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小石に躓く ②


 嫌なことは手を繋いでやってくる。

「夏合宿実態調査?」

「そう。そうなんすよ花野主任……この哀れな新社会人を助けて……」

 絽奈の動画チャンネルが爆発して二度と戻らなくなって、その次の日のことだった。

 本人がケロッとしているから大して深刻な空気にはなっていないけれど、どう考えてもあれは嫌なニュースに違いなかった。この間までちゃんと生活の糧を持っていた人間が、急にそれを失う。そのときの衝撃は母が市役所から一方的に解雇を告げられた日のことを思い出させたし、絽奈ばかりがやたらにケロッとしているのはあの日の――「え、でも今のうそだよね」の瞬間も思い起こさせる。二方面から嫌な瞬間のことを掘り起こされて花野は、これから今日の昼の給食当番まであると思うと憂鬱が深まって仕方がない。

 その上、ちょっと職員室に来たらこれだった。

 水みたいなうっすいアイスコーヒーを横に置いて、佐々山が机に顔を突っ伏していた。

「何ですか、それ。聞いたことないですけど」

 適当にそのへんの椅子を引き寄せて座りながら、花野は訊く。座面が固い。木の板に座っているのと大して変わりがないのではないかと思う。

「それがさあ……あ、ごめん。先にそっちの用事でいいよ。何かあった?」

「いや、こっちは大したことないです。トイレのハンドソープが切れそうだったから詰め替え持ってきておこうと思っただけで」

「ああ、倉庫?」

 はいはい、と言って佐々山が席を立つ。職員室の奥。腰くらいの高さに、ずらっと横一列、鍵がフックにかけられて並んでいる。流石に夏合宿も後半に入って勝手に慣れてきたのか、迷いなく倉庫の鍵を取って、

「あ、」

 と佐々山は、

「あのさ、ここの鍵って何があったかわかる?」

「どれすか」

「これ。なんか一個だけ空いてるんだけど、どこの鍵なのかわかんなくて」

 花野も席を立つ。佐々山の近くに寄る。確かに鍵が並ぶ中に、一つだけぽっかり空いたフックがある。上に赤いテープで何かが書いてあったらしいけれど、今はすっかりボロボロに色褪せてしまって、文字は読み取れない。

「さあ。なくしたんですか、先生。ヤバいですよ」

「……懲戒免職ですか」

「冗談ですけど。宇垣先生はなんて?」

「『知らない』って」

 宇垣が「知らない」で済ませるなら、大したことではないんだろうなと思う。自分に話が来る前に教頭のところに報告に行っているだろうし、仮に昇降口とか裏口とか、その手の外から侵入できるところの鍵だったらもうとっくの昔に扉にバリケードを張って持ち手に有刺鉄線をぐるぐる巻きにしてどこかしら封鎖していることだろう。

「前から空いてたんじゃないですか。ここのとこ、なぜか端の方にに何の鍵もかかってないやつ結構ありますし」

「あー。ね。なんでなんだろうねそれ。普通作りすぎるとかないよね」

「公用車の鍵とかかけてたんじゃないですか。あとは分電盤の鍵みたいに別の場所に隠し直したとか……あと、私もよく知らないですけど校舎の改修も入ってるらしいし、そこで使う鍵の数が減ったとか」

 ぴゅう、と佐々山が口笛を吹いた。名探偵、と。なんだそれは、と思うから背中を小突く。へへ、と佐々山は笑う。全然大人っぽく見えない。昔、小学校にやってきた教育実習生の方がまだ教師っぽかった気がする。

 まあいいや、と倉庫の鍵を受け取って席に戻る。

「で、なんですか。合宿指導って」

「……あのー。言いにくいんですけど。このあいだ花野さんがうっかりヤバいおっさんにエンカウントして危機一髪だったって話あったじゃん?」

 うわ、と花野は思わず口にした。

 うわなんすよ~、と佐々山は言って、

「そいつがまた大暴れし始めたんだって。今度は学校じゃなく市教委の方に乗り込んできて昼から延々六時間とか? で、何とか宥めて帰らせたんだけど変な宿題出されたらしくて」

