知らない町 ②
「あ、これよければ。うちの親から……」
とたとたと階段を下りていくと、玄関先で晶が何かを母に渡しているところを見た。晶ちゃん、と手を上げると、おいす、とこっちを見る。気にしなくていいのに、と母は言うけれど、笑みが隠せていない。大きな袋。形を見ればわかる。スイカだ。
ゆっくりしていきなね、と最終的には感情を隠し切れなくなった母がにこにこしながらリビングの方に戻っていく。どうも、と晶が頭を下げて、それからいかにも重たそうな学校指定のバッグを持ち上げる。半分持とうか、と言ってみる。どうやって。紐一本ずつ持つ。絶対そっちの方が手が痛くなるでしょ。知ってる、言ってみただけ。
階段を上りながら、
「スイカいいの? ほんとに気にしなくて大丈夫だよ。どうせ私も部屋のクーラー点けっぱだし。湊も九月の休みとかよく涼みに来てるし」
「ごめん、初回だけ。あれ貰ったやつなんだけど、うちあんまりスイカ食べる人いないから困ってて、そんな感じ」
「あれ。ダメなんだっけ、スイカ」
「前は妹がよく食べてたんだけど、一回食べ過ぎて腹壊してから急にダメ。お母さんもお父さんもそんなに水っぽいもの食べる人じゃないし、私も種ある果物そんな得意じゃないし」
ああ、と絽奈は頷く。大時計の隣を通り過ぎて階段へ。何だかんだ言って二階と一階の間を行き来しているんだから、家にいたってそれなりに運動していることになっているんじゃないだろうかと自分では思う。晶ちゃんって焼き魚も苦手だもんね。でも最近秋刀魚は克服した、骨の取り方覚えたから。え、すご。
部屋の戸を開けると、テレビの前にはウミが座っている。
ちら、とこっちを振り返った。
「あきら。おはよう」
「おはよ。お邪魔します。……何観てんの、それ」
「なんきょく」
ウミの言った通り、テレビの画面にはペンギンの群れが南極の雪原を歩く姿が映っている。いいの、と晶が訊いた。会話とか、そういうのが多いやつの方が言葉って覚えやすそうだけど。だから絽奈は答える。そうなんだけどなんか地上波って昨日の再放送みたいなやつしかやってないんだもん。ああ、と晶が頷いた。
「毎日、同じようなニュースしかやってないもんね」
晶がそっとバッグを置く。テーブルの奥側の方に回り込んで座る。開いて、中から本を取り出す。どうぞごゆっくり、と絽奈は言って自分はテーブルの手前側、いつもの定位置の方に。ウミの近くで、ちょっとひんやりする。けれどクーラーの風向きの問題もあるから、そんなに自分と晶で体感温度は変わらないだろう。さっきまでしていた作業の続き。パソコンの画面に向き直る。
そのとき、晶の持つ本の表紙が目に入った。
「高校数学?」
「ん? うん」
「買ったの?」
「いや、借りた。式谷がお姉さんが置いていってしばらく使う予定ないってやつ、他に使いたい人がいるなら貸していいよって許可取ってくれたから」
へえ、と絽奈は頷いた。ちょっと首を傾けて、まじまじとそれを見てみる。晶が本をちょっと立てて見やすくしてくれる。カバーのない、水色の分厚い本。中学校の教科書みたいに名前を書く欄がないから、誰のものかなんてわからない。でも、長くカバンに入れられていたもの特有の傷みがあって、随分ちゃんと使われていたんだろうとわかる。
「先取り?」
「……先取りっていうか……」
うーん、と晶が歯切れ悪く悩み始める。しまった、と絽奈は思う。最近の晶は高校に行くだの行かないだのをやっていて進路に悩み中らしい。折角前向きになったのかもしれないのだから、変に突いて混乱させない方がいいかもしれない。そう思うから、
「ごめんね、話しかけちゃって。集中、集中」
言えば、こっちが気を遣ったのを察してくれたらしかった。ん、と晶は頷く。お互いがお互いの作業に取り掛かる。晶はじっと水色の本を眺めていて、一方で絽奈はパソコンの画面を見つめながらときどきマウスホイールを回している。途中で気付いたから申し出た。タブレット今使ってないけど、ノートに使う? 晶はちょっと躊躇ってから、今は大丈夫だけど、手計算が必要になったら貸してもらえるとありがたいかも。オッケー。言って絽奈はタブレットを手に取る。ノートを開いていつでも渡せるようにしておく。いくら友達同士とはいえ、自分で勝手にホームからアプリを開いて……なんて手順をするのはちょっと気が引けるだろうから。
部屋の時計が、ゆっくり進んでいく。
端末に通知が来る。急いで取る。急いで取るまでもなかった。from母。部屋の前に置いておいたから好きなときに取ってね。ありがとう、のスタンプを送ってから絽奈は席を立つ。晶が顔を上げる。スイカ、と絽奈は応える。襖を開ける。お盆の上に二人分の小分けにされたスイカとジュースとそのおかわりが置いてある。持ち上げる。どこに置こうか、と思っていると晶が本を机の上からどけてくれた。シミ付けちゃったりすると良くないから、食べるの集中。そうしよっか、と絽奈もその隣に座る。
