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小石は崖へ ①


 その日、緒方由加利が式谷葵とともに難を逃れることができたのは、本当に単なる偶然でしかなかった。

 八月十八日金曜日のことである。その日は朝から信じられないほどの暑さで、午前七時半にカーテンを開けるとすでにベランダでは二匹のセミが並んでくたばっていた。窓を開けて換気しようなんて気もとても起きない。窓ガラスが今にもどろどろと溶解するのではないかと心配になるくらいの照り付け。光を浴びて、「んおー」と床に寝ていた生き物が息を吹き返す。跨いでキッチン台へ。コップを手に取ってシャー、と水道水を注ぐ。口の中をゆすぐ。

 ぬるい。

「おあーざーす……」

 早いっすね由加利さん、と葵が目を瞑ったまま床から起き上がる。洗面所借りやす、と言って返事も待たずにいつものように扉を開ける。開けっ放しにしたままぱしゃんぱしゃんと水で洗って、俯いたまま止まる。

「タオル忘れた。動けません」

「ご愁傷様」

 そんな~、と哀れっぽい声で言うから、クローゼットを開けてフェイスタオルを一枚手に取る。渡してやる。ぺんぺん、と顔に押し付けるようにして水分を拭き取って、ふはあ、とさっぱりした顔で、

「今日どうする? 何する?」

「展開が早い……」

 寝起きが良いんだか悪いんだか、いつまで経ってもわからない。たまに葵は、こうしてこの家に泊まりに来ていた。あれ以来。大学キャンパスが封鎖された日――つまり、自分に降りかかっていたハラスメントについて、大きな一歩を一緒に進んでくれた日から。

 バイト先近いしクーラー代浮くしお金払えばシャワーまで浴びさせてくれんだからこんないいとこありませんわナハハ、というのが本人の言だけれど。

 たぶん心配してくれているんだろうな、とも感じられるから、結構優しい気持ちで緒方は葵と共にいる。今にして思えば、あの日の自分は傍から見てかなり恐ろしいことになっていたと思う。今にして思えば、なんてフレーズが口にできることの幸福。

「とりあえず大学やってるか見てみてよ。今日は開くかもしれないし」

「絶対開かないね。賭けてもいい」

「何を?」

「老後の年金」

 そんなあるかないかもわからないものを賭けられても。

 口の中をゆすぎ終わったから今度は普通に水を飲む。やっぱりぬるい。ゼリーになりかけの液体をダイレクトに胃の中に入れているような気がする。今日はよっぽど暑い日になるんだろうな、と憂鬱な気持ちになる。

「はいやってなーい。由加利くんの老後の年金はあたしがいただきました」

「まだ更新されてないだけじゃないの。朝だし」

「じゃあなんで今確認させた?」

「寝ぼけてたから」

 どうせ情報更新があるにしても九時くらいでしょ。言えば、まあそのとおり、と葵は端末を置く。両手を背中の後ろについて、んあー、と肩甲骨を寄せて、天井を見て、

「アイス買いに行かん?」

 本当に落ち着かないなこいつ、と緒方は思う。

 熱学だとか統計力学だとかそういうのを、図書館の入り口のところから山と回収してきたらしいミスプリの裏に何時間もずーっと無言でカリカリ書き込み続けているのに、そういうのがないときは本当に一切止まらない。緒方は少なくとも自分では自分のことをそこまで活性が高くないタイプだと思っているので、一緒にいるとかなり変な感覚に襲われる。同じ人間でもここまで違うか。お互いの生まれたときの位置をそっくりそのまま入れ替えても全然同じ人生にはならない気がする。

 まあ、でも。

 今はそういう『落ち着かなさ』も、自分には必要なことだろうと思ったから。

「ちょっと待って。軽く顔作るから」

「要らんでしょ。何メートルだよコンビニまで」

「この間そう言って科博まで連れてかれたけど」

「何メートルだよ科博まで」

 知らないけど炎天下を二十分近く歩かされたし、仮にたかしくんは家を出てから時速四キロで歩いたら何メートルでしょう。とにかく十分待って、と緒方は言った。あたしも日焼け止めくらい塗っとくかー、と葵もぺたぺたやり始めた。途中で「もしかしてこの行為はコンビニに行くに留まらずに葵の遠出にふらふら付き合わされる丁寧な前準備なのでは」という気もしてきたが、途中で止めるのも何だか、と結局完遂してしまう。

 外に出たら、とんでもない暑さだった。

「うおー。死」

「……苦しい」

 まだ朝なのに、すでに気温が体温よりも高いのではないかと思われた。つまり熱の放出ができない。夏というのは本当に人を絶望的な気分にさせてくる季節だと緒方は思う。冬の寒さや積雪がそれほどでもない地方で育ったから余計にそう思うのかもしれないが、数ある季節の中でも夏はくっきりした絶望の形をしていると思う。寒さは身体を動かしたりすることで誤魔化せる部分もあるけれど、暑さは自力ではどうにもならない。動いても余計に苦しくなるだけで、ただじっとそれが過ぎ去ることを期待するほかなく、自分が何をしたところで何の意味もない。そういう形での窒息を突き付けてくる。

