さんと来たら経歴のところに珍しく横文字の地名なんかが入っていて――

「――まあ、昔とは違うわなあ」

 ぴた、と大浜の視線がテーブルの一点に収まった。

「こう、なんだ。世の中が上り調子なら今がどんだけ辛くてもようし一丁頑張ってみっか、なんてことも思えたわけだけどよ」

 大浜の指が、テーブルの水滴を拾う。つう、とそれが一本の線を引く。たぶん大浜の目から見れば右上がりで、自分の目から見れば左下がりに動く線。

「少子高齢化だの過疎化だの格差だの……。どんどん悪くなってんのを見てりゃ、夢だの希望だの馬鹿らしくなっちまうわな」

「……はあ」

「今の子らは何が楽しくて生きてんだ?」

 相当酔いが回っているのか、それとも元から相当失礼なジジイなのか。

 後者だった場合は椅子を蹴倒して爺さんを眠らせることも考慮に入れつつ、前者だとしても酔いが回って失礼になる前に止めるくらいのことは長い人生の末に学んどけよと思いつつ、そういうのが表に出ないように気持ちを押し殺しつつ、薊原は質問に答えようとする。

 何が楽しくて生きてんだ。

 何も?

 自分で自分の答えに、躓きそうになった。

「普段友達と何してんだ? ゲームとか、そういうのか」

 が、別にそこまで深刻な問い掛けではなかったらしい。

 中高年にありがちな「今の子の間では何が流行ってんの?」式の質問らしかった。真面目に考えて損した。そう思いながら薊原は「そうっすねえ、」と間を保たせつつ考える。何して遊んでるか。音楽を聴く――のは最近イヤホンを外しっぱなしだからちょっと違う気がする。スロット――も、こっちに来てからは全然やっていないし、そもそも流行っているというかハマり込まされていると言った方が近い。一緒に飯を食う、もそんなにおかしくはないかもしれないが、学校での生活を考えると外食的なものよりも給食的なものの方が浮かぶわけで、それを友達とすることの範疇に入れるのもいかがなものかと思う。映画、も最近は全然行ってないし。動画も観ないことはないが友達とすることなのかと言われれば若干の疑問符が付くし、かと言ってダベってますなんていうのも全く中身のない答えな気がして、

「……まあ。何をってわけじゃないすけど、」

 かろうじて浮かぶ。

 雨の日の、あの夜のこと。

「肝試しみたいなのはこの間、しました」

「――ほお!」

「いやまあ、全然そんな、本格的なやつじゃないんすけど」

 大浜がテーブルの上に肘を付いている。身を乗り出している。話せということだろうから、それに乗っかってやることにする。もちろんウミがどうとかそういう話はできないわけだから、色んなところを省いて。夜中に停電があって何人かでブレーカーを上げに行ったんだけどその間に教室の方では物音がするって大騒ぎになってて――

「で?」

「猫でした。迷い込んでたらしくて」

 うわっはっは、と何が面白いのか反り返るくらいに大浜は笑った。

 完全に出来上がっている。酔っ払いの笑いだ。ねこ、猫か。うわはは、と腹から笑う。目に涙が溜まっている。大騒ぎして猫一匹か。

 んだよ、と薊原は思っている。

 そんなら学校のプールに出る首長竜の話でもしてやろうか。実物見たら一発で腰抜かして魂まで抜けちまうぞ爺さん、と思っている。

「オレもよ、そこの――二々ヶ浜小学校の出なんだけど」

 そんなことは露知らずで、笑いを収めた大浜は言う。

「夜中に忍び込んだことがあんだわ。七不思議があるからそれを確かめようって話になって、悪ガキ何人かでつるんで」

「あ、そうなんすか」

「おお。もうウン十年も前の話だけどよ」

 そうなんすか、と薊原が口にした対象は、別に大浜の爺さんがガキの頃に夜中の学校に忍び込んだ方ではない。別にそんなのもう珍しいことじゃないから。そうじゃなくて、七不思議の方。てっきり千賀上絽奈の大暴走で二々ヶ浜小学校の七不思議の全てが作られたんだと思っていたけれど、そんなことはないらしい。当たり前の話といえば当たり前の話なのだけれど。

