小石は崖へ ②
目を開けると、まだ夜だった。
知らない人の車の匂い。知らない車の天井。後部座席に横になって、もう三日も足を伸ばして眠れていない。けれど窓は開いていて、少しだけ涼しい。それだけでこの間までいた空港前の無料駐車場よりはずっと『生きていられる感じ』がする。
その代わりに、虫がすごい。
首筋のあたりに触れる。蚊に食われたらしい。もう小指の腹くらいに腫れている。痒くはない。違和感があるだけ。爪の先で押して×印を作る。身体を起こす。身体が痛い。それでも多分、自分に気を遣ってリクライニングすら使っていない前の席の二人よりはずっとマシなはずだと思う。
ん、と二人とも首を動かした。
たぶん、眠りが浅かったんだと思う。自分と同じで。
「ちょっと外歩いてきていい?」
言えば、普段だったら止められた気がするけれど、んん、とか、ああ、とか曖昧な返事しか返ってこなかった。疲れているのだと思う。もう目が覚めちゃったから椅子倒していいよ、と言って扉を開けて外に出る。これで少しくらい横になってくれれば嬉しいのだけど、どうだろう。
登山口の駐車場だった。
だだっ広い、一体何百台停めるつもりなのだろうという広さ。それでも夜になれば実際にそれを埋めている台数はそこまで多くはない。車体が綺麗なのは多分、本当に上の方まで上っていって展望台で一晩を明かそうとしている人たちのもの。そうではないものは多分、ハーモニーの駐車場なんかと同じ。誰かが放置していって、適当にパーツを盗まれて、管理者が撤去費用を出せなくてそのまま放置。虫の声がする。この夏の暑さに耐えてかろうじてまだ生きられる場所で、静かに静かに鳴いている。歩いてきていいかと訊ねはしたものの、特に行く当てもなかった。木々にぐるっと囲まれて、幾つもの街灯だけが白っぽく輝く、寂しく割れたアスファルトの上。影が何重にもぼやけて、長く伸びている。その膝を踏もうとして歩く。音がするから顔を上げる。方向感覚を失った羽虫がいくつも光に突撃して、その熱で焼かれている。方向を変える。誰にも見つからないように端のあたりを歩く。車の中には他に誰もいないのだろうか。木々の間に切れ目がある。足元が見えないから安全を取って、少し遠くからその切れ目を覗き込む。
街明かりがある。
全然知らない人たちが作った、全然知らない街の明かり。
まだ昼間の熱を失い切っていない風が吹く。髪が揺れる。腰を捻る。かさ、と葉っぱの落ちる音がする。疲れが溜まっていることよりも、いつか疲れが取れるだろうという期待を持てないことの方が苦しい。山の斜面は急で、そのままふらふらと街の方に出たりなんてできない。できたってお金もなければ資格もないから、その中に混ざることなんてとてもできない。虫にも人にもなれなくて、それなら車に戻ろうか。そうしてまた無為に眠るだけの時間に戻ろうか。ぼんやり夜景を見つめながら、前から思っていたことを、いつものように、ごく自然に式谷湊は考えている。
早く死にたい。
最近は、隕石のことも考えなくなった。
□
ハリボテみたい、と思ったことは覚えているが、絽奈はどこをどう通ってその停留所に着いたのかは覚えていない。
中学校一年生のときだった。
どうしてもどうしても行きたい場所があった。大きな大きなプラネタリウム。どうして行きたくなったのかというとそれはとても単純で、プラネタリウムが出てくるSFのアニメを見たから。県内にあるとは知っていた。自分が転校してくる前に、二々ヶ浜に住む小学生は一回は行ったことがあるんだよ、とも。そしてみんな口を揃えて言う。どんなところだった?
なんか宇宙食みたいなの食べた。
プラネタリウムの感想は?
