小石に躓く ④
「じゅうでうたれるって、なに?」
「銃はね、ウミちゃんがよくテレビで見てるやつあるでしょ。こう……『警察だ!』みたいな」
「じゅうはわかるよ。ずきゅーん」
「あ、そうそれ。で、『銃で撃つ』はこっちのずきゅーんの方で、『銃で撃たれる』はずきゅーんってされてうわああああの方」
「じゅうでうたれる、は、じゅうできずつけられる?」
そうそう、と多目的室で絽奈は頷いている。
窓の下。壁に背を預けて日差しの死角にぴったりと収まっている。隣にはウミ。他の生徒たちはそわそわテレビのチャンネルを変えたり、端末でニュースサイトを更新し続けたり。あるいは新しい布団を持ち出してきたり部屋一個専用に空けといた方がいいのかな、なんて相談をしたり。
すごいことになってきた。
だから自分の出番はない、と絽奈はウミとともに端の方に寄っておくことにした。何かできるわけでもないけれど、邪魔しないでいることくらいはまあ何とか。そういうやり方をこの夏合宿でちょっと学んだ。こうしていると突然湊に引っ張り出されることもあるけれど、今はいないし。
「なおす?」
ウミの日本語会話能力は、日に日に上達していた。
今のところ少なくとも、主語の省略とか、終助詞の使い方とか、そういうのを使いこなし始めているくらい。
「いいの? ウミちゃん、大変じゃない?」
「たいへんじゃないよ。ウミちゃんはなおすをすき。おもしろい」
「なーにが面白いの、ウミみん」
おす、と手を上げて会話に入ってきたのは瀬尾だった。
絽奈とは反対側、ウミの隣にしゃがみ込む。膝に腕を預けて、床にまでは腰を下ろさない。ヤンキー座りだ、と絽奈は思う。ほんとにする人いるんだ。
「なおすはおもしろい。じゅうでうたれたって、だれ? ウミちゃんはなおす」
「お、マジ?」
これ内容合ってんの、という目で瀬尾がこっちを見てくる。
から、絽奈が頷いて返せば、
「宇垣っつって、オレらの先生……なんつったらいいかな。保護者とか。わかる?」
「ほごしゃ、わからない」
「チカちゃん頼む」
「……意外と難しいかも」
ウミちゃんって、そもそもどのくらい集団のことを理解してるんだろう。
「まあ、なんだろう。色々教えてくれる人が先生かな。保護者は……危ないものとか、場所とか、そういうのから守ってくれる人とか。ご飯をくれるとかも近いかも」
「ろなはウミちゃんのせんせい、ほごしゃ?」
「え、」
思わぬ方向からの反応に、ちょっとだけ思考が止まる。
けれど、すぐにこうも思った。確かに自分は、ウミちゃんに日本語を教えているという点では先生に違いない。けれど同時に、それは海の中の言葉を教えてくれるウミちゃんについても言えることだから、
「そうだね。言葉の先生かも。でもそうしたらウミちゃんも私の先生だね」
「ごはんをくれる。ほごしゃ?」
「そういう風に見たらね。でも、ウミちゃんも雨の日に私たちのこと守ってくれたから、私たちの保護者だね」
「……ともだちはちがう、なに? せんせいと、ほごしゃと、ともだちは、おなじか?」
「あー……」
本当に意外と難しくなってきてしまった。ということは最初の説明の中で言葉の核を捉え損ねていたんだろう、と最近の経験を活かして、
「先生はね、ちょっと先を歩いてる人」
「さきをあるいてる」
「そう。たとえばこう……道の先に危ないところがあったら、『こっちは危ないよ』って後ろを歩く人に教えてくれる人。他にもいいところがあったら『こっちはいいところだよ』って言って、そこまでの行き方を教えてくれる人。で、それがただの道案内だけじゃなくて……意味がこう、広い。いつものやつ。もうちょっとぼやーっとして、全体的にこんな感じだよってこと」