 しかし、

「大昔のことだから七不思議の中身も覚えてねえんだけど。なんつったかな。確か夜な夜な石膏像が泣いてるとか……」

「――え、」

「お?」

 そこから先は驚いた。

「なんだ、どうした」

「あ、いや。その話、二々小の奴から聞いたことあって……」

 ほお、と大浜は、とろんとした目付きで頷いた。それほどこの爺さんが眠りに就くまでの時間も長くはあるまいと薊原は思う。

「受け継がれてんだなあ、何でも。オレらが忘れた頃になっても」

 そういう話なのだろうか。 

 転校してきたばかりだったろう千賀上がそんなことまで知っていたとは考えづらい。考えづらいだけで実際はそういう伝統的なやつを一つくらい自分の怪談コレクションの中に混ぜ込んでいたのか。それとも偶然の一致なのか。あるいは馬鹿げた話だけれど、実際に石膏像が夜な夜な泣き叫んでいて――いやいやそんなわけはない。恐らく二々ヶ浜小学校にあるのは、そのまま魔除けの御守りにも使えるようなよっぽど不気味な石膏像なのだろう。

 なんて、考えていると、

「――あんときは、楽しかったなあ」

 すっかり大浜は、遠い目になっていた。

 思い出に浸るような顔。ここじゃないどこかに思いを馳せる姿。酒を飲んでいる途中では、不思議と何も話さない方がいい時間というものが訪れる。そのくらいのことはわかっているから、黙って薊原はコップを傾ける。弛緩した空気。ずっと真っ直ぐに伸ばしていた背を、椅子の背もたれにつける。薄い感触。誰かが使っていなければここまでクッションは薄くならない。誰かが使っていたから、そのためにこの椅子だけが物置にされなかったのかもしれない。

 夜でも明るい、クーラーの効いた涼しい部屋。

 他の奴らはどうしてんだろうな。

 一瞬だけ、そう思った。

「しんぱい、すんらぁ」

 すっかり呂律の回らなくなった口で大浜は言った。

 杯の中にはまだ七割ほどが残っている。それに口を付ける。ず、と一瞬間をおいて、ぐい、と大浜は仰け反る。仰け反るを通り越してふんぞり返るような、椅子ごと後ろにひっくり返るんじゃないかと心配になるような動き。綺麗に飲み干したらしく、かん、とテーブルの上に置かれた杯からは水滴の一つも飛ばない。

 しかし、大浜は仰け反ったまま動くことはなくて、

「かっほうらんか、いっふれも、おえああ……」

 そう言って、目を閉じた。

 目を閉じるなよ、と思った。

「あの、ちょっと」

 コップを置く。椅子を立つ。回り込む。力を失くした大浜の肩を揺する。死んでんじゃねえだろうな、なんて心配は必要ない。ずぅー、ずぅー、と面白いくらいにいびきをかき始めているし、おまけに触れた手が不快になるくらい体温が高い。口が開いている。乾くだろうと思って顎を押すと、しかしだらん、と力なくまた落ちる。