 ほら見てよこのメール、と佐々山は言う。

 いやメール見せちゃダメか、とも言う。見せちゃダメだろ、と花野も思う。

「何が何でも学校にケチつけたくて堪んないみたいでさ。夏合宿とか何とか言ってるけど学校を生徒が私物化してるんじゃないかとか実態を調査しろとかうるっせーの。んで市教委も『まあまあそうですねそうします』とか言っちゃったらしくてこっちにアンケート取ったりしろって言ってきてるわけよ」

「はあ。まあ、印刷して生徒に配ったり回収したりとか、問題ない範囲での集計くらいなら手伝いますけど」

「いや、そのアンケートからまずこっちで作るらしくて……」

「はあ?」

 はあなんすよ~、と佐々山は言う。

「なんですかそれ。意味不明なんですけど」

「意味不明なんすよねえ。『本件は議会でも取り上げられる可能性があるため、現場の実態に即した調査結果を報告する必要があります』『そのため議員説明資料の作成については学校側にお願いしたく、二十一日月曜日午前九時までにご提出願います』……あのあのあのあのー! 今日金曜日なんですけどー!」

 だかだかだかだか、と佐々山が机を両手でリズミカルに叩く。

 マジでなんなんだそれ、と花野は呆れた。

「いいように使われてるんじゃないですか。『自分でやれ』って突っ返せばいいじゃないですか。それ学校の仕事じゃないですよね」

「ねー。議員対応とかそんな一番どうでもいいやつそっちでやってくれよと思うんだけどね。市教委は市教委でいっつもメールしてくるの休日の昼間とか深夜とか……うわ見てこれ。送信時間午前三時十二分」

 かちかち、と佐々山がマウスをダブルクリックする。見せちゃダメってさっき言ってただろと思うから花野はそのまま動かないで、

「メール見てないからわかんないですけど、調査資料作れって言われてもどこでどういう風に使うつもりなのか聞かないとどうしようもないですよね。『あなたは学校にきて楽しいですか』で『はい』が何パーセントとか『いいえ』が何パーセントとか、そんなの欲しいわけじゃないでしょうし。元はと言えば私のせいなんで、仕様っていうか要求内容だけ確かめてもらえればこっちで適当に作りますけど」

「いやいやいやいや、ないないないない。今までの報告書読んどいたけど、どうかしてるでしょこのおっさん。こんなんに怒鳴られて『私のせい』とかそんなのないからね」

 ただの被害者です被害者、と佐々山は言って、

「まあ、何にせよ教頭……はまたしばらく出張続きだから、宇垣先生に相談かなー。市教委の担当の人、さっき電話かけたんだけど離席してて折り返し午後以降とか言われちゃったし」

 あれ、と花野は思った。

 そういえば、と黒板を見る。在席予定表。

「今日って宇垣先生、朝からいる日じゃありませんでしたっけ」

「ああ、うん。来てたよ。でもなんかまた電話かかってきてIRの方行っちゃった。戻りの時間も未定。今日は私の方が泊まる日だからいいけど」

 すごいよねえ、と溜息を吐くように、

「私なんか、学校に来られるような子たちの対応とか書類仕事だけでも精一杯だし。あっちの荒れてる方の子たちのフォローまで回る気力と体力はなかなか……あ、それともちろん学業の方も」

 いつもお世話になってます、と深々佐々山が頭を下げる。

 いえいえ、と下げ返してから花野は、

「それじゃあ今日、夏季講習はこっちでやっておきますか」

「え。……あー。そっか、宇垣先生がやるつもりだったのか。うん、ごめん。自習にしておいて。私もこっちの資料作成やらなくちゃいけないし、フードバンクの人との打ち合わせも入っちゃってるんだよね」

「学校でですか?」

「そう。えーっとね……うん。一時半。だけどお互い結構カジュアルな感じでやらせてもらってるみたいだから、もしかしたら給食の様子見たいとかでちょっと早く来るかも。大丈夫?」

