小石は崖へ ③
「薊原、返信来た?」
「来ねーーーーー」
男子部屋の、ベランダへ続く扉のあたりに薊原たちはたむろっていた。
日差しは厳しい。クーラーの温度を一度下げるよりもカーテンを閉めてしまった方がずっと温度が下がりそうな気もするが、教室のそれは遮光性が薄いから全然意味がない。本棚の横。それなりに新品の歴史漫画と、ボロボロになった反戦漫画。埃を被った辞書類と年度が古すぎでもはや廃校になった県立のものまで並んだ高校受験の過去問集。黒板にはクラウチングスタートを決めようとするダックスフントの絵と流行りのアニメのヒロインのバストアップと何も見ないで『墾田永年私財法』を書こうと努力した複数人がいたらしい痕跡。それでも掃除が行き届いているから、本棚の上の黒板消しクリーナーにも、黒板消しそのものにも、その下の教壇の表面にも、チョークの粉は全然落ちていない。
そこの端のあたりに、薊原は瀬尾と鈴木とともに座っていた。
コンセントに充電器を繋いで、大した目的もなくそれぞれ端末を弄りながら。
「つーか既読も付かねえ」
「パクられたんかな。もう三日? 四日?」
「一、二、三……消えた日入れたら五日」
「パクられっと全然外と連絡付かなくなるらしいよな。オレはパクられたことないから知らねーけど」
瀬尾の端末から音が出てくる。お借入れの申請はぜひ――やべ、と言って音量を落とす。何見てんの、と鈴木が後ろからそれを覗き込もうとする。プライバシー、と言って瀬尾がそれを押しのける。イヤホンを差す。
「パクられっとどうなんの? 薊原先輩」
「さあ……普通とはちげーしわかんねーよ。メチャクチャだろ、今回のやつ」
「これまではメチャクチャじゃなかったってマジ?」
「そりゃこれまでもヤバかったけど、今回のはマジで頭おかしいだろ。なんだよ大学関係者百人逮捕って。そんで身内もまとめて引っ張るって、連座制か?」
「何、連座制って」
「お。これ薊原と同じこと言ってんぜ」
瀬尾がプライバシーとやらのことは綺麗さっぱり忘れたのか、端末を見せてくる。片耳に嵌め込んでいたイヤホンを取る。音量を上げる。怪しい塾講みたいな男――自称弁護士――が冴えないライティングでホラー映画みたいになった画面の中で今回のこの事件はあまりにも政府の対応が強権的で透明性や説明責任に欠けそもそも漏洩した国家機密が何なのか概要すらもわからず事件全体が見せかけの可能性すらもありこんなことでは独裁が云云かんぬんと語っている。そんなん誰が見てもそうだし、これまでもそうだったし、今更何言ってんださっき起きてきて初めて現代社会を見たのかとしか思わないが、一番上に来ている人気ナンバーワンのコメントは『小遣い稼ぎに味占めてんな この国が嫌なら出てけばいいだろ工作野郎』だった。
「お前それサジェスト汚染されねえの」
「ヤバい。最近こんなのばっか再生してたからホーム画面無茶苦茶になってる。返してくれよオレの爽やかな夏のプレイリストを」
「瀬尾、プライベートでもそんなん観てんの?」
「観てるよ。気になんじゃん。つーか全然ニュースにこの話出てこねー。どういう理屈なんすか薊原クン」
「普通に報道規制かかってんじゃねーの。それか空気読みやってるか」
「あれ、オレこの間そういうニュース見たけど」
「どれ」
ちょい待ち、と言って鈴木が自分の端末の履歴を探り始める。あれおっかしいな見たと思ったんだけどな。消されたか。記事が? 本人が。こえーってマジ。
そのあいだ、薊原は自分の端末のチャット画面をじっと見つめている。
相手は式谷湊。最後に送ったメッセージは『生きてるか?』の一言。二日前。まだ既読のマークも付かない。千賀上にも一応確認したけれど、同じ状況らしい。テキストボックスをタップする。キーボードが表示される。文字を打つ。『今何してる?』送信ボタンを押す前に消す。どうせ見ないし意味がない。もしかしたらメッセージの受信のために向こうの端末の充電を削ってしまっているかもしれない。
それでも、指は動く。
通話ボタン。
お前「あとお願い」って一体どこまで――、
がらり、と男子部屋の扉が開いた。
「あれ。誰か下川たち知らない?」
洪だ。入口の辺りにいた二年に話しかける。首を横に振られる。ふぅん、と意気を落としたような頷き。こっちを見る。ちっす、と頭を下げてくるから、
「どした。探してんのか」
「まあ、そんな感じです」