「その説明でウミちゃんわかんの?」
「ちゅうしょうてき?」
「わかっとる……」
すげえ、と瀬尾が言う。ウミちゃんはすごいよ、と絽奈は勝手に代理で胸を張る。でも多分、とも思う。まだウミちゃんはよくわかっていない。抽象的、と頷けばちょっと考えるようなまなざしになる。多分また、テレビを見たり他の人と話したりして、この言葉が指す意味の範囲について、自分の中で整理を付けていくのだろう。
「ほごしゃは?」
「保護者はね、後から来る人が道を歩くときに、危なくないように守ってくれたり、ちゃんと歩けるように一緒にいてくれたりする人」
「あ、その説明上手い!」
へへ、と絽奈は瀬尾からの賛辞を素直に受け取る。
「ともだちとちがうは?」
「友達も先生とか保護者みたいにお互い道を教え合ったりとか守り合ったりとかするけど……。うーん、程度かな」
「ていど」
「どのくらい先にいるかってこと。同じくらい教え合ってたら友達っぽい。どっちか片方がたくさん教えてたらその教えてる方が先生っぽい。別に『先生なら友達じゃない』とか『友達なら先生じゃない』ってこともないから、より『っぽい』方を選ぶ感じ」
黒板を使って図を描いたりした方がこのあたりはわかりやすく説明できるかもな、と思うけれど、ウミはそれだけでまた考え込むような仕草を見せる。あんまり本人がちゃんと考えているときに横から余計なことばかり言うのも良くないだろう。そのまま待つ。待っていると、瀬尾が言う。
「さっきウミちゃん、マッドサイエンティストみてーなこと言ってなかった?」
「……『なおすはおもしろい』?」
「ウガちゃんの話?」
そう、と頷く。
あー、と瀬尾は、
「そうだよな。なんか全然頭から抜けてたけど。ウミちゃんに一緒に行ってもらえばよかったのか。んで薊原みたいに治してもらえりゃそれで」
たぶん、と絽奈は思う。
全員が全員、頭から抜けていたわけではないと思う。特に湊や晶なんかは思い付かないはずがないし、あえてウミに頼るという選択肢を温存したのだ。事前に――下川との電話を切った後――病院に問い合わせをして「命に別状はない」という回答が得られていたから。差し迫った状況だったらわからなかっただろうが、今ひとまずは考える余裕があると判断したから。
確かに、ウミちゃんに治してもらえるならそれが一番良いけれど、
「なおす?」
「……うーん。ちょっと考えさせて。その宇垣って先生は、私たちとはちょっと違うから。ウミちゃんのことを知られるとどうなるかわかんない」
わかった、とウミは頷く。このあたりのことはもう理解してくれているらしい。自分たちはそれなりに上手くやれているつもりだけれど、全ての人間がそういう風にできるわけではないだろうと自分たちが考えていること。そしてウミちゃん自身も多分、そういうことで発生する危険について、思いが及んでいる。
まあそっか、そうだよな、と瀬尾は、
「個人的に宇垣は大丈夫な気がすっけど……って、もしかして下川とかもこっち戻ってくんのかな。だったらまた一から説明か?」
あれ意外と大変なんだよなあ、と言う。
全然意外でも何でもない、と絽奈は思う。これまでも合宿に新しく加わる子はいたけれど、そのたびにウミちゃんの説明をするのはものすごくハラハラした。湊はいつも「大丈夫だよ」なんて笑うけれど、一体何の根拠があるんだろうと思う。確かに今のところは奇跡的に何の問題も起きていないわけだけど、それって単なる奇跡なんじゃないの。
湊なら、ウミちゃんの申し出を聞いたらあっさり応えてしまうだろうか。
宇垣先生のこと治してくれるの?