 大丈夫です、と花野は席を立った。お疲れさまです。お疲れでーす。職員室を出る。明るい、いかにも夏らしく陽気の籠った一階の廊下をまっすぐ横切って渡り廊下前の倉庫に。がちゃり。空気中で茹で卵を作る実験でもしているのかというくらい暑い。生温かい詰め替え用ハンドソープを手に取って再び職員室へ。うーん、とパソコンの前で頭を抱える佐々山を尻目にクーラーと扇風機の風がダブルで重なる場所で三十秒間涼んで、また職員室を出て三階に上ってトイレに入ってハンドソープの詰め替えを横に置いて誰かやっとけよというメッセージを打ち出して二階に降りて多目的の扉に、

 手をかけて、開ける。

「あ、花野先輩、こっち!」

 大人気だな、と思った。

 桐峯だった。来てください、と言ってぴょんぴょん跳ねている。最近は式谷が何にでも可愛い可愛い言っている心理が少しずつわかってきた気もする。来てやる。テレビの前で、ウミが座っている。ちょっと振り向いたから「おはよう」と言えば「おはよう、あきら」と返してくれる。結構、名前をちゃんと呼ばれるのは嬉しい。

 テレビの画面を見る。

『このような形で全国に先駆けて地域活性に取り組んでいた商店街は、しかし今――』

「これ桐峯の好きなやつじゃん」

 そうそうそうそう、そうなんですよ、と桐峯が後ろから引っ付いてきて肩を掴んでくる。揺らしてくる。どうして私の後輩はみんな段々加減をなくしていくのだろうとぼんやり思うけれど、ぼんやり思うだけだから桐峯のはっきりした言葉に掻き消されてしまう。

「これ、ひどくないですか!?」

『政府は十日の記者会見で、「こうしたいわゆる物々交換による経済活動もまた、規模が拡大してきたことで個人間であっても課税の対象として捉え直す必要が出てくる」と見解を示しました。また、江柄財務大臣もこのことについて「工夫していると言えば聞こえはいいが何事にも限度がある」「国民には程度を弁えてやってもらわなければならない」と発言し、会見場では記者から多数の賛同の声が上がりました。すでにこうした活動は全国に広まっているところで、対応に苦慮する地域も――』

「対応に苦慮するって、なんでこんな他人事みたいな言い方なんですか! 大体勝手なこと言ってるのはいっつも――」

「桐ちゃん、どうどう」

 耳がキーンとなったところで、中浦が桐峯を宥めにかかる。花野は両耳を手のひらで押さえながら、テレビに映る字面を追っていく。

 前に色々ニュース特集が組まれて話題になった運動だ。消費税が高すぎるから、物々交換で経済活動を行って出費を抑えよう。地域社会で助け合おう。これが地域再生、共助の精神、日本人の絆、資源がなくとも工夫で何とかしてきた江戸から続く古き良き国民性。そんな感じの推し方をされていて、実際、できる場所では少しずつ広まってきたやり方だったらしいけれど、

 まあ、と花野は思う。

 そりゃそうなるだろ。

 桐峯がこのニュースを見るたびに「うちもやりましょうよ、ね!」と毎回嬉しそうに言うからあえて強くは否定はしなかったけれど、増税増税増税負担増負担増負担増で進んできている中でこんなあからさまに税金を回避する手段が取り沙汰されたなら、そんなの対策してくるに決まっている。自分たちは国が優遇したいと思う層の中に入っていない。そして、前から思っていたことだからこの後の流れのことも花野には何となく想像できる。これが通ると物々交換によるメリットはなくなるし、それどころかその物々交換に関する帳面をいちいち付けるのが明らかに難しいから、絶対に経済活動のやり方としては廃れていく。取引は金銭を媒介する形に絞られる。貨幣には交換の機能があると社会でやったけれど、何かを交換するときに必ず金銭が――見方を変えればその発行元の政府が――介入してくるというのは結構不気味な気がする。そのうち絽奈と薊原が玉ねぎやらピーマンやらを式谷の皿に移しているのも介入の対象になるんじゃないだろうか。BIG BROTHER IS WATCHING YOU! これなんだっけ。 

