知らない町 ①
シャッターを開くと、それこそゾンビ映画みたいな風景だった。
日本各地には、もうすっかり人の住まなくなってしまった土地がいくらでもあるという。昔、小学校の社会の時間でちょっと習ったことを湊は思い出している。地図帳を開いてごらん。先生は旅行が趣味なんだけど、昔この場所に行ったことがあってね。何もないように見えるだろう。実際、何もないんだ。元々人口の少ない場所だったんだけど、少子高齢化や公共設備の老朽化で人が住むには難しい土地になってしまってね。僕が最後に行ったときはまだ一組だけ老夫婦が住んでいて、そこで少し話もしたものなんだけれど……。地図帳から顔を上げると、先生は何だか泣きそうな顔をしていた。その年限りでいなくなってしまったお爺ちゃん先生。結構生徒からは人気があったけれど、体育の授業なんか全然できなくて、今にして思えば定年後再雇用とか、そんな人だったのかもしれない。
あれから何年か経って、人がいなくなったのはそういう地図の端の農村だけじゃなくなった。
父が昔、訪ねたことのある土地なのだという。道中、両親が交代交代に運転するのをぼんやりと視界の端に収めながら、後部座席の窓から式谷は、流れ行く景色を眺めていた。高速道路なんか使えないから、ずっと下道を走っている。自動車屋の看板、ファミレス、スーツ・靴販売店、コンビニ、ホームセンター……すれ違う建物は徐々に古くなっていく。コンビニの駐車場は広い割にガラガラで、大きな嵐が過ぎ去った後のように思える。放棄された田畑の青草が風になびいている。光ることをやめた信号機。木が倒れたままで、道路の上に投げ出されている。後続車なんていないから、いくらだってUターンできる。
「――ここだ」
辿り着いたのは、シャッターだらけの町だった。
色褪せた、たくさんの古い看板が出ている。昔は商店街だったんじゃないかと思う。これだけ店があるということは、昔はかなり人がいたんじゃないだろうか。二々ヶ浜の浜辺の方よりもよっぽどしっかり整えられた町の外観。それでも今は、人の姿は一つも見当たらない。建物の壁を蔦が張っている。目に映る金属のほとんどは錆びていて、百円の自動販売機がまだ置いてある。セミの声と夏の日差しがうるさい。それ以外には何もない。何の気配もしない。
みんな、どこかにいなくなってしまった町。
ギッ、と母がサイドブレーキを引いて、車を停めた。
エンジンが止まる。エアコンの風も、また消える。
はああ、と母が疲れ切った溜息を吐いて、ハンドルの上に突っ伏した。
「……それで? ここから?」
それは、この車の中で何度も繰り返されてきた問いだった。
もう逃げる以外の選択肢はない――そうと決めて、人から借りてきたこの青い車で二々ヶ浜を出てから。警察署や大通りから逃れて、無人の駐車場に車を停めて、キャップを深く被って今日のご飯をどこで手に入れるかなんて話をして、その間中ずっと、背中に張り付いてきた問い。
それで、これからどうするの?