これはもう、自分で確かめに行くしかないと思った。その決意を告げると両親は大層喜んだ。なんだかんだ言って小学生の頃は平日五日のうち三日くらいは学校に行っていたのが、中学に入ってから三十日に一日くらいのペースに落ちていたから。こんなちょっと家を出るくらいのことで大喜びにさせてしまう自分もどうなんだとそのときは思ったけれど、流石にあの時点の二々ヶ浜中学校に通うのは無理だったし、許してほしいとも思う。入学式で殴り合いの喧嘩が起こるところでは、たとえどれだけ優しい友達に囲まれていたとしても精神が保たない。自分はそういうのに向いてない。湊みたいに「こわー」なんて言って他人事みたいに笑えないし、晶ちゃんみたいに「馬鹿じゃん」なんてクールに無視したりなんてできない。怖い先輩から絡まれたときに小松くんみたいに「ちょっとちょっとなんすかなんすか」なんて笑いごとにして誤魔化すのも、紬ちゃんみたいに「調子に乗ってんのはてめーだろコラ」なんて逆に突っかかっていくのも絶対できない。他の子たちみたいにIR街に出ていくなんてもってのほか。話を作って、文章を書いて、絵を描いて、音を奏でて、自分の世界に閉じこもる。それくらいしか、自分の守り方がわからない。
だから、一人でプラネタリウムにも行けない。
湊が「僕ももう一回行きたいな」と言ってくれたから、二人で行くことになった。
威勢よくいられたのは最初の頃だけだった。ちゃんと時刻表を調べて、電車からバスから乗り継ぎだって完璧。バス停からプラネタリウムまでの歩き方だってちゃんと地図アプリとストリートビューを使って調べてきていたし、任せておきなさい、とこぶしを握ったときは、湊に拍手だってされた。
でも、とにかく人が多かった。
プラネタリウムは決まった時間にプログラムを上映する。その合間を埋めようと展示コーナーを回っていたら、みるみるうちにわけがわからなくなってきた。くらくらする。情報量が多すぎる。段々自分が現実に生きているのか夢を見ているのかもわからなくなって、ものすごくぼんやりした気分になる。ベンチに座る。「大丈夫?」と訊かれる。もちろん大丈夫じゃなかったけれど、どうしてもプラネタリウムは見たい。折角ここまで来たんだから。
よたよたと湊に手を引かれて、受付のお姉さんに「気分が悪いのかな?」と小学生みたいな扱いをされる。湊が席を決めてくれて、端っこの方。右が湊で左が通路。こっちの方が落ち着くでしょ、と言われて、それからゆっくり星を見た。昔はこんなのいつだって見られたんだけどな、と誰かが言って、静かに、と釘を刺されていた。結構感動したと思う。具体的に何を見たのかはもう思い出せないけれど、そのことだけは覚えてる。
その帰りのことだったはずだ。
たぶん、行きとは違うルートで帰ることになったんだと思う。知らないバスの停留所にいた。ベンチに座って、夕焼けだった。湊の背中が見えた。電話をしていた。たぶん、うちの親に連絡してくれていたんだと思う。その向こう、全然知らない民家があった。プラネタリウムのある街は、ちょっとそこから外れると何だか大して二々ヶ浜と変わらないような田舎だった。電線、石塀、通り過ぎていく自動車を見ながら思う。
なんだか、ハリボテみたいだ。
自分たちがここに来ることになったから、誰かが慌てて作ったセットみたいだ。
二々ヶ浜に引っ越してくるときもそう思った。もしくはもっと前、初めて幼稚園から小学校に上がったときも。目に見えているものは全部見せかけで、不意討ちみたいに走り出したら何もないところが発見できるはずで、今こうして目の前で話している相手も、自分の目の届かない場所に行ったらその途端に電源が落ちて動かなくなってしまう。
自分の頭の外に世界なんてあるの?
本気で、そんなことを考えていた。
部屋にいるときも思う。自分のいるこの場所だけが世界で唯一存在している場所。六枚の平面が外枠を構成する孤立した空間。世界と繋がってるなんてただの幻で、本当は宇宙が出来てからこの部屋以外のものは何もない。それどころじゃない。宇宙なんてない。自分の部屋しかない。観測する主体はこの世に自分一人だけで、自分の意識の中だけに宇宙があって、自分が存在するためだけにこの部屋がある。
別にそれでいい。
自分がいれば、他に何も要らない。
「また来てみる?」
湊が、隣に座っていた。
どんな顔をしていたか覚えていないから、そもそも顔を見なかったんだと思う。声とか言葉も、細かくは。もしかしたら一から十まで単なる自分の記憶違いの可能性だってある。確かめてみなくちゃわからない。でも確かそのとき湊はこう言ったはずだし、いかにも言いそうだと思う。
「今度は平日に来てみようよ。僕も学校サボるから。そしたら、もうちょっとゆっくり見れるかもしれないよ」
そして自分は。
記憶にはないけれど、大体こういうときは昔からこんな感じだから、こんな風に答えたはずだと思う。
「――もう行かないっ」
