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小石は崖へ ⑤


 返信がないのを確認するたびに悲しくなるのはわかっているけれど、それでも十五分に一回くらいは開けてしまう。

 チャットアプリだ。多目的室の窓際。ウミの隣にいると夏の気温を忘れ始めて、かえって靴下の先に当たる日差しの温度を心地よく感じるようになる。疲れているのだろうか、隣で晶がうとうとしている。肩を貸す準備は万端で、何なら早くこっちに寄りかかって来てほしいと思う。何となく最近は、うっすらとした不安が自分の周りを川のように流れているような気がする。名前の表示は『式谷湊』。一番最新に表示されているのは自分の送信したメッセージ。

『元気?』

 これでも、一時間半くらいかけて悩んだ末に打ち込んだ一文なのだ。

 三十分以内に返信が来なかったら、いつもだったら消してしまう。けれど一昨日に送ったそのメッセージはそのまま残している。何だかそれを消すと、一緒に他の何かも消えてしまいそうだから。

 既読のマークも付かなくて。

 果たして生きているのか、そんなことすら定かじゃない。

 こてん、と晶が肩に落ちてきた。

 絽奈は左肩の方をちょっと向く。髪の毛が頬に当たる。よく見えない。でもたぶん、寝ているんじゃないかと思う。最近の晶は少し起きるのが遅くなったそうだ。たるんでいます、と桐峯なんかは言っていたけれど、本当はあの子もわかっていたんじゃないかと思う。少なくとも絽奈には何となくわかるから。疲れているのだ。宇垣も湊もいなくなって、それでもこの場所を維持し続けることに。

 おやすみ、と小さく呟く。

 右を見れば、羽生も三上も端末の画面を見つめながら、ただ黙ってぼうっとしていた。そしてその二人だけでもない。多目的室に集まっているほとんど全員。もうすぐ午後に差し掛かっていく陽だまりとまどろみの中、流れていても流れていなくても何も変わらないような停滞した時間の中。クーラーの静かに唸る音。日陰を目指して飛び立つ鳥の声。向こうの空と海に吸い込まれていく風の名残。ジャージとカーペットが擦れる音。夢心地のような囁き。銀の秒針が五から六へと移動して、音もなく輝いた細くきらめく夏の明かり。