話しかければ寄ってくる。何見てるんですか。ニュースだよ、最新の情報を常に追って世界を学ばなきゃな。そう、オレたち知的だから。なんちゃって知的野郎たちが本物の知的少年に面白い冗談を言う。ハハハ、と薊原は乾いた笑いを聞かせてやった。はは……と洪も笑った。何笑ってんだこら後輩、と瀬尾と鈴木に組み付かれる。うわあウソ今のギャグ以外の何だったんですか。
組み付かれるがままに、洪も教壇の上に腰を下ろした。
「下川たち、どうしてるか知りません? 一昨日から『着替え取りに行く』って言って学校出たっきり、戻ってきてないっぽいんですけど」
「着替え取りに行ってんじゃねえの」
「どこまで取りに行ってるんですか」
「そりゃ兵庫県だろ。甲子園のシーズンだしな」
「えっ、甲子園って兵庫? 大阪じゃなくて?」
「わかる。オレもそれずっと勘違いしてた。あそこ大阪の本拠地っぽいもんな」
「何の話をしてるんですかこの二人は」
「野球」
答えてやれば、なんで野球の話が始まっちゃったんですか、と洪は当然の疑問を口にする。が、特にそれに対する有意義な答えを薊原は与えることができない。たぶんさっきニュースを見ている途中で甲子園の文字が見えたから話題に出しているだけだと思う。会話の九割以上は脈絡のない、しょうもないもので出来ている。
「あいつらの家、どのへんだっけ」
だから、本筋に戻してやることにした。
訊けば洪はすぐに答える。岩崎とか桐峯とかと同じ小学校の出身。てことは、とすぐに薊原も理解する。自分たちの通っていた小学校よりはやや南寄りだけれど、それでもまあまあIRに近いあたり。
「……どうだろな。ギリギリ家帰って寝てるだけって可能性もなくはねーけど」
「あるかあ?」
「わかんなくね。千賀上みたいに親と仲良くて金持ちの家は学校出てこねーのもいるじゃん」
「そりゃいるけどあいつら別に金持ち感ねーだろ」
「いや、和島んち医者」
「マジ?」
自分で言ってた、と薊原は二人に頷く。IRに一年長くいた分、こいつらよりは多少詳しいところもある。
「あ、じゃあ和島の家に三人でいるんですかね」
「いや~……わかんなくね。うちの薊原クンだって親市長なのにこんなところで没落人生送ってるわけじゃん」
「誰が没落だ」
「親と仲良けりゃいいけどな。カタい家だとかえって出戻りでキツいんじゃねーの」
「どっかほっつき歩いてんのかもな」
えぇ、と洪が困惑した顔をする。
でも、と鈴木が言った。
「オレもまあまあ気持ちわかるわ。居づれーんだよな。学校」
「え、」
「あー、わからんでもない」
「……まあ、わかる」
え、ともう一度洪が言う。
マジですか、とこっちの三人を見て、
「式谷先輩がいないからとか、そういう……?」
「いや、式谷いたときもフツーにつらいときはつらかった。だってオマエらめっちゃ行儀いーじゃん」
「……ダメですか、それ」
いやいいんだけど、全然いいんだけど、と鈴木は、
「いいんだけど……まあ、なんか。場違い感あるっつーか。なんつーの? トガイ感?」
「東京都の外にいる感じな?」
「そうそれ」
「絶対ちげーだろ」
ソガイ感な、と薊原は言う。何言ってんだオマエ、と鈴木が言う。そうだそうだ、知ったかぶりやがって漢字で書いてみろよ、と瀬尾が乗る。ふん、吠え面かかせてやるよと薊原は立ち上がる。青いチョークを取って黒板に書きつける。ふんふんふんふんハッ。阻害感。おぉー、と二人が拍手する。洪が黙って立ち上がって白いチョークを取って黒板に書きつける。かつかつかつかつカンッ。疎外感。薊原は瀬尾と鈴木、自分と洪で区切るように空中に線を引いて、
「今のチーム戦だからオレの勝ちな」
「ズルすぎ」
「後出し馬鹿野郎じゃん」
「黙れ。ド忘れしただけでなんかおかしいなとは思ってたんだよ」
「それでいいならオレだっておかしいと思ってたよ。書けねーから言わなかったけど」
「えっ、マジ……?」
「さっき佐々山先生が職員室で漢字のプリント作ってましたよ」
シャーペン全部折れた、と鈴木が言った。貸しますよ、と洪が言って逃げ場を塞がれた。それでも何らかの言い訳をしたかったらしく、いやでも千賀上もめちゃくちゃ漢字ヤバいから、とここにいない奴を巻き込んだ。あいつも普段タイピングしかしないから読みは全部当たるのに書きがマジでヤバいらしい。話逸れましたけど、と洪が言う。