 がらり、と扉が開いた。午前は八時。

「おはよー」

「おはよう」

 式谷と絽奈が、仲良く並んで入ってきた。絽奈に手を振る。大体こういう頭の中に残っているけれど一体何だったかよく思い出せないのは絽奈が出所の言葉だから、南極探検隊に興味津々のペンギンみたいにてこてこ歩いてきたところを捕まえて、

「”BIG BROTHER IS WATCHING YOU!”ってなんだっけ」

「『1984』?」

「それだ」

「何の話?」

 聞いてくださいよ、と桐峯が言う。指を差す。しかし指差した先のテレビではもう番組はこの厳しい夏を乗り切るためにかき氷のイベントにやってきましたうわ~美味しそうですね~早速頂いちゃいたいと思いますに切り替わっている。ええい、と言いたげに桐峯がチャンネルを手に取る。ぴたりと止まる。ウミを見て、

「ウミちゃん、チャンネル変えていい?」

「だめ」

 ぐぬんぐ、という調子で桐峯は手を止めた。美味しそうだもんねえ、と式谷が笑う。うちにかき氷機あるけどウミちゃん食べたいなら明日持ってきてあげよっか、と絽奈が言う。ウミが振り向く。キラキラした瞳。別にそれはウミちゃんだけのものじゃなく、え、マジすか、と周りの下級生もわらわら寄ってくる。じゃあ今日のうちに学校の冷蔵庫使って氷をたくさん作っておかなくちゃね、と式谷が言う。シロップは。コーラでいいだろ。じゃあコーラ買ってこいよ。俺ハワイな。マジで、お前ハワイだったの。でっけえ~。

 もう一度がらりと扉が開く。今度は薊原。なんか盛り上がってんな、という顔。あ、と桐峯は味方を見つけたという顔。

「何の話してんの」

「かき氷の話っす」

「先輩聞いてくださいよ! さっきテレビで――」

「かき氷の話してたんだよな」

 スッと桐峯がファイティングポーズを取った。拳を向けられた同じく一年の東条は両手を上げて即座に降参の姿勢を見せる。桐峯がもう一度訊く。ウミちゃん、チャンネル変えていい? いい。

 もちろん別に、チャンネルを変えたからってすぐに同じニュースがやるわけじゃない。

 高校野球、幼児向け番組、百均巡り、ニュース、ニュース、街ブラ、地方旅、古いドラマの再放送……結局もう一個のニュース番組にチャンネルを変えて、スポーツのコーナーです。

がっかり、という顔で桐峯は、

「あ~……先輩たちが来るの遅いから……」

「こいつ前から思ってたけど結構理不尽じゃねえか?」

「パワフルでいいよね」

 物は言いようだな、と薊原が式谷に苦笑する。全然桐峯はその話を聞いていないし、東条たちも同じ。かき氷に何のシロップをかけたいかという話と人が本当にハワイの大きさになろうとしたら一日にどのくらいの食事量が必要になるだろうかという話が混線しながら続いている。千賀上先輩、今度人がハワイの大きさになる話書いてくださいよ。つまんなそうだから嫌。

 あ、と思い出した。

「式谷、さっき佐々山が言ってたんだけど」

 ついでだから今言ってしまおう。桐峯もいるし。岩崎と洪と新貝はいないけれど、とりあえず三人が知っていれば後で何とかなるだろう。

 なんか夏合宿実態調査みたいなのが教育委員会っていうかあの説教ジジイから来てて、調査資料作ることになったんだって。元は私が持ってきちゃったやつだからできるだけ私がやるけど、なんかあったら佐々山のこと手伝ってあげてもらえると助かるかも。いいよ全然気にしなくて、何でも手伝うから頼ってよ。サンキュ、あとフードバンクの人が今日うち来るかもしれないから一応見慣れない人いても騒がず……、