 八月十八日の東京は、真っ白な夏だった。

 このまま永遠に、この季節は終わらないんじゃないかと思わせるくらい。

 暑すぎる、と言って道の先を歩く葵は、なんと驚くべきことに舌まで出した。犬がしているのはよく見るけれど、果たして人間がそれをして何らかの効果が見込めるのだろうか。それとも小学生でも知っているあの偉大な物理学者のオマージュだろうか。あんまり一緒に歩いていると思われたくないな、と距離を開けながら、緒方はコンビニまでの道のりを歩いた。自動ドアが開く頃には舌を引っ込めていたから、そこでようやく並んだ。

 豪快に行こうぜ、と葵が言うので、レジでソフトクリームを二つ頼んだ。緒方は普通にチョコミントを頼み、葵は新しいものや季節限定ものを反射的に頼むという性質を持つため、スイカソフトを頼んだ。「スイカ……?」と緒方は葵を見た。「チョコミント……?」と葵は緒方を見た。暑すぎるのでそのままイートインで食べる。十分に涼んでから、もう一度コンビニの陳列棚を物色する。普通のアイスをじっと見つめて、無言で二人は頷き合う。流石にどれを取ってもスーパーに行った方が安い。

 しかしどう考えてもスーパーが開くには時間が早すぎた。このあたりに二十四時間開いているタイプのスーパーはない。早くて九時から。必然的にまた家に戻る羽目になる。再び道中の耐えがたい暑さに苛まれながら、クーラー消さなきゃよかった、と緒方は思った。

 家の前まで着くと、その逆のことを思うことになる。

 クーラー、消してきてよかったかも。

 パトカーが停まっていた。

「おいおいおい……」

 葵に手を引かれて、通りから横道に入った。葵が声を潜めている。尾行中の探偵みたいに身を潜めながら、向こうの様子を伺っている。

「見た?」

 訊かれて、何を、と訊き返した。

「いま警察が立ってたの由加利の部屋の前っしょ」

「うそ、ほんと?」

「ほんと。ちらっと塀の向こうから見えた」

 なんでだろう、とそこそこ暢気に緒方は思った。

 が、葵は違った。

「逃げるか」

「え」

「あたしの地元には『警察を見たら一目散に尻尾を巻いて逃げろ』という古いしきたりがある」

 えぇ、と流石に緒方は思う。父親が元警察官の人間が言う台詞とはとても思えなかった。が、そういう人間が言うがために変な説得力もある。

 正直なところ、最近の警察からは良い噂を聞かないというのもある。

「聞き込みだったらまた後から来るだろうし、一旦隠れるよ。ちょっとほとぼりが冷めて、なんで警察が動いてるか見極められるまで待とう」

「……隠れられなくない? 相手、警察でしょ?」

「そんなに必死でこっちを探してるわけじゃないだろうから、とりあえずは何とかなる。本気で身柄押さえにきてたら、コンビニ出てる間に留守になった部屋の前に立ったりしないし。見張りが付いてないってことだから、そこまで監視も捜索も厳しくない。多分、当面は」

 こっち、と手首を握られて、緒方は葵と走り出す。

「隠れるって、どこに?」

「……まー、短期戦ならそのへんの店の中でもいいんだけど」

 長期戦なら、と。

 振り向かないままで、葵は言う。

「大学の地下通路行ってみよっか。今封鎖されてるし、立てこもるにはちょうどいいっしょ」

 大袈裟な、とそのときはまだ、緒方は思えていた。

 その辿り着いた大学地下通路で、生まれて初めて、自分が指名手配されていることを確認するまでは。



『――大学構内で国家機密に相当する情報が漏洩したとして、警察は今月十八日、この件に関与した疑いのある複数の大学関係者の一斉逮捕に踏み切りました。現在逮捕者は百名以上に上り、今後もさらに増え続けていくことが予想されます。富沢官房長官はこの件に関し、十九日に記者会見で「国家の存亡に係る問題であり、このような事件が起きたことは大変遺憾」とし、「この国の安全と安心を守るため、政府として警察の捜査に全面的に協力していく」と事態収拾への意欲を語りました。

 また一方で、現在無所属の六原議員が今年六月から複数回に渡り公用車を用いて私的な旅行を繰り返していた問題について質問されると、「すでに離党した議員に関することであり、そうした個別の案件について政府としてはコメントする立場にない」「しかしながら一般論を申し上げれば、公用車の使用は公務に限るべきであり、与野党全ての議員が襟を正していくべきである」と答えるに留まりました。この件については野党『中立裁定会』が国会での追及に意欲を見せており、今後の政府の対応に注目が集まります。

 ――連日の猛暑が続く中、「暑さを辛さで吹き飛ばせ」をテーマに神奈川県で激辛B級グルメフェスが開催されました。会場は老若男女問わず大賑わいで、主催団体は――』

『いやあ、この暑さですからね! ぜひ皆さんには激辛料理で汗を流して、夏を乗り切っていってほしいと思っています』

『子どもたちの反応は――』

『美味しい?』

『すご、すっごいねー、からい!』

『からい~』

『からくて、んまい!』

『――グルメフェスは明後日まで開催しています。以上、報道フロアから最新のニュースをお伝えしました。CMの後は引き続き、スポーツと天気の情報をお届けいたします』


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