スイカって、友達の前だとどう食べるのが正解なんだろう。
戸惑っていると、晶がフォークでスイカの種を外から削り始めた。それが正しい食べ方なのかはわからない。晶は焼き魚も小骨に至るまで全て取ってからじゃないと食べ始めないタイプだから、たまたまこの場ではそれが正解として扱われているだけなのかもしれない。この場だけでも正解があってよかった。ウミちゃん、と呼びかける。ウミがこっちを見る。スイカ、食べる? そそっとこっちに寄ってくる。じっと赤い果肉を見つめる。きょろきょろと部屋の中を見回す。ああ、と思ったからティッシュ箱を差し出す。ウミがティッシュを一枚取る。晶が一個、まだ口を付けていないフォークに種を取り終わったらしいスイカを突き刺す。ウミの手の中のティッシュの上に一つ置く。
しゃく。
「あまい」
「もう一個食べる?」
「いいの?」
「いいよ全然。でも――絽奈。こういうときご飯どうしてんの。ウミちゃん用のフォークとか使う感じ?」
「……使い捨てのやつ、ちゃんと買い溜めしておこうと思ったんだけど。ちょうど学校にウミちゃんが行くようになっちゃったから、思っただけで終わってます」
何か代用できるものはないかな、と二人でちょっと部屋の中を探す。あ、とすぐに絽奈は声を上げた。勉強机のところに未開封の割りばしの袋があった。たぶん、と思う。湊がコンビニで色々買ってきてくれたときに貰って使わなかったやつだ。あったよ、と二人に言う。ウミは嬉しそうにしている。晶は一方で、若干疑わしい目つきでこっちを見ている。部屋を片付けられない人間だと思われている気がする。
ウミが箸を受け取って、晶のことを見つめながら見様見真似で種を取っていく。自分もさして変わらない。そんなことを思いながら同じように。三人でちまちまちまちまスイカの種を取る。そんな南極大陸にも、恐竜の化石が埋まっているのです。へー、とテレビを観た。そういえばホッキョクグマっているけどナンキョクグマっていないよね。普通に陸続きじゃないからじゃないの。え、北極って陸続きなの? だって北極圏ってユーラシア大陸とか北アメリカ大陸とか含んでるじゃん、地図帳見てみなよ。見てみます。で、南極は他の大陸と繋がってないから熊が渡ってこれないんじゃないの、ペンギンとかそういう泳げる動物だけ。え、じゃあ今テレビでやってた恐竜の化石は何、泳いで来たの? 大陸がバラバラになる前の話じゃないのこれ、ゴンドワナ大陸とかそういうの。あ、そういえばそんなの昔……。そういえば南極って標高二千メートルとかあるらしいけどやっぱり船で近くに着けたら高すぎて登れないとかなるのかな。
へー。
食べるのを中断して、地図帳で北極圏を探してみたり、ウミが興味を示したホッキョクグマの項を図鑑で引いてみたり。ほんとだ、と納得してみたり。でもそれならこの南極にあるらしいヴィンソン・マシフとやらの奥地にゴンドワナ大陸の頃から生きていた恐竜とか、そういうのがいても面白い話だよなあ、なんて思ったりして。ほっきょくぐま、とじっと図鑑を眺めて、ふわふわ、なんて難しい言葉まで使いこなし始めたウミを見て、急に正気に戻ったりして。
またスイカに戻る。
そういえばさ、と今度は晶から切り出した。
「宇垣、そろそろ面会できそうらしいけど。一緒に行く?」
「え、あ。治ったの?」
「治りはしてないだろうけど。とりあえず面会はできるようになるっぽい。私は明日岩崎とかと行くつもりだけど、どうする?」
うーん、と微妙な顔をしてお茶を濁した。
はいはい、と濁すまでもなく晶は笑ってくれた。
「そういうタイプじゃないもんね」
「うん。はい」
そもそもそんなにやり取りがない。自分は二々ヶ浜中学に数いる不登校児の中でもそんなに手がかからない方だ――と自分では思っている――し、宇垣先生には毎回返却されるテストに『惜しい』という言葉と正しい綴りを書き添えてくれるあのカクカクした文字の人、という程度のイメージしかない。そこまで強い繋がりがあるというわけでもないし、晶一人だけで行くのの付き添いならともかく、大人数の中の一人として行ってもそんなに意味はないだろう。言い訳終了。
「ちなみに、他に誰行くの?」
「わかんない。岩崎がいま水族館の方にいるから、向こうで適当にまとめると思う。下川……とかあのへんはわかんないし、薊原とか来るのかな」