「って言うとアレか。この間の雨の日みたいに中に知らない人が入ってきてるのにうっかり無視みたいになっちゃうのか」

「わー……すみませんでした。それ」

「あ、中浦見てたの。あのとき」

「そうなんです。東棟の方の戸締りのときに見かけてたんですけど、てっきりウミちゃんなんだと思って……ごめんね、ウミちゃんも」

「なに?」

「人違いしちゃったから」

「猫違いじゃね?」

「猫違いでもなくない?」

「大丈夫だよね、ウミちゃん。あのとき薊原も普通に間違えてたし」

「なんで今オレを巻き込んだ?」

「かずきはだめ」

 どういう意味だこらおい、と薊原がウミに絡み始める。中浦がくすくす笑う。抹茶味なら家庭科準備室にあるあの謎のティーバッグで作れんじゃねえ? 不味そー。賞味期限切れてるんじゃないの? ところで結局どうするのフードバンクの人。調理室とかに顔出すときは佐々山とセットで来てもらうようにしよっか、それか入校証みたいなのつけてもらう? そんなのあるっけ。ない。先生たちのあの職員証みたいなやつどこかに余ってそうじゃない? 探す? あ、これほら見てください。

「千賀上先輩。これです、これ」

 桐峯に捕まったのは絽奈だった。

 式谷が自分と話し中で、薊原がウミとじゃれ合っていたからだと思う。絽奈はときどきぽーっとして全然喋らなくなるけれど、それが桐峯の目には「暇そうだし話を聞いてくれそう」に映ったのだと思う。そして絽奈は意外と後輩に優しいタイプなので、その話に付き合い始める。酷くないですかこれ酷いですよねみんな一生懸命頑張ってるのにこんなの。

 よっぽど目立つニュースだと思われているのか、さっきの報道と同じようなことを別のチャンネルでもう一度やり始める。

「あ、これダメになったんだ」

 捕まった絽奈よりも先に、式谷が呟いた。職員証の件はこれから二人で職員室へ家探しに行くという方向で固まった。テレビを見て、

「これ、うちのボランティアとかに影響あるのかな。どのくらい厳しく見るんだろう」

「え、……あ、うちもですか? これ」

「わかんない。花野さんどう?」

 ううん、と花野は唸る。

 二々ヶ浜中学校の夏合宿ボランティア。生徒が自主的に町の仕事のお手伝いをしにいくと、子どもが大好きな地元の人たちは楽しくなってしまって個人的にお小遣いをくれたり学校に光熱水費や食費を寄付したくなっちゃったりするよ、という不思議なシステム。

「どう考えてもいちいちこんなん把握できないし普通はそんな厳しく見ないはず……だけど」

「だけど?」

「うちの場合、外から見て明らかにバイトじゃん。一応公的機関だし突かれたら……あ、」

 そうだ、と頭痛を堪えるようにこめかみを抑える。

「実態調査……」

「うわ。もしかしてヤバい?」

 ヤバいかも、と花野は応える。うわー。あの説教ジジイが議員にもかかわらず一切のニュースを見ることもなければ社会に一切興味のない人間であることを祈るしかない。きょろきょろと桐峯がこっちとそっちの顔を見比べて、思わぬ展開という感じの不安そうな声色で、

「あ、あの。でも最悪、ちょっと多めに働くとかで何とかなるんじゃ……」

「いやわかんない」

「ここ言われ始めると『そもそもなんで中学生が許可もなくバイトしてんの?』って話になってくるもんね。これ、毎年毎年役所から言われてそのたびかなり教頭が頑張って誤魔化してるんだよ。中学生のバイトの許可って地域によって結構状況違うらしいんだけど、うちはそこの担当が性格ヤバいんだよね」