 完全に出来上がって、酔いが回って、寝落ちした。

 それだけ。

 それだけなのだけど、そんなことをされたら困る。

「椅子の上危ないっすよ。寝んなら布団まで――」

 ずぅー、ずぅー。

 ふごっ。

 絶対起きねえんだろうな、とこんなに綺麗に諦めが付くことも珍しい。

 よくもまあ、と薊原は思った。こんなに無防備に寝られるもんだ。元とは言え市議だか町議だかをやっていて私設水族館なんて持っているくらいだから、さぞかし蓄えはあるのだろう。そこに得体の知れないどこの馬の骨ともわからないようなガキどもをさんざっぱら夜中に招き入れておいて、自分は酔ってお眠とは凄まじい肝っ玉の太さだ。無警戒とか不用心とか言い換えたって構わない。一体自分たちの中に一人くらい手癖の悪い奴が紛れていたらどうするつもりなのか。そもそも自分が政敵のとこのガキだってことなんか酒を飲んでるうちに忘れてしまったのか。家探しされて国民番号の暗証番号なんかを抜かれて全財産持っていかれたなんて言ったって、この国じゃ誰もジジイに同情なんかしてくれやしないってのに。

 してくれやしないってのに。

 この爺さんはさっき、何と言いかけたのだろう。

 肩を揺する手を、薊原は止めた。

 ぼんやりと部屋の中を眺める。テレビの前のソファに薄い毛布が引っかかっているのを見つけた。近付く。手に取る。広げようとして、止まる。じっ、と時計の秒針が動くのに任せる。

 やっぱり、と思い直した。

 リビングを出る。他の――主に一年の奴らが泊まっている和室の方に向かう。地元の爺さんが家に泊めてくれるなんて言い出したときに手を挙げられるタイプで、一番居場所がないのは一年だ。二年三年のそういう奴らはとっくに街の方に出ているし、そうでなければ困ったときに家に泊めてもらえるような親しい友達を作り終えているから。どっちつかずの時間。居場所のない時間。そういう時間を過ごさざるを得ない奴らは、確かにいる。

 その中でも、まあまあ肝が太くてコキ使ってもそんなに心の痛まない奴はいて、

「おい新貝」

「うお、なんすか。酒くさ」

 障子戸を開けると、全くこっちの心配なんかしていなかったらしい。他の数人が「帰ってきた」なんて顔でほっとする一方で、新貝は防虫剤の匂いがぷんぷんする客用布団の上で途轍もなくリラックスした感じで端末を弄っていた。

 身体を起こして、こっちを見る。

「え、何々何。飲んでんすか。お誘いすか。俺そういうの――」

「ちげーよ。爺さんが椅子に座りっぱで寝落ちしたから、運ぶの手伝え。でけーからオレ一人じゃ無理なんだよ」

 えぇ、と新貝は一度言う。

 まあいいすけど、と言って立ち上がる。まあいいなら最初の「えぇ」は要らねえだろ、と背中を小突く。こっちの先輩は心が狭い、と新貝が口を尖らせる。それは向こうのが甘っちょろいだけだろ、と言ってやれば、俺は甘い方がいいっす、とさらに口答えする。

 それはそうだ、と薊原も思うけれど、

「つべこべ言うな。おら、ついてこい」

「オラオラ系だな~……。いいすけど」

 酒ありますか酒、と新貝が言う。

 お前それ以上馬鹿になってどうするつもりなんだよ、と言ってやれば、可愛い後輩に向かって酷すぎる、と大袈裟に仰け反る。カンバーック式ちゃん先輩、なんて言って新貝は祈りのポーズをする。ばーかお前式谷が戻ってきてたってあいつは家に帰るか千賀上の家に泊まるかしてんだからここにはいねーよ。

 言ってから、思った。

 本当に、あいつならそうするだろうか。

「運ぶって寝室の方っすよね。場所どこすか?」

 思考はすぐに断ち切られる。目の前に問題があると、そっちを解決するのに使わなくちゃならなくなるから。けれどぼんやりと思考の痕跡だけは続いていて、だから自然と薊原はこう考える。普通は寝室に運ぶ。でも、式谷なら?