えー、と湊が笑う。その顔を見ると、いつも「今日はそんなに悪い一日じゃなかったかも」なんて気にさせられてしまう。一生懸命がんばった。あんまり上手くいかなかった。でも楽しかったところだって確かにあって、それならそれでいいかとか、またもう一度やればいいやとか、そんな気にさせられてしまう。
家に帰って、ご飯を食べて、お風呂に入って、眠くなるまで電話して、寝た。
もう電話できなくなるかもなんて、そのときはまだ、考えもしなかった。
□
「今日も暑いね、ウミちゃん」
「あついね」
「ウミちゃんって暑いとか寒いとかあるんですねえ」
そりゃあるでしょ、と絽奈は言う。あるんですねえ、と羽生は言う。一年生。自分の動画のファン。最近そこそこよく話す。いっつもひんやりしてるからそういうのないのかと思ってました。ひんやり? ウミが羽生の顔に触れる。涼し~い。
八月二十二日の、もう火曜日のことだった。
火の曜日だけあって、人類を根絶やしにしようとするような強烈な太陽光線が降り注いでいる。しばらく雨も降っていないから気温の上昇は留まるところを知らない。グラウンドの土が乾きすぎて少しずつ割れ始めている。
そろそろ、と絽奈は思う。
学校来るの、やめようかな。
「あれ、絽奈来てる」
がら、と多目的室の扉が開く。晶だった。隣に三上。おはようございます、と頭を下げてくれるから、地べたに座ったまま絽奈も頭を下げ返す。おはよう。
「今日誰と来たの。紬、今日は来れないって言ってたけど」
「一人で来た」
「あっぶな。言いなよ。迎え行くから」
晶が隣に座る。三上がちょっと迷っている。羽生が自分の隣をだすだす叩く。先輩リスペクト、と言って最近はずっと長袖。三上が笑ってそこに座る。あのさ、と絽奈は言う。
「それ意味ないでしょ。私は学校来るとき二人になるけど、晶ちゃんはそれ迎えに来てくれるとき一人だし余計にリスク増えてるじゃん」
「それ式谷がやってるときも思ってた」
「思ってるんじゃん」
「ろなはふたりにふえるの?」
「増えない増えない。私は学校来るとき『晶ちゃんと』二人になれるけどって意味。真ん中のところ省略してるだけ」
「すご、絽奈。今の一発で自分が何言ったか思い出したの」
録音機能付きじゃん、と晶が言う。まあね、と絽奈は得意になる。最近は過去三十秒くらいの自分の発言はとりあえず頭の中に留めておけるようになった。ウミからの不意の質問にもちゃんと対応できるように。
お見事、と晶に拍手された。なんか花野ちゃん先輩って千賀上先輩に甘くないですか、と羽生が言う。その花野ちゃん先輩とかいうのやめろ。でも岩崎先輩が親しみやすいようにどんどん広めてって言ってました。著作権放棄だ。じゃあ平等に岩崎のこともいわちゃん先輩って呼べ。まだサキちゃん先輩の方がよくないですか、ねえミカちゃん同輩。桐峯さんも最近桐ちゃんって呼ばれてるよね。あれは中浦発でしょ、あと瀬尾もすごい人にあだ名付ける。
そういえば、というように三上が言った。
「あれからどうなんですか。千賀上先輩のチャンネル」
「全然戻らないんだよ!!!!」
「戻りません」
羽生が勝手に答えてくれたけれど、一応自分でも答えた。嘘になっていないか確かめるために、長袖のポケットから端末を取り出す。画面を点ける。すぐに出てくるのはメールの画面。上にスワイプ。ぐるぐる。同期して、
「音沙汰なし」
「そういうのって、何も来なかったりするものなんですか? 遅れてるだけ?」
「来るときもあるし、来ないときもあるらしいよ」
「なんですかそれ」
さあ、と言うほかない。たとえばSNSで「どうすればいいか教えてください!」なんて頼んでみたら万が一くらいの確率で何か役立つことを教えてくれる人もいるかもしれないけれど、正直なところ絽奈は、もうそこまでする気力がない。二度あることは三度あるを食らってこの有様なのだ。たとえここでちょっと延命したとしても三度あることは四度あるし、四度あることは五度ある。どう考えてもここをちょっと凌いだところで遅かれ早かれアカウントは消えるし、運営会社が体制を変えてくれなければどうしようもないし、そして自分一人が何かしたくらいで変わってくれるなら、これまでの数々の冤罪永BANクリエイターの訴えですでにこんな規約はなくなっているはずだ。
どうせ自分には何も変えられないし。
それならその場所を捨てて、新しいものを目指すしかない。
「そういえば絽奈、最近どうしてんの。新作とか」
「んー……学校から帰って家でちまちま作ってたんだけど、完成してすぐにこれになっちゃったから、今はちょっと充電中」
「えっ!? 新作あるんですか!?」
あるけど、と絽奈は答える。
「見る?」
「見――観てもいいんですか!? 私一人が!?」