「あいつマジで終わってる」

「ね。『こんなに許可を出すとうちが子どもに冷たいみたいで見栄えが悪い』とか平気で言ってくるし。何考えて生きてんだろうね、ああいう人」

「お、式谷先輩の抹殺キック出るか?」

 出ません、と式谷は困り笑いで後輩に言う。別に出してもいい、と花野は思う。証拠隠滅くらいならいくらでも付き合う。が、こういうことを言うと式谷は本気でやりそうだからなんか怖い、という偏見もあるから胸にしまって、

「今年は何とか誤魔化し切れても来年以降が困るかもね、これ」

「ね。僕らも卒業しちゃうからアレだし。洪くんと岩崎さんにどうにかしてもらうしかなくなっちゃう」

「後は桐峯もな」

 水を向ければ、む、と桐峯は、

「……式谷先輩。キックの仕方教えてください」

「ダメだって。蹴ったら」

「でもそんなの言われたら私絶対我慢できません! このニュースもそうですけど、人を一体何だと思ってるんですか!?」

 どうどう、と中浦がまた言う。

 凄まじい怒りのエネルギーだな、と花野は思う。こういうのは自分にも式谷にも、それから岩崎にも洪にも、多分ない。最初の頃は結構あった気がするけれど、西山とか瀬尾とか相田とか、あとギリギリ小松とかにはあるかもしれないけれど。頼もしいと言えば頼もしい。何にせよエネルギーが満ち溢れているわけだから。

「教えてやれば、式谷。抹殺キック」

「えぇ……花野さんまで……」

「こうですか!」

「桐ちゃん危ないよ」

 意外と桐峯は運動神経も良いらしい。そこまで足は上がっていなかったけれど、よたつきもしなかった。式谷が何だかんだと言って隣で見本を披露し始める。こう。うわすげえ人ってそんな足上げてぴったり止まるんだバレエ選手みてえ。上がるでしょうちのお婆ちゃん太極拳やってるけど毎朝こんな感じだよ。あれはお前んちのばーちゃんがおかしいだけだろこのあいだ畑で猪と睨み合ってたもん。いや助けろよ絶体絶命の危機だろたとえ太極拳やってても。助けたよクソデカい声で叫んで猪追っ払ったよそしたら「何危ないことしてんだ!」ってすげえ形相で怒鳴られたけど。私の方からどうもありがとう。

 へえ、と言って薊原も真似し始めた。そうするとじゃれ合っていたウミちゃんも必然的に。流石にウミちゃんが一番よく上がる。負けた、と言って式谷が笑う。おぉ~、と拍手が起こる。むむ、という顔を桐峯はしている。負けず嫌いだから、たぶんこれから毎晩欠かさず柔軟を始めることだろう。岩崎もよくやっている。巻き込まれるかもしれない、と花野は思う。長座体前屈で人に背中を押してもらって記録十センチ、それからしばらく「鋼の女」と呼ばれたこの自分も。

 微かに音が聞こえた。

「誰か電話鳴ってない?」

 ぴた、とみんな動きを止める。あ、と声を上げたのは薊原。ポケットから端末を取り出して、

「わり、オレだ」

 別に悪くはないけれど。

 マナーモードにしていたらしい。画面を見て、たぶん着信元を確かめたのだろう。微かに眉をひそめて、それから「ちょっと出る」と言って薊原はテレビの前から離れていく。部屋の真ん中あたりで「おーう」と電話を繋げて、「あ? 聞こえねえよ何?」と言いながら廊下に出ていく。

 何となく、それで流れが途切れた感じになる。

 テレビでは、さっきのニュースはとっくに終わっていた。今は知らない芸能人の不倫の話題。いやあ全くけしからんですねえ。知ったことかよ、と思う。地球で一番どうでもいいニュースだ。ウミも大して興味がないのか、とうとう自分でチャンネルを弄り始めた。もう一つのニュース番組に戻る。スポーツ。流石にウミはまだスポーツがどういうものか理解できていない――というか人員や設備や予算の不足の問題で二々ヶ浜中学には陸上部以外にろくな運動部がないし草野球でも見せてやろうにも暑すぎて外に出られない――ので、すぐにチャンネルを変えてしまう。高校野球も同じ。幼児向け番組にちょっと止めて、やっぱり変える。高級羽毛布団のテレビショッピング。手軽にできる簡単節約料理。じっ、とそこで止まった。調理室にウミが現れる日も近い、と花野は思う。