ありがとうウミちゃん。夜になったら自転車で連れて行くよ。
「まあでも、どんどんこっちは借りばっかになっちまうな」
夜の間にこっそり行くならいいかも、なんて思ったところで瀬尾が話を変える。かり、とウミちゃんが訊ねる。
「こっちばっか助けてもらっちゃってるよなってこと。ごめんなー。まだ友達見つけらんなくって。一応向こうにいる奴らでまだ連絡とれる奴とかには訊いてみてるんだけどさ」
瀬尾はよく、こういうことを口にする。
不良なのに意外となのか、それとも不良だからなおのことなのか、不良文化には流石に詳しくないから絽奈にはわからない。けれど瀬尾は『友達が怪我を治してもらったこと』『それなのに何も返せていないこと』がずっと気にかかっているらしく、ウミのいるところでもいないところでも、小まめにこういうことを言う。いないところではみんなこう応える。ねー。何とかしてあげたいよね。いるところでは、ウミはこう応える。
「だいじょうぶ。のんびり」
元々なのではないか、といつも絽奈は思う。
ウミのこういう鷹揚さは、単にこちらの言葉に対する柔らかい気遣いだというだけではなく、たとえば寿命の長さとか、そういうのに由来するものではないだろうか。魚は百年とか、それ以上とか生きる種類だっているという。深海に住んでいたりすればもっと長いイメージ。もしかしたら数百年とかを生きるのかもしれないし、この夏のことだってウミにとってはほんの一瞬のことで、もしかしたらずっと、ずっとずっと長いこと、自分たちよりもずっと長くを生きるのかもしれない。
金魚と違って。
遠い夏が、頭を掠める。
「千賀上せんぱ~い……」
入り口の方から、名前を呼ばれた。
萩尾だった。雨の日の夜に二人で真っ暗なトイレに一緒に入った中。あれからちょっとだけ打ち解けた後輩が、多目的室の扉を半開きにして、小声で呼び掛けてきている。
ちょっと来てください、というジェスチャー。
立ち上がって、ちょっと行ってあげることにした。
「どうかした? 雑用なら何もわからないけど」
「な、なんですかその自信満々は……」
別に千賀上先輩にそんなの期待できないです、と萩尾は言う。なかなかこいつは失礼な後輩だ、と絽奈は思う。たとえそれが単なる事実だったとしても。
「あの、なんか今、職員室に人が来てて」
「あ? 説教ジジイか?」
いつの間にか瀬尾が隣に来ていた。説教ジジイ、と頭の中で絽奈は繰り返す。いっぱいいそう。特定の人間を指すあだ名だろうか。萩尾は、
「いや、なんかもうちょっと若っぽい人で、式谷先輩のお父さんだって言うんですけど」
瀬尾がこっちを見た。
なぜこっちを見る、と絽奈は思った。
「式谷先輩がどこにいるかって訊いてきてるんですけど、本人かわからないじゃないですか。で、とりあえず佐々山先生が電話終わったら確かめてもらおうと思って外で待ってもらってるんですけど、全然終わる気配なくて……」
ああ、と絽奈は頷く。
「私が顔確かめて、本人なら教えちゃってほしいってこと?」
「正解です」
急に偉そうになった萩尾の上履きを軽く小突いた。うわあ骨折した、と萩尾が笑う。軟弱者め、と捨て台詞を残して絽奈は多目的室を出る。すぐ振り向く。
「どこ?」
「見切り発車すぎる、この先輩……」
「待て待て。直で行くなよあぶねーから」
そのへんから見えねーか、と瀬尾がすぐに絽奈を追い越した。多目的室の前、ベンチの置かれた夏灼熱冬凍える謎のスペースに踏み入って、少し高めの窓から外を覗き込む。
「車ある。あれで判別できねえ?」
できる。
と、思ったから絽奈はその隣に立った。
日の照り付けたロータリー。誰一人その真昼の中に立てないのではないかというくらいの眩さ。揺れる陽炎。昇降口のコンクリートの庇が今にも燃え出しそうなくらいの熱を蓄えて、庭の草木はもういい加減気候に耐えられずに萎れ始めているように見える。暑すぎて、セミの声すら聞こえない。