「え、で。鈴木先輩はそれで……なんか、夏合宿来てもいいかなって思った切っ掛けとかあるんですか」
「暑すぎて死ぬから来るしかなかった」
「わかる」
薊原も続けて頷いた。家とIRに居場所がなくなると必然的にそうなる。日本の夏は人間がクーラーなしで生きていけるように出来ていない。
ちら、と式谷の顔が頭に浮かんだ。
あいつは今、大丈夫だろうか。
「まあだから、あいつらもそのうち来るんじゃね。どこにも行くとこなけりゃここ来るしかねーよ。ここってほら、シェールガスみたいなもんだから」
「逆にすごくねーか。シェールガスが出てくんの」
「この間の社会のプリントに書いてあったわ。貝殻から取れる燃料のことだろ」
「しかもしっかりわかって……貝殻? 洪、貝殻だっけ」
「え、どうだったかな……。多分違うと思いますけど、でもシェールか……」
「シェルターな」
「何が?」
おめーが今言ったことだよ。
実際、と薊原は思う。鈴木の言うことは的を外してはいない。千賀上みたいに家でのんびり暮らせる奴は、よっぽど特殊な事情がない限りはわざわざ学校で不便な共同生活なんかする必要はない。だから、学校というよりは逃げ込み場としてのシェルター。その認識はそんなに外れてもいない。
ただ。
それでも何だかんだと言ってこの場所は、普通に勉強したり、普通に運動したり、普通に友達付き合いしたりできる奴が中心になっている場所なのだ。
「まー気まずいけどさ。それでもIRにも家にも居らんなきゃここ来るしかねーわけだし。つか、来ねーなら来ねーでどっか別に暮らせるところを見つけたわけだし。そんな気にしなくていーよ、マジ」
「……俺、ちょっと行ってきます」
言うや、洪は踵を返した。
ぽかん、という顔で鈴木が取り残されている。指を差す。去っていった方。こっちを見て、
「どこに?」
「和島の家なんじゃねーの」
「あーあ。鈴木が焚きつけるから洪が勇気出して家庭訪問に行っちゃった」
鈴木が天を仰いだ。
目を瞑って一秒、二秒、三秒、
「――だー! オレも付き添いに行ってくる!」
「いってら~」
「後で金払うから自販で何か買ってきてくれや」
自販なんかもうこのへんにねーよ、と捨て台詞を残して鈴木が走り去っていく。しばらく薊原は瀬尾と二人で手を振っている。ぱたりと下ろす。
いやあ、と瀬尾が言う。
「洪も熱血だけど、鈴木もあれ、式ちゃんにべったりだったしな。去年」
「へえ」
「今年の薊原クンくらいべったり」
じゃあそんなでもねえだろ、と薊原は言った。
そういうことにしといてやろうか、と瀬尾は笑った。
「どうしてんのかねえ、その式ちゃんは」
「お前そればっかな」
「だってオレ式ちゃんのこと好きだし。お前はあんま来てなかったから知らないだろーけどさ、一年目の夏合宿とかほんとクソみてーだったぜ。クソ偉そうなカスどもがふんぞり返っててよ。あのまんま行ってたら今頃ここも四中みてーになってたね」
「……ほーん」
「それに比べりゃ今は天国だよ。ピリついていっつも喧嘩喧嘩の派閥もねーし。薬も酒もだーれも持ち込まねーし。寝てるときに喧嘩の巻き添えで腹踏まれる心配もねーし……ま、それはそれでオマエらみてーなヤンキーくんには居心地悪いらしいけど」
「おめーもだろ」
オレはオマエらと違って要領いーの、と瀬尾が笑う。
まあそれはそうかもな、とも薊原は思う。こいつは一年の頃からIRと学校の両方に顔を出していた奴だ。自分や鈴木と違って、戻ってくるときもだいぶスムーズだったろう。居場所を同時に二つ作れる奴。
もっとも、
「よく言うわ。IR出禁食らっといて」
「お、聞いちゃう? オレのかっこよすぎる出禁エピソード」
「いーよもう、耳タコ」
「octopus Azamibara……」
つーか、と薊原は思う。別に居心地が悪かったのは最初だけで、今はそんなでも……もちろん、そんなことわざわざ口には出さないけれど。
端末を見た。ほとんど癖みたいになっている。式谷とのチャット画面。下にスワイプして更新。何も出ない。上にスワイプする。昔のチャットが目に入る。
『今ハーモニーにいる?』
『寝てた』
あの日、と薊原は思った。
あの日は結局、式谷が偶然街の方でふらふら歩いていたから――それでいてこっちのことを気にしていたから、ああいう流れに収まったわけで。
自分は。
そんな偶然の生まれる余地もない学校に留まり続けるばかりでいいのだろうか?