「でも、本当にどうなっちゃうんでしょうか」

 桐峯が、ぽつりと呟いた。

「なんだか何もかも、どんどん悪くなってるような……」

 まあ、と花野は心の中だけでそれに答えた。頭の中にはグラフが浮かんでいる。単純な一次関数のグラフ。右下に向かって一直線に下がっていく方。どんどん悪くなっていってるならこれからもどんどん悪くなるんじゃないだろうか。何か計画があれば……二次関数のグラフみたいに一度沈んでまた上がりますみたいな形を考えてるなら別なんだろうけど、お偉い人たちが何かご高尚なことを考えて何か素晴らしい計画をご実行されているとしてもとても我々一般庶民には理解が及びつかないし。

 勝手にやってくれ、と思う。

 思ったから、気が付いた。

 こういう感覚のせいで、科学とか勉強とか、そういうのは信頼を失っていくんだろうか。

「でもさ、」

 絽奈が言った。

 テレビを見ている。別に、誰に言葉を届けようとしている風でもない。こうして作り置きしておけば忙しい中でも副菜をいくつか用意することが出来て栄養失調にもならないしお金だけじゃなく時間も節約できるんですよ、なんて言ってとてもじゃないが生活や調理器具に余裕がないとできなそうな料理が紹介されているのをぼーっと見つめながら、絽奈にはよくある、あの頭の中にある海に籠り切ったような口調で、

「私たちのこと大切に思ってない人に何言ったって無駄だよね。こっちのことなんかどうでもいいんだもん」

 うわ、と花野はそのとき思った。

 全然気にしてない、って自分では言ってたけど。

 単に失望して諦めてただけじゃん、と。

「――だから何言ってるかわかんねーって! 落ち着いて喋れ! 別に切らねーから!」

 部屋の中まで声が聞こえてきた。

 かえってタイミングがよかったかもしれない。大きな音に驚いたのか、絽奈が頭の中の海から戻ってきた。肩がびくっと跳ねて、それが恥ずかしかったのかウミの方にちょっと寄る。ウミは不思議そうな顔をして扉の方を見ている。なんだろ、と式谷が顔を向ける。

「いやだから――」

 はぁああ、と溜息のような声。見てきてやれば、と花野は式谷に目で合図する。うん、と頷いて式谷が動き出す。がらら、と扉を開けて、「外だから聞こえづらいんじゃないの。中入って話しなよ」少しの沈黙の後、結局薊原は多目的室に戻ってくる。「誰?」と式谷に訊かれれば通話口を手で押さえて、

「下川」

 記憶の隅に、その名前が当たった。

 二年の男子だ。今年は一回も夏合宿に顔を見せていない。洪曰く、去年の秋の終わりくらいからもうすっかり学校に顔を出さなくなって、親がIR関係ってわけでもないみたいだから多分普通に不良をやってるんだと思います。花野はその『不良』という呼び方自体どうなんだと思っている――こんなところに住んで毎日汚職の踏み倒しだの暴行事件だののニュースに晒されてるガキがちょっと学校に来なくなって法律破ったくらいで不良も何もないだろ――けれど、今はとりあえずそのところはどうでもよくて、

 鈴木のことが頭を過る。

 だから、一応二人の傍に近付いた。

「何? 電波悪いの?」

「いや、向こうがずっと泣いてて何言ってっか聞き取れねーんだよ。つーか、聞こえても言ってることわかんねーし」

「それヤバいんじゃないの」

 貸してもらっていい、と式谷が手を伸ばす。薊原はもう一度だけ端末を耳に当てる。確かにちょっとだけ漏れ聞こえてくる。しゃくりあげる声。それから少しして、