夏。
青い車。
「――ちがう。知らない」
「えっ」
「おいおいおい……」
今度はこっちかよ、と焦ったような口調で瀬尾が言った。
「オレ見てくるわ。萩尾、そいつ今どこにいんの」
「あ、職員室の前の玄関のとこに……」
おっけ、と言って瀬尾が動き出す。流石に、と思うから絽奈も動く。ウミちゃん、と言って手招きをする。ウミが人から猫に変わる。生徒たちの足元をするすると駆け抜けて、ぴょーん、と腕の中に飛び込んでくる。
「ちょっと怖い人がいるかも。一緒に来てくれる?」
こくり、とウミが頷いてくれるから、ありがとう、と絽奈は返した。
たたた、と軽やかに階段を駆け下り――られたらよかったけれど、そんなに身軽な運動神経は持ち合わせていない。ウミを手に抱えているから手すりも持てず、ふらふらよたよた階段を下りていく。踊り場で息を吐いて、それからさらにもう半分。右に曲がれば廊下は真っ直ぐで、すぐに目に入る。
あれ、と思った。
「あの、」
「――絽奈ちゃん」
違ってなかった。
そこにいたのは、湊の父だった。
左手に財布を持って、右手には免許証を掲げている。対面の瀬尾は「話違くね?」という顔でこっちを見ていて、ごめん、と絽奈は思うけれど、
「あれ、でも車違うやつで……」
「ん。ああ、それでか。ごめんね。紛らわしかったな」
君も、と瀬尾に言う。ああいや、と瀬尾は応える。ええと、と絽奈はちょっと言葉を詰まらせる。なんて呼べばいいだろう。いつも悩む。千賀上家の中では昔から湊くんパパで通っていたけれど、流石に中学三年生になった今、面と向かってそう呼ぶ気にはなれない。おじさんとか?
「湊が今、どこにいるかわかるかな」
それを決める前に、質問が来た。
不審者ならいざ知らず――それから、本人と仲の悪い親ならいざ知らず、湊くんパパになら言っても構わないだろうと、そう思ったから、
「今、病院です」
「……病院?」
「はい。あ、でも、湊が調子悪いとかではなくて。ニュース見ましたか? あの、発砲事件のやつ。あれ、撃たれたのがうちの先生で。そのお見舞いに」
すうっ、湊くんパパの顔色が悪くなっていくのを絽奈は見た。
それはそうか、と思う。事件は起こったばかりだし、日常茶飯事みたいになっているから色んな人が見逃がしているだろうけど、学校の先生が銃で撃たれて入院なんて、ちょっと前までだったら全然普通じゃない。はず。もう自分ではよくわからないけど。うちの親だってニュースを見てそれがそういうことだとわかったら、今すぐ学校まで車で迎えに来てしまうかもしれない。佐々山先生が対応している電話っていうのもたぶんそれだ。おじさんがそうなるのも頷ける。
「病院はどこの――いや、入院だったら市立病院か」
「あ、えっと。あそこです。みな――湊のお母さんがいる、あの大きいところ」
「そうか。わかった。ありがとう。君も……それから学校の子たちも悪かったな。顔がわからなかったら怖かっただろう。脅かして申し訳なかった」
いや全然こっちこそすんません、と瀬尾は言う。それじゃあ申し訳ないんだがもう行くから先生にはよろしく伝えておいてもらえるかな。うす。おじさんが免許証を財布の中にしまう。その財布も上着のポケットにしまう。空調服。今は動いていないけれど、涼しいんだろうか。涼しいんだったら私も欲しいなと思う。
じゃあ、と言っておじさんが外に出ていく。
ものすごく強い日差しに当てられて、一瞬白く色が変わったようにすら見えた。右手で頭に庇をして歩いていく。ロータリーに停められた青い車。鍵を開けて、ばん、と乗り込んでいく。エンジンがかかる。熱風を残して、校門の向こうに消えていく。
「全っ然、」