「ちょっと待っててくれ」
父がそう言って、助手席から車を降りていった。
自分も付いて行った方がいいだろうか。式谷は考えているけれど、父はそう遠くまでは行かなかった。通りの中のシャッターのうちの一つ。その前に屈み込む。ポケットの中から何かを取り出す。手元が動く。
それから。
がらら、と一気にそのシャッターが持ち上がった。
母が驚いて顔を上げる。父は口元にちょっとした笑みを浮かべて、車の外からこっちに手招きしている。母がシートベルトを外す。式谷もそれに従って、ようやく後から付いていく。
ラーメン、と書かれていたのだと思う。
赤い色が日光のせいでほとんど見えなくなっているけれど、うっすらとした輪郭を辿る限り、そのはずだ。
椅子と机はまだ置いてあった。ごくごく普通の、二々ヶ浜の駅前にだってあるようなオーソドックスな作り。けれど人の手が入らなかっただけでこんなにも早く物は朽ち果ててしまうのか。式谷は思い出している。昔、絽奈と一緒に観たゾンビ映画。ゾンビが襲ってきたからみんなで戦おう、なんて話じゃない。ゾンビが襲ってきて人もいなくなってしまったから、後は死ぬまでのんびり暮らそう。そんな映画のこと。
「どうしたの、鍵」
「昔の友達がやってた店なんだよ。何かあったら、って鍵だけ貰ってた。警察を辞めた頃に、よっぽど面倒なことになるんじゃないかってな」
「……信用はできる?」
「したいな。だって、秘密基地みたいなもんだぞ」
あのな、と母がお叱りの体勢に入ったのを察知して、式谷は二人からふらっと離れることにした。信用したいしたくないってそりゃそういう話になるのもわかるけどこっちには湊だっているんだからもうちょっと慎重に――あれ? 母がこっちを見るから、式谷は手を振る。ちょっと周り見てくるよ。一瞬だけ引き留めるような素振りがあったけれど、あんまり遠くまで行かないように、の釘刺し一本で見逃してもらえた。多分、自分がいない方が話しやすい話題があったんだと思う。
歩いたところで、何があるわけでもない町だった。
どこを見てもシャッター、シャッター、シャッター……。何もかもが閉じられている。道の端どころか、真ん中にまで草が生い茂っている。プランターが割れて土がこぼれている。誰が何のために置いたのかもわからない退色した三角コーン。アスファルトが罅割れた駐車場。壊れたフェンス。一身上の都合で閉店させていただきますの古い張り紙。少しだけ涼しい風。今日がたまたまそういう日なのか、それともこの土地が元からそういう気温の土地なのか。真っ青な空の向こうに、灰色の雲の塊が見える。風の流れを読んでおく。降り出したらきっと、一気にずぶ濡れになってしまうだろうから。早めに軒下に入れるように準備しておかなくちゃならない。
靴の先が、小石に当たった。
それほどの力を込めたわけでもないのに、かつん、かつん、と飛んでいく。ぼんやり眺めていると、フェンスの向こうの草むらに吸い込まれていく。花の名前も、草の名前も、何も知らない。元は何だったのかもわからないその場所に、何の言葉も当てはめることができずに式谷は突っ立っている。
光った。
何だろう、と最初は暢気に式谷は思った。草むらの中で、音もなく何かが光った。想像する。割れたガラス瓶。子どもが落としたビー玉とかパチンコ玉。ラッキーだったら五百円。ひょっとしたら夜の間に降った露が、今の今までそこに残ってきらめいたのかもしれない。
動いた。
動くもののことを、人は動物と呼んだりもする。
それほど大きくはないはずだ、と式谷は思った。草むらの背は高くない。だから蛇とかそういうのが出てこない限りは大丈夫。なーんだ子熊か、なんて安心したところでヌウッと親熊が出てくるみたいなお約束に見舞われない限りは大丈夫。もうちょっと近付いてみるなんてことはしないけれど、別にそんなに急いで動く必要もない気がする。二々ヶ浜でもよく使うやつだ。野生動物と遭遇したときは決して背中は見せずじりじりと――、
猫だ。
完全に、足を止めた。
まじまじと見る。茶色っぽい色をした猫だった。猫といえば、と思い出が蘇ってくる。あの勝手に始まってしまった肝試しの夜。ふ、と笑いそうになる。でも、すぐにそれは心の奥に押し込める。あんまり考えていると、ふとした拍子に悲しくなってしまいそうだから。
こんにちは、と手を振ろうとした。
猫が身じろぎした瞬間に、ぴた、とその手が止まる。
時間が止まったみたいだった。
驚きすぎたから、何の声も出ないし何の動きも出せない。だってこんなところで会うとは思わなかった。なぜわかるのかと訊かれても誰にも答えられない。なぜかわかる。自分はなぜか、そういうのが全部わかる。外さないと思う。
絶対そうだ、と思った。
「君の、」
口にしてから思う。これは伝わるだろうか。通学路の途中で見かけるタヌキとかイタチにかけるような、伝わらなくていい言葉とは訳が違う。伝えるべき言葉だから、伝わってもらわなくちゃ困る。でも言葉はこっちだけの都合じゃなくて向こうと結び付くことで伝わるものだから――
そんなことで悩むよりも先に。
もしかすると今だけなのかもしれないと思ったから、続きを口にした。
「君の友達を、僕は知ってる」
雨粒が、廃れた街の屋根を叩き始める。
式谷と猫は、まだ見つめ合っている。