水族館、のフレーズに思い出す。これもまた、行ったことのない遠足の話。プラネタリウムと違ってそんなに距離がないから、こっちは小学生の頃にみんなに連れて行ってもらったことがある。涼しい。綺麗。結構好きなタイプの場所だったけれど、ご飯を食べる場所も何もないから一日中いるには向かない。あの頃はゆっくり喋るお婆ちゃんが受付をしていたけれど、声が大きくてちょっと怖かった。一人で行ったことはないけれど、晶ちゃんのお母さんが今は受付をしていると聞いたから、気持ち的には行きやすい。行きにくくなったのは図書館。昔は一日中だってそこにいられたけど、今は廃墟と変わらないし、変質者が出てきて怒鳴られるという話を聞いてからはもう一生行かないと心に決めた。
そういえば、
「図書館の方に行ってる子もいるんだっけ」
「相田とか瀬尾とか、あのへんね。説教ジジイに遭遇したら蹴り入れてフクロにするって息巻いてた。あいつら因縁あるし」
こわ、と絽奈は笑ってみたけれど、全然笑いごとではなかった。
だって、そのいわゆる『説教ジジイ』のせいで、学校は使えなくなったわけだから。
表向きの理由は、夏合宿を支えていた中核職員――宇垣が負傷したことで合宿の安全が維持できなくなったから、ということになっている。が、本当のところもだいぶ漏れ聞こえてきている。というかほとんど佐々山先生が「自分の偏見も入ってると思うけど」と言いつつ説明してくれたし、そのあたりの事情に詳しい保護者はみんな「その認識で間違いないはずだ」と確信している。
元々、どうにか学校に嫌がらせできないかと機会を伺っていたらしい。
何がどうなればそういう人間が議員になるのかもわからないけれど、そういうことらしい。毎年のことだったのだそうだ。市議会では「夏合宿だのという名目で子どもだけのチャラチャラとした遊び場を提供することは全く以て適切ではなく、家庭教育の破壊であり、日本の伝統的な形式から外れており、大変けしからんので即刻廃止すべき」という内容の発議が毎年なされて、毎年無視されてきた。が、こうしてそれらしい名目が立ってしまったこと、文科大臣のあの死亡事件――結局あれ以来一切報道がないので何もわからない――に加え、現市長である『豊か』の薊原一郎に対立する候補が与党側から出現したことによる市内政治のパワーバランスの崩れによって、とうとう議会を通すことなく市教育委員会が説教ジジイの圧力に屈した。そういうことらしい。
教頭なんかは今もポケットにくしゃくしゃの辞表を突っ込んで、市教委に乗り込んで決定を取り消せと直談判をしているそうだ。
しかし一人二人の良心くらいでは物事が良い方向に進むことはないと、もう何となく、このあたりの中学生たちは察している。
だからこうして、晶もクーラーのある部屋で勉強するために自分の部屋まで足を運んできたわけで、
「――暑くないのかな」
ふと、心配が口を突いて出た。
ん、と晶がフォークを止めてこっちを見る。あ、いや、と絽奈は誤魔化しそうになる。何を誤魔化そうとしたのか自分でもよくわからない。そして多分、この長い付き合いの友達は全然誤魔化されてはくれなくて、
「式谷? まだ連絡ないの?」
「……うん」
ふうん、と晶が頷く。フォークを持ったまま、置くことはない。でも視線は完全にスイカから外れている。ウミはずっと楽しそうにちまちまとスイカの種を削っている。
「ま、心配しても仕方ないでしょ」
気にすんな、と晶は言った。安心させるようにちょっと笑う、なんて珍しい気遣いも付けてきて、
「連絡取れないなら、探しようもないし。多分、変にチャットの履歴が残って絽奈のとこにまで警察来るかもとか心配してるんでしょ。薊原も連絡付かないって言ってたし」
「晶ちゃんは?」
「絽奈が付いてないのに私が付くわけないじゃん」
そうかな、と絽奈は思う。
自分だったら、ほとんどひきこもりみたいな生活をしている人間と花野晶、二人並んでいたら後者を頼る気がする。だって多分、連絡を貰ったとしても自分はそこに辿り着くまでにふらふらになってしまうだろうし、アニメみたいにそこから湊の手を引いて二人で逃避行、なんて絶対できない。その点晶ちゃんなら、いやバイクに乗れてお金も持ってる薊原くんの方が逃避行には向いてるのか、小松くんとかどうなんだろう実は連絡できてたりしないのかな――
「まあ、でも、」
晶が、静かに言った。
スイカはもう終わりにするらしい。あげる、とウミの方に寄せる。ウミが喜ぶ。いいの。いいよ。手拭きたい、と言うから絽奈は除菌シートを手に取って渡す。ありがと、と言って晶が手を拭く。丸めたシートをカバンの中に入れる。別にゴミ箱でいいのに、と思うけれど、自分も湊の家に行ったときは全部ゴミを持ち帰るし、湊も大体うちに来たときはそうしてる。何も言わない。
晶が、続きを言う。
「大丈夫でしょ。あいつ意外としっかりしてるし」
のんびり帰ってくるの待ってよ。
そう言って晶は、膝を立ててテーブルと距離を取りながら数学の参考書をまた読み始める。
絽奈は思っている。
湊が本当に何でもできるんだったら、安心して待っていられるけど。
でも現実はそうじゃないって、みんなわかってるんじゃないの?