「ろな」

 小さく、ウミが呟いた。

「ウミちゃんははなしてだいじょうぶ?」

 うん、と絽奈は頷いた。小さい声なら大丈夫だよ。

「みなとは?」

「……まだ連絡つかない」

「どこにいく、をわかる?」

 わかんない、と小さく答える。そして思う。

 今のこの状況は。

 そして、思い当たる。

「あのさ、ウミちゃん」

「なに?」

「『思う』を覚えた日のこと、覚えてる?」

 ウミが少しだけ考える。

「おぼえてる」

 あのとき、と絽奈は思う。ウミちゃんは友達を心配して海から陸に上がってきたとわかった。ここにいない友達のことを思う。そのことを『心配』だと絽奈は解釈したから。

 でも、それだけなのだろうか。

 そう、今になってみれば思うところがあって。

「ちょっとだけ言葉の話。いい?」

「いい」

「ここにいない相手を思う。そのときに『どうしてるかなー』とか、『危ない目に遭ってないかなー』って考えるのが『心配』」

「め」

「危ない……『場合』かな。危ない『状態』とか『状況』とか、ここではそういう意味」

「あぶないめにあう。しんぱい。わかる」

 そう、と絽奈は頷く。少なくともここまでは間違っていない。

 そして何となく、ここからも間違っていない気がする。

「そういうときに、相手のことを思うのが『心配』。で、そのときはそれだけで終わっちゃったから、もう一つ」

 言葉、と絽奈は言って、

「自分がどう感じるかを表す言葉」

「じぶん。ウミちゃん?」

「そう。相手がどこかにいなくなっちゃたときに……そうだね。『もう一度会いたいな』とか『もう会えないのかな』とか、そういうことを思う気持ちを表す言葉」

「しってる」

 え、と驚いた。

「みなとはいうよ。ろなはいない、よる。おくじょうで、いうよ。ウミちゃんはしってる。あうをしたい……あいたい、のことば」

 湊がよく言うよ。絽奈がいない夜。言うよ。ウミちゃんはそれを知ってるよ。また会いたいという気持ちを表す言葉。


「――『さびしい』。あってる?」


 そのとき、絽奈の頭の中には取るに足らないようなどうでもいい思い出ばかりが蘇っていた。

 たとえばそれは、湊の部屋に初めて行ったときの記憶だったりする。自分の部屋に大きくて脚がいっぱいある虫が出て、とてもこんな場所にはいられないと癇癪を起こして朝から押しかけて行った日。今にして思えばはた迷惑極まりないし何なんだ自分はと自分で呆れ返ってしまうし家の人にどう思われていただろうと心配になるけれど、湊は一日中嬉しそうで、夕方になって殺虫剤も焚き終わったからと家に戻るときは、いつまでも見えなくなるまで家の前の道路から手を振ってくれていた。

 あるいはそれは、小学六年生のときの卒業式の練習のときの記憶だったりする。二々ヶ浜小学校は花野、倉持、小松と、か行が多い割にさ行は式谷湊だけだった。そしてその次の番号は千賀上絽奈で、隣同士に座っていた。全然馴染みのない体育館は、少なくなった子どもの数に合わせて縮んだりしないから妙に広くて、たった十人ちょっとしかいなかった小学校の同級生たちも、それどころか先生だって大してやる気はなかった。どうせ全員同じ中学に持ち上がり。ただこれから通う場所が変わるだけ。ほとんどは先生が壇上で司会進行をするのを教頭が見守っているだけの静かな冬の時間。それなのに隣を見ると、ぼーっと湊が舞台の幕を見上げていた。変なの、と思う。暇になるとろくなことを考え付かなくなるものだから、見ていない間に湊の手の甲に指を当ててくすぐってしまった。わ、と湊は声を上げる。みんなが湊を見る。自分は知らんぷりをする。何でもないです、と湊は上手いことその場をやりすごして、それから「やったな」という顔で笑ってこっちの手の甲に指を伸ばしてくる。もちろん自分は防ぐ。段々エスカレートする。最終的に二人揃って怒られた。怒っても全然怖くない先生だったから、後で晶ちゃんからは「漫才やってんのかと思った」なんて言われた。

 久しぶりに行った中学校、湊が窓際の前の席に座っていて、白いシャツが日差しに照って眩しかったこと。チャンネルを消された一回目、げっそりしてベッドでうつ伏せになっていた自分の傍にいて、応援のコメントだけを横で読み上げてくれていたこと。自分は一度もできなかった腹筋ローラーを難なくこなすから腹が立ったこと。図書室で本の借り方を教えてくれた。初めて読んだ歌集に感動して貸してあげたのに「よくわからなかった」みたいな顔をされた。新しく来た先生って美術系の学校出てるらしいよ、顧問になってもらって美術部でも作ってみたら、僕も入るし、入りたい人きっといっぱいいるよ。中秋の名月。みたらし団子よりあんこの方が好き。真冬の流星群。明日の学校なんてもうサボっちゃうよ。天体望遠鏡が欲しい。いつか買ってあげる、お金持ちになったら。それなら一緒にどこか山の――それは嫌。えー。郵便局の傍の自販機。サイダー。ココア。白い息。早起きして雪に足跡を付けにいった朝。教室のストーブでみんなでラーメン作って鍋するんだ、なんて言われてまんまと誘い出されてしまった二年の終わり。

 そしてそれは、ずっと最近の記憶。

 海まで行こう、と決めた夜のこと。

 友達が帰ってしまった後の部屋がずっと苦手だった。いつもは気にならないはずなのに、当たり前のことのはずなのに、急に静かになって、何かが欠けてしまったような気がするから。お母さんとお父さんが食卓でずっと喋り続けていても、リビングのテレビに映画が流れていても、ずっとその感覚が消えない。何かがなくなってしまった。そしてそれはもう二度と戻ってこない。そんな気がする。いつもどおりの朝なんてもう来ない。この夜が一番最後の夜に思える。泣いたって何の意味もない。時間は前に進む。この日も、この日に感じていることも、この日の自分自身でさえ未来には忘れ去られてしまって、誰も保証なんかしてくれない。初めから何もなかったみたいに、何の証拠も残さずに消えてしまう。なくしてしまう。