じゃあダメ、と絽奈は言ってみる。面白いくらいショックを受けた顔を羽生がする。嘘だよ、と絽奈は笑う。今送るからそっちの端末で、みんなが寝てから一人で静かに観て。いや今観たいです。じゃああーげない。嘘ですかわいい羽生後輩はいつでも千賀上先輩の言うことを素直に聞き、みんなが寝静まったあと一人無言で鑑賞させていただきます。あの、僕も欲しいんですけど、羽生さんから貰ってもいいですか。いいよ、でもとりあえずここにいる人だけで、外に拡散したりしないでね。
「ウミちゃんも後で一緒に観ようね」
「ろなはおんがくがうまいよね」
「うーん、ウミちゃんほどじゃ……。あ、そうだ」
「マイク?」
「うん。何かそろそろ届きそうな気配出てきたから、それでウミちゃんの声撮ってパソコンとかで解析して、こっちもウミちゃんの方の言葉で喋る……みたいなことができるようになったらいいと思わない? 晶ちゃん」
「手伝えって言ってる?」
「うん」
いいけど、と晶は言った。よし、と絽奈は思う。ときどき夕方くらいに晶がウミを連れてプールに消え去る姿は目撃している。どうせ興味があると思っていた。水中マイクはそこそこの値段がしたから、これでいざ試してみたら自分の手には負えませんでしたで終わってしまうのは悲しすぎる。強力な助っ人。晶か湊のどちらかがいれば大抵のことは何とかなるのだ。
「でもほんと、最近全然宅配届かなくなったね。あ、羽生さんの方いま送った」
「うわー!」
「ラッシュガードも頼んだやつ全然届かないんだもん。発送の気配すらないし」
「え。絽奈、水着ネットで買ったの」
「え、うん。ダメ?」
「……キャンセル効くならキャンセルしといた方がいいよ」
「うそ」
「本当ですよ。僕も一時期ネットで服買ってたんですけど、最近消費者トラブルが多いみたいで。特に水着みたいな直接肌に触れるやつは信頼できる実店舗を調べて行ってからよーく見て買った方が――あ、いま羽生さんから貰いました。ありがとうございます。観たら消しておきますね」
うん、と頷きながら、絽奈は思う。えー、そうなんだ。そうなのか。今ってもうそういうのも買っちゃダメなんだ。メールボックスから通販サイトの購入履歴を探す。ページに飛ぶ。購入キャンセル。失敗する前に教えてもらえて助かった。じゃあちゃんとどこかに水着を買いに行かなくちゃいけないのかな。あの日びしょ濡れになったのは湊が「ごめんなさい、暑くてプール周りで涼んでたら二人で落ちちゃって」なんて代わりに言い訳して、やたらうちの親から気に入られてるからあらら仲良しだねえうふふふふなんて形に誤魔化してくれたけれど、流石に毎日毎日びしょ濡れのジャージで帰ったらものすごく怪しまれると思う。
今度は、言い訳してくれる人もいないし。
「……晶ちゃんは水着、どこで買った?」
「あの潰れたとこ。学校指定のやつもラッシュガードだし……ていうか絽奈も同じとこで制服買わなかった?」
「制服は買ったけど、水着はどうせプール入らないからいいやと思って買ってない……」
「あれ、千賀上先輩泳げないんですか?」
「ううん。なんか体温下がっちゃうからあんまり長い時間入ってられなくて」
「あー。ぽい」
「何、ぽいって」
「そういえばウミちゃんとプールに入ったときも結構早めに……あ、ごめんなさい。なんか観察してたみたいで。たまたまその、後ろを通ってったのを見かけただけなんですけど」
「私も近くにいたから見た」
あんな暑い日にあれだけであそこまで体温が下がるのはすごい、と晶が言う。
確かに、と絽奈は思う。あんまり外に出ないからわからなかったけれど、実は暑さに強いのかもしれない。そして寒さに弱い。冬はジャージの下に最低でもインナー二枚とセーターを着る。そう考えるとそもそも水の中にどっぷり入ろうと思うのが間違いなのかもしれない。でもあのときのあの感動は全身入っているから得られたものなんじゃないかと思う。そうでもないのだろうか。頭だけでもあの感動は得られたんだろうか。
「ろなはさむいのがきらい?」
ウミが言って、ちょっと距離を取られた。
いやいや、と思うから絽奈はそっちに距離を詰めた。
「苦手だけど、今はちょうどいいよ。ていうかクーラーの効きが良くないからウミちゃんが近くにいてくれた方が嬉しいよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
ウミがまたてこっとこっちに寄ってくる。流石にかわいい。ぺたー、っとそっちに寄りかかる。晶もなぜか逆側から寄りかかってくる。ウミちゃんは流れを認識したのか羽生に寄りかかる。羽生も三上に寄りかかる。うわー、とわざとらしい声を上げて、こてん、と三上がその勢いのまま床に転がる。ドミノ倒し。全員床に――と思ったら晶だけが流れを堪えて普通に座ったまま。何やってんの、と鼻で笑っていた。ぐい、とその腕を引く。ぱたん、と逆らわずに倒れてくる。なんですかこれ、と三上が笑う。
とりあえず明日までは来てみようかな、と絽奈は思う。
テレビから音が流れてくる。
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