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知らない町 ③


 朝の七時から二時間くらい止んでいた雨は、それから少なくとも眠りに就くまではずっと降り続けていた。ん、と式谷は畳の上で薄く目を開ける。まだ暗い。夜。呼吸が苦しくなるほど蒸しているけれど、それでも二々ヶ浜の夜よりはずっと過ごしやすい。ずっと雨が降っているから。このまま雨が止まなければいいと思う。少なくとも、こうして眠れている間は誰にも見つかることはないから。この誰からも見捨てられた場所で、死ぬまでの時間を延ばすことができるから。

 延ばしたかったんだっけ。

 不安になったら、もう眠れなくなることはわかっていた。

 身体を起こす。ラーメン屋の二階。明かりを点けない八畳間。父と母は疲労が溜まっていたのだろう、昨日から信じられないほどぐっすり寝ている。ちょっとやそっとじゃ起きないことはわかっている。古くなった畳の上で、静かに式谷は起き上がる。

 窓があって、少しばかりの雨とともに湿気を帯びた風が吹き込んできている。

 畳の上に敷いた新聞紙が少し濡れて見えたから、部屋の手前から二枚を新たに取って、そこに重ねた。式谷家ではもう紙の新聞を取らなくなって随分と長いことが経つけれど、この家にはたんまりと残っていた。何かに使えるかもと残しておいてくれたのかもしれない。使えている。古い古い時代が、今は吹き込む雨を畳から守るために使われている。一枚捲るたび、文字はどんどんタイムスリップを始めて昔の景色を映し出した。自分が小学生をやっていた頃。まだそんなに未来に対して嫌な想像ばかりを並べ立てていなかった頃。少なくとも建前だけでも、綺麗事を言う人が残っていた頃。偉い人が何か酷いことをしたときに、酷い、と率直に非難する言葉が叫ばれていた頃。

 窓の向こうには、月も星も、IRの明かりもどこにもない、真っ暗な夜が広がっている。

 比較的涼しい、というのがこの土地の長所だったのだそうだ。

 クーラーがなくても命の危険を感じずに過ごせる、なんて時代も昔はあったらしい。特にこの土地はそれが売りで、海からそう遠くない場所は避暑地としての人気があって、けれど夏の気温があまりにも酷くなってその長所がなくなってしまった。二十六度と三十二度なら過ごしやすさも違うけれど、三十六度と四十度ならどっちにしろクーラーに当たらないとどうにもならない。そういうわけで需要を失ってゴーストタウンになったこの場所は、今のところ雨続きで、昔の涼しさをほんの少しの間だけ再演してくれている。

 雨が止んだら、どうなってしまうんだろう。

 父は言った。ここが第一候補で、ダメだったら山に登ろうと思ってた。ほら、標高の高いところって涼しいって言うだろ? 山の中なら湧き水とかもあるだろうし、動物だっているだろうし。いいところを見つければそこで自給自足しながら生きていけるかもしれないだろ、ハハハ……。母は言った。よかった、お父さんの秘密基地が取り壊されてなくて。

 電気もガスも、それどころか水道だって通っていないような場所だ。

 たとえ誰か違う人の名義でお金を払ったって、もう通らないかもしれない。古くなった水道管は取り換えられることなくそのまま残っているから。誰も来ないし、誰も管理していないし、誰も蘇らせようなんて思っていない。一応国の中にはあるけれど、一応としか言えない土地。

 忘れ去られた場所。

 だから、あの猫もこの場所に来たのだろうか。

 結局あの後、猫はふいとそっぽを向いて式谷の前から去って行ってしまった。待って、と追いかけようかと思ったけれど、フェンスの向こうだからすぐには追えない。ところどころが壊れてささくれ立ったフェンスは錆びていて、ちょっと怪我でもしたら傷口から何が入るかわかったものじゃない。母から言われている。怪我だけはするな。自分だって、手持ちの救急セットでできることには限りがあるから。立ち尽くす。

 そしてそれ以来、一度も見ていない。

 あの猫もまた、どこかに消えてしまったのだろうか。

 しとしとと雨は降り続いている。壊れた雨樋からとぽとぽと水の溢れる音。よく沈んでしまわないものだと思う。よく水が尽きないものだと思う。この土地で降った雨が川を流れ、海に着き、やがては二々ヶ浜に打ち寄せる。そんな未来を想像する。