「……いや、オレらの方に運ぶ」

「え、なんですか」

「寝ゲロして死んだら仕方ねーだろ」

 なんすかそれ、寝ながらゲロ吐いたら死ぬんすか。

 そうだよ、気を付けろ。そう答えながら薊原は同時に、こんなことも考えている。

 でもあいつなら、なんて思うような相手。そいつのしそうなことはわかるけど、してほしそうなことは何も知らねえな、と。

 訊けなくなってから、そんなことばかりを。

 ぼおん、と冗談みたいな音を立てて時計が鳴る。

 夜の十時。



 間違えた。

 どう言い繕っても多分、自分がここにいて、こうしている理由はただそれだけだったのだろうと思う。

 走っている。暗闇の中で、スニーカーを濡らすだけじゃない。アーケードなんかが守ってくれたりしない。ずぶ濡れになりながら、ただ真っ直ぐに走っている。真っ直ぐに走れているかわからない。街灯なんか一個もない。目の前がアスファルトなのだかも、それとも他のものなのだかも、何の自信もない。振り向くと赤いランプが見える。耳をつんざくような音がしている。空の雲にそれが当たって、跳ね返って、馬鹿みたいな音量で全身を引き裂いてくる。目の前に地面が続いているかどうかすらもわからない。次の一歩がどこを踏むかもわからない。びしょびしょになったシャツがものすごく冷たい。いくら走っても体温が上がらない。鳥肌が立っているのが見なくてもわかって、身体が震えていて、このまま凍えて死ぬんじゃないかと思う。

 凍えて死ぬくらいなら、まだマシで。

 永遠に死ねないんじゃないか、と思いながら式谷湊は走っている。

 どんどんと明かりは遠ざかっている。シャッター街もラーメン屋も遠ざかっていく。必然、あそこに寝ていた二人も。もう戻れない。もう二度と会えない気がする。海の真ん中の暗いところに急に落とされたような気分。走るしかないけれど、走れば走った分だけ戻れなくなって、走った先に何があるのかなんて全然わからない。誰もいない。この先にも、この後ろにも、隣にも、誰もいない。怖い。怖いのに、その怖さを引き延ばすためだけに走っている。誰かに連絡したかった。誰にもできなかった。何の目的もない。何の未来もない。取り返したいものはどうせもう返ってこない。生きてる理由なんか何もない。

 幽霊が立っていた。

 薄暗い灯りだった。どこのどういう場所に何の目的でそこに立っているのかさっぱりわからない。ぱちぱちと明滅する灯りが照らしているのを見る限り、ただの林の傍なんじゃないかと思う。周りに何もない。ただぽつんと、置き忘れられたように、撤去されるだけの値打ちもないというように、古い時代から取り残されて、その幽霊はそこに立っている。

 それを見て、思い出した。

 まだやれることが、一個だけ残っている。

 後ろを見た。まだ誰の陰もない。誰の灯りもない。降りしきる雨が足音を消してくれたのかもしれない。だったら朝になったらその雨が残した足跡を追ってくるかもしれない。今しかない。今やるしかない。今行っていいのかわからない。闇の中から突然手が生えてきて自分を押さえつけて背中から何百回も刺されて殺されるんじゃないかと思う。そこまではしないよなと思う気持ちとそのくらいのことくらいするに決まっているという恐怖がぶつかって、だけど何の意味もない。もう何を考えて何を思ったところでそんなの何も関係ない。

 扉に手をかけて、壊れるくらい勢いよく引っ張った。

 ポケットの中から財布を引っ張り出す。紙幣は濡れていて、もう使い物にならないんじゃないかと思う。小銭入れを開く。手が震える。じゃらじゃらと地面に取り落とす。もう関係ない。拾っている時間がない。何とか百円玉を引っ張り出して入れる。戻ってくる。使い方がよくわからない。説明文なんか探している時間が惜しい。受話器を取る。もう一度硬貨を入れる。これで正しいのかわからない。震える指でボタンを押す。

 空で覚えている電話番号は、四つだけ。


 夜の闇にぽつんと取り残された、公衆電話ボックスの中。

 雨とパトカーのサイレンに紛れて、ダイヤル音が響いている。


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