「……つってもな」
「おん?」
「式谷の話。探してやりてーけど、どこにいんのか何の手掛かりもないんじゃどうしようもねーよな」
ああ、と瀬尾が頷く。
「それ。ウミちゃんの友達探しでも思ってたけど、人探すのってマジでムズいんだな。探偵とかどうしてんだろ。あの車貸したって奴は何も知らねーの? つかマスコミが情報出す前から動き出せるって何者?」
「大浜だろ。警察にパイプある、昔町の政治家やってた爺さん」
「あ、そういう?」
大浜の爺さんのところには、花野が聞き込みに行ったらしい。何でも前の暴行事件の一件以来、爺さんは自警団との繋がりを深めている。そこで式谷の父とも浅からぬ連携関係が生まれていたらしく、警察OBだか現役の関係者だか知らないが、そのあたりの情報網から今回の一斉逮捕者の中に式谷姉が含まれていることをいち早く確認。とんでもない事態になることを見越し、ほとぼりが冷めるまで身を隠せ、と自分の車を渡して一家全員を二々ヶ浜の外に出した。
行先は、知らないそうだ。
「どうする? 二人で原チャで日本縦断捜索の旅しちゃう?」
「おめー原付持ってねーだろ」
「買ってパパ」
「ぶっとばすぞ」
ふは、と笑った後、はーあ、と瀬尾は溜息を吐く。日差しはどんどん強くなる。嘘臭いくらい青い空を毎日見ているから、青色から涼しそうというイメージすら抜け始めた。セミが鳴いていないから、今日はもうよっぽど暑いのだろう。洪と鈴木は倒れることなく和島の家に辿り着けるだろうか。そしてそこにちゃんと下川たちはいるのだろうか。
八月二十二日、午前十時半。
そういや終戦記念日からもう一週間か、と薊原は思い出した。
どんなテレビを点けても戦争特集ばかりで、ウミにどれを見せたらいいのかなんてみんなで真剣に頭を悩ませた、あの日から。
「こうやってさ、」
たぶん、瀬尾もそうだった。
「わけもわかんねーうちに戦争とかになって死んでくんだろうな、オレら」
「……どした急に」
「寂しーわ、オレ。フツーに。式ちゃんがいなくなったの」
ウミちゃんの気持ちもめっちゃわかる、と。
「こうやって大事なもんって全部なくなってくんだろ?」
珍しく、真剣なトーンだった。
締め切ったクーラーの部屋の中。じわりとそれでも陽気に汗ばんで、外の雲が流れていくのを見て今日の日の風を知る。
部屋の中にいれば、関係ないようでいて。
いつか、途轍もない雨を連れてくるもの。
「どーせこんな奴らいたっていなくたって同じだって思われてんだよな。だからゴミみてーに放り出されて、大事なこととか何も知らされなくて、自分じゃどうにもできねーことばっか上から降ってきて、頑張ってきたもん全部ぐっしゃぐしゃに踏み潰されんの。――オレさ、」
薊原は、瀬尾の顔を覗き込む。
全然、冗談という感じではなくて、
「そういうの悔しいわ、全部。フツーに」
こんなとき、式谷ならどうしただろう。
急に真面目な顔になった奴に――おどける余裕もなくなった奴に、何をしてやれただろう。
薊原は考えた。あいつなら。すかさず慣れない原付を吹かして悪い奴のところに飛び込んでお得意の殺人キックで全部解決してくれただろうか。それとも、そんなことないよ、なんてはぐらかして、今日の給食の準備に誘い出して色んなことを忘れさせたのだろうか。
そうじゃなければ、そんな気持ちも全部真正面から受け止めて。
優しく相手を抱きしめて、「大丈夫だよ」なんていつもの調子で囁いただろうか。
どれも、自分にはできそうにもなくて、
「……そか」
「うん」
流れゆく雲を、ただ眺めている。
作り物みたいに青くて、作り物みたいに白い。
そのころ、一階の職員室で一本の電話が鳴っていた。