 携帯端末に、視線が向いてしまう。

 散歩してこよう、と思った。

 足音を立てないように、畳の上に置いた端末を拾う。画面は点けない。そのままポケットにしまう。部屋の入り口に立てかけたホワイトボード。ほとんど掠れて消えかけた『おすすめ! 豚骨半チャー餃子付き』の文字は、消えかけているけれどまだ完全に消えてはいない。だからその下に小さく書き込む。『風に当たってきます』『すぐ戻る』あのおすすめメニューを消すか消さないかだって、きっとここに住んでいた誰かは葛藤したのだろう。

 廊下に出れば、髪の長い白装束の幽霊がいつ出てきたっておかしくない。

 真っ暗だった。廊下にはあまり窓がない。かと言って端末のライトを使って充電を浪費したくもないから、そのまま目が慣れるのを待つことにする。モバイルバッテリーの手回しはもう疲れた。ようやく自分の手のひらが見えるようになって、それからは早い。急な階段の手すりを掴まえて、やっぱり音を立てないようにゆっくり下っていく。昔、絽奈と観た動画を思い出す。ホラー系のシリーズを撮っている人たちが、廃墟に潜入していくやつ。正直途中からは「どうせ何も起こらないんだろうな」と察して絽奈の反応ばかり見ていたけれど、あれと何となく雰囲気は似ていると思う。古臭い生活の跡。崩れ落ちた神棚。観終わった絽奈は、こう言って締めた。幽霊とかそういうのよりも、後ろからいきなり不審者が襲い掛かってくるんじゃないかと思って怖かった。そうなったらこんな暢気に動画上げられないでしょ、と言うと、わかってるけど、と言って太ももをぺしぺし叩かれた。わかってるのに?

 一階、ラーメン屋。

 シャッターを閉め直したから、二階よりもなお暗い。

 ほとんどそのまま残されたキッチンに入る。光熱水が通ってたらここで楽しくラーメンを作れたりもしたのかな。そう思いながら壁を伝って、勝手口へ。手探りで壁のフックを探し当てて、鍵を取る。内鍵を開ける。

 扉を開く。

 それでも真っ暗な、八月の夜が広がっていた。

 勝手口の外には、少しだけ庇が続いている。そこから先で、ちょっとだけ駆け足。そうすれば商店街のアーケードが守ってくれる。最初にラーメン屋の表に立ったときはわからなかったけれど、一本奥に入ればもう少し太い通りがあったのだ。

 もちろん、人なんてどこにもいない。

 がらんとした通りには声なんか一つもなくて、ただ雨が天井を打つ音だけが聞こえてくる。大きな傘の下にいる気分。だけどときどき地面からも音は聞こえてくるから、アーケードはきっと完全じゃない。どこかには穴が開いている。水溜りに足を取られたり、うっかり雨漏りの下に入らないように気を付けなくちゃ。

 歩く。

 どこへ歩いているんだろう、と思いながら。

 ぼんやりと式谷は、将来のことを考える。将来なんてない。そんな風に話を終わらせてしまうことは簡単だけれど、まだ父と母の元に戻らないための言い訳が欲しかった。考える。

 ほとぼりが冷めたらなんて、きっとそんな日はいつまでも来ないのだろう。

 二人が口癖のように言うのだ。ほとぼりが冷めたら、もうちょっと美味しいものを食べに行こう。ゆっくり寝られる場所に行こう。クーラーをガンガンに効かせて一日中寝よう。葵も年末には帰ってくるだろうし、そうしたらパーッと何かしようか。

 それで、二々ヶ浜に帰ろう。

 そんな日は、多分もう、二度と来ない。

 誰が見ても明らかだった。たぶん、二人もわかってる。式谷にはそれがわかる。自分がわかっていることを、二人がわからないはずがない。わからないふりをしているのだ。自分のために。本当のことを言って、本当の未来について語って、自分が挫けたりしないように。希望を失わないように。

 死んでしまわないように。

 今更?

 ぺた、と靴の先に水の音がした。立ち止まる。目を凝らす。よく見れば地面の色が変わっている。ここが水溜り。そうじゃなければ何かの毒。大きく一歩を踏んで飛び越えようと思う。けれど飛び越えた先には雨が白い糸のように降っているのが見える。アーケードはここまで。立ち止まる。看板の出っ張った文字をかろうじて読む。『おそうざいのよしおか』読めたからって何もない。