「じゃあ、夜になったら迎えに来るよ」


 終わってしまった一日の続き。メッセージが届いたのを見て、そうっと二人を起こさないように裏口から抜け出して。慣れない二人乗りなんかをやってみようとしてすぐに挫折して。お化け屋敷みたいに暗ければそっちの方がずっといいのに、誰もいないどこか遠くへ行けそうなのに、そんなことは全然ない。どこかの誰かが勝手に灯した明かりのある道を、たわいもない話をしながら二人で歩いて。

 海に着いて。

 それから――

「……うん。合ってる」

 答えれば、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。

 ウミは何も言わずに猫になる。誰か、ウミのことを知らない人が来てしまったときのために。それでも本当は、まだ会話は続いている。目と目が合っている。宇宙みたいな色の、果てしない瞳。

 でもきっと、伝わるはずだと思うから。

 目の前の友達に、瞳だけで、その言葉を伝えてみる。


 ――ウミちゃんは、すごいね。

 ――私なんか、寂しいだけじゃどこにも行けないよ。


 猫のヒゲがぴくりと動く。

 扉が開くのと、ウミが絽奈の背中に隠れたのはほとんど同時だった。

「薊原くん」

「ウミ――そこか。いいや千賀上、そのまま」

 隠しとけ、と薊原が言う。瀬尾と二人。こっちに歩いてきて、さり気なく壁を作ってくれる。続けて男子が何人か入ってくる。んん、と晶が身をよじる。うっせ、と言ってもう一度寝に入ろうとする。今度は遠慮なく肩に寄りかかってくる。こういうところが可愛い、と絽奈はひそかに思う。そんなこととは関係なく、薊原が言う。

「今から佐々山来るから」

「あ、そうなんだ。夏季講習?」

 わかんねえ、と薊原は言う。

 ただ、と首を捻って、

「なんか変なんだよな。雰囲気が」

「いや、雰囲気とかそういう問題じゃないっしょ。男子部屋と女子部屋全部多目的室に集合だぜ? またなんかあったんじゃ――グッモーニン花野ちゃん大先生」

「……何? 集合?」

 中途半端な眠りで、かえって疲れてしまったらしい。晶が眉間に皺を寄せて、頭痛を堪えるような表情で目を覚ます。薊原が言ったとおり、次から次に生徒が多目的室に集まってくる。岩崎が「花野ちゃん寝起き?」と軽く訊いて、桐峯が「大丈夫ですか?」とちょっと気遣わし気な言葉をかける。

 最後に、佐々山が入ってきた。

 ええっと、と入口の辺りで止まって、周りを見渡して、

「ここにいるので全員? あ、学校にいる子は」

「だと思い……あれ、洪先輩は?」

「鈴木と二人で家庭訪問。男子は……揃ってんのか、これ?」

「わかんね。いなけりゃいないで後から伝えりゃいいんじゃねーの」

 そんな適当な、と桐峯が瀬尾と薊原に文句を付ける。女子は全員いまーす、と岩崎が答える。じゃあ男子も全員いるっつーことで、と薊原が投げやりに答える。

 そっか、と佐々山は頷く。

 それから、

「ごめんね。いきなりのことになるんだけど――」

 見たことがないくらい、真剣な顔だった。

 もちろん絽奈は、それほど学校に来た回数が多くない。だから佐々山に関して、語れるほどの情報は持っていない。けれど、その少ない交流だけを元にしてもわかるくらい、いつもの様子と違う。宇垣が入院して、教頭も方々に追われて、他の教員はこれでもかと言うくらいに教育問題を検討するための研修に呼ばれていたり、副業に追われていたり、年齢的な問題で無理ができなかったり、あるいはそもそもこんな夏合宿なんてものには興味がなくて、だから、

 佐々山『先生』は。

 一種の責任を持って、その言葉を口にするしかなかったのだと思う。


「夏合宿は、今日で終わりです。

 市の教育委員会の判断で、夏休み中の二々ヶ浜中学校の施設利用許可は取り消されることになりました」



 そのころ、死んだような寂れた街の一画で。

 式谷湊は、一匹の猫と向かい合っている。


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