瀬尾が、
「似てねえのな。式ちゃんと式ちゃんパパ」
え、そうかな、と絽奈は応える。あんまり意識したことはなかった。湊は湊くんパパと湊くんママ、どっちの顔に似ているだろう。
「いやそうじゃなくて、雰囲気が。オレさっきチカちゃんが来るまで『やべえやっちまったかも』ってビビってたもん。殺される~と思って」
「そうかな。全然優しい人だと思うんだけど」
「そりゃチカちゃん相手ならそうかもしんないけど――てかおい! 違うとか言っといて全然本人じゃん!」
無駄にビビらされたわ、と瀬尾が言う。
珍しい剣幕だけどこれは今までより打ち解けてきたってことだろうなと思うから、ごめんって、と笑ってウミちゃんに庇ってもらうことにする。ウミが瀬尾に肉球を向ける。おいずりぃぞ、と瀬尾が言う。ありがとうウミちゃん、と御威光にあやかりながら、そういえば、と二つのことを絽奈は思う。
ウミちゃんのこと気にならないくらい急いでたのかな、ということ。
結局あれって誰の車なんだろう、ということ。
□
顔面蒼白の教頭が病院に転がり込んで来て、それから色々な手続きが始まった。
式谷と、それから結局涼んでいるうちに次の仕事が降ってきてしまった花野の二人が主に状況の説明をしたり、病院の関係者を呼んできたり。そういうことをしている間にすっかり下川も落ち着き始めたから、薊原はその背中を最後にぽん、と一回叩く。
「秋村と和島はもう起きてんのか?」
「どうだろな。わかんね」
隣の鈴木に訊ねかけるが、病院に入ってきてからずっと一緒にいたわけだから当然こっちが知らないことをそっちが知っているはずがない。だよな、と薊原は立ち上がる。待合室にかけられた無機質な銀色の時計。針が指しているのはまだ十時ごろ。
随分長い一日だな、と思うし。
流石に昼飯前にはある程度解散することになるだろうとも思ったから、薊原は腰を上げた。
「ちょっとここ頼むわ」
「おー」
どっかそのへんにあるだろ、と思って歩き出す。待合室の椅子の合間を縫って、とりあえず暗い方へ。廊下は蛍光灯が一個飛ばしになっているし、湿気もある。エレベーターの前を横切って、清掃中の便所も過ぎ去る。どうも診療エリアなのか作業場っぽい気配が漂い始めて、こっちじゃなかったか、と戻る。エレベーターの前にフロア案内が書いてあった。初めから読んどきゃよかった、と目を凝らして、もう一度歩き出す。
地銀のATMコーナーの奥にあった。
コンビニ売店。
セルフレジには誰の姿もなかった。小さい籠を手に取って、一直線に飲み物の棚へ。そこそこでかいところだから、十本くらいなら取っても問題ないだろう。開けて、すぐにスポーツドリンクに手をかける。同じのばかりだから種類別に三本、四本、三本。後何人いたっけ、と頭の中で数え直して、数本調整。教頭はこういうのを受け取るかわからないけれど、受け取らなかったら帰ってウミにでもやればいいだろう。自分の分は炭酸。セルフレジへ。ちら、とバックルームの方から七十どころじゃない、下手したら八十くらいだろうか、よぼついた婆さんが顔を出す。いらっしゃいませえ。っす。何か言われるのかと思ったけれど、単にやり方がわかるかどうかを確かめに来ただけだったのかもしれない。すぐに婆さんは戻っていく。そうじゃなきゃ「ちょろまかそうったってここは無人売店じゃないんだからなクソガキ」というメッセージだったか。そもそも店員じゃなかった可能性もある。最近は生活苦に耐えかねての老人の強盗も増えてきた。
レジ袋は一枚五百円。流石にいいだろ、とそのまま会計。
オレもこんなことができんのはいつまでだろうな、なんて思いながらペットボトルを両手に抱えてコンビニを出る。そもそもこんなことをしていい立場なのかもよくわからないが。
「おい、誰かヘルプ。指攣る」
「うお、太っ腹?」
待合室に戻ったら、すぐに鈴木が半分持ってくれた。どいつもこいつもこれからこの炎天下を学校まで帰ると考えたら、少なくとも水分補給くらいはしておいた方がいい。どもっす、と何人かはこっちを見て礼を言う。財布を取り出そうとする奴には「いいから」とだけ言う。何も言わない奴もいる。まあそうだろうな、と薊原は思う。金の出所にちょっと頭が回るなら当たり前だ。下川にも「ん」と押しやってやる。ども、と声なく唇が動いたけれど、動揺しすぎて疲れ切ったのか、あまり動く気配はない。膝の上に乗せてやった。
後は、と四本を抱えながら、受付の奥に消えていった奴らのことを考える。
ガー、と自動ドアが開いた。
「ん、」
見覚えがある、と思った。
一人の男が受付に向かっていく。何事かを語り掛けている。ピンと伸びた背筋。親しいというわけではないけれど、最近世話になった人だから覚えている。
「どした。知り合い?」
「あれ、式谷んちの親父」
えっマジすか。
妙な食いつきで数人が寄ってくる。どれどれ。あれ。へー。なんかそれっぽいかも。どれだよ。眼鏡忘れてきたからよく見えない……。受付の職員が電話をかけ始めた。多分内線。しばらく式谷父はそこで立っている。待っている。やがて、一人の女が現れる。
そっちにも見覚えがある。
「お、あっち母親。ここに勤めてんのか」
「へー……。どっちも雰囲気違うな」
へらへら笑ってねえもんな、と薊原は思う。何事かを式谷父母は話し合っている。その末に、式谷母がまた廊下の奥に消えていく。入れ替わりで、
「あ、式谷先輩も来た」
「家族勢ぞろいじゃん」
「いや式谷って姉貴いるぜ。なんかすげーのが」
すげーって何すか、なんて話をしていると、式谷がこっちに気付いた。何見てんのしっしっ、という顔。あいつ恥ずかしいとかそういう感情あったんだなと薊原は思う。
何かを式谷父が言う。
「――は?」
珍しく、本気で驚いたような声を式谷が出した。
何の話してんだろ、とぼんやり眺めている。まだ何かを式谷父が言っている。声が小さくて全然聞こえない。式谷母が戻ってくる。さっきまでとは違う。看護師の制服を着ていない。カジュアルな私服。式谷父が何事かを口にして、式谷母が頷く。
式谷は何も言わない。
大人に挟まれて置いて行かれているようで、へえ、とやっぱり薊原は思った。
あいつでも、そういうことあるんだな。
「急ぐぞ」
それだけは、式谷父の言葉の中でもはっきり聞き取れた。言葉のとおり、早足で動き出す。式谷母も続く。式谷がこっちを見る。何か、と薊原は思った。緊急で家族の用事でもできたのだろうか。
だったら、
「こっちなら心配すんな。やっとくから」
軽く手を上げて、式谷に言ってやった。
もちろん自分が式谷の役割を完全に把握しているわけではないし、実際代わりに何かをすることになるのは花野とか洪とかそのへんになるだろう。が、別にこんな後押しなんて誰がやったっていいはずだ。
行ってこい、と手を振る。
式谷はほんの一秒、間を開けて、
「――うん。あと、お願い」
父母の背中を追って、自動ドアを出ていく。
病院の待合室は妙に開放的で、ガラス張りの一面から外が見える。ガラガラの駐車場。灼けたアスファルト。天国みたいな量の光が降り注いで、陽炎の奥で夢のように街が揺らめいている。
真っ青な車に三人が乗り込む。
「何だろな。あんな急いで」
鈴木が言う。な、と薊原は応える。ちょうどその頃になって花野が戻ってきた。終わったのか、と訊くと、いま教頭が書類埋めてる、と答える。式谷は、と花野が訊ねてくる。ん、と親指で差す駐車場。車はすでに去った。何の影もない。
薊原は、短く答える。
「どっか行った」
まさかこのときは、そのまま音信不通になるなんて、夢にも思っていなかった。