 ここには何もないし。

 これから自分は、全てを失っていくのだと思う。

 誰に教えられなくても見ていればわかることだ。幸せな時間は、長くは続かない。今は良くても、やがてどんどん悪くなっていく。それを式谷に示してくれたのは、たとえばIRが出来て水面に月も星も見えなくなったことであるし、父が仕事を辞めざるを得なくなったことでもある。あるいは二々ヶ浜小学校で長い時間を共に過ごしたあの同級生たちが一人また一人と櫛の歯の抜けていくようにいなくなったことでもあって、だからわかる。どれだけ自分の過ごす場所を大切に思って守ろうとしたところで、常に外からの攻撃に身を晒され続けて、大きな力には抗えなくて、築いたはずの壁はいつかは崩れ去る。受け入れられた人間よりも去って行った人間の方が多くて、そのかつての友人たちは抜け出して行った大きな街の中であらゆる理不尽に晒される。その危機に居合わせることができれば偶然助けることもできるかもしれないけれど、大抵の場合、そうじゃない。薊原を連れて帰ることができたのなんて思いっ切り奇跡で、二度と同じことはできないと思う。もし何かの拍子にもう一度あの場所に戻ってしまったら、自分の子ども騙しの機転なんか簡単にいなされて、馬乗りにされて、顔をボコボコ殴られて歯なんか全部なくなって頭蓋骨が真ん中から割れて脳みそが飛び出してそれを下っ端がスニーカーで蹴飛ばすように寄せながら市の指定のゴミ袋に突っ込んで、生ごみの日にまとめて出されてそれで終わり。あの日はずっと、泣きそうなくらい怖かった。泣いていても何も変わらないから、泣かなかっただけだ。

 自分が何をどう大切に思っていたって、そんなの誰の気にも留められない。

 隕石でも落ちてくれればいいのに。

 明日なんて、来なければいいのに。

 ただ辛いことを重ね続けるのがこれからの人生なら、隕石なんかなくたって、今すぐこの場で死んでしまえれば楽なのに。

 アーケードの外を見た。

 暗闇の中でも、雨粒が地面に跳ねているのが見える。冷たいだろうか。冷たいだろう。夏だと言ったって、少しばかり涼しい夜の雨だ。濡れてしまえば体温は下がる。服は濡れそぼるし、そんな姿ではあの家の中にだって帰れない。畳を腐らせる。風邪だって引く。二人を困らせる。

 だから、自分を痛めつけたいと思ったところで、その向こうには飛び出さない。

 結局は、と式谷は思った。

 隕石なんて落ちてこない。どれだけ来て欲しくないと思っても明日は来る。ほとぼりが冷めることなんてないけれど、そのうち自分は警察に捕まって、バケツに顔でも突っ込まれてあることないこと言わされたりする。機密情報の漏洩だから未成年だけど特例で死刑とかそんなことが決まって、ちょっとだけ反対運動があって、頓挫して、みんなすぐに忘れる。父さんも母さんもお姉ちゃんも死んだから誰も墓なんか立てない。十年後とか、二十年後とか、そのくらいまで運良く生き残っていた二々ヶ浜中学校の子たちが同窓会に集まれば、ほんの三秒くらいは話の主役になれるかもしれない。

 ――ああ、

 ――そんな人もいたね。

 別に何も、不思議なことではないのだ。

 そういう風に世界は回ってきたはずだ。いなくなったらいなくなったで、何となく物事は動き続ける。自分がいなくなってもみんなは普通に学校に通う。ご飯を食べる。勉強をしたり、運動をしたりする。くだらない話をして笑う。ちょっとだけ寂しさを感じるかもしれないけれど、それだけ。自分では対処のできない悲しみからは、ゆっくりと目を逸らしていくしかない。

 そして自分も、他の子たちと同じようにするはずだ。

 どんなに嫌な未来がやって来ても、黙ってそれに対処していくしかない。終わるなら今がいい、なんて思ったところで人生は続く。辛いことも嫌なこともそのうち過去に置き去りになって、また新しい苦痛が目の前に現れる。いずれ忘れる、と言い聞かせる。いつかは良いことがある、なんて心のどこかでは考えている。だから生きる。悲しみを覆すだけの何かがいつか起こってくれると、何の根拠もないまま思っている。

 何も起こらないと気付いたときに、きっと自分は、選ぶのだろう。

 ほんの少しだけ、式谷は自分に問い掛けた。何かが起こると思ってる? いいえ。でも、足はそれ以上前には進まない。降りしきる雨をじっと眺めている。

 まだ、何かが足りていない。

 黙って踵を返す。


「――なぜ、仲間を呼ばない?」


 ちょうどそのとき。

 パトカーのサイレンが、耳に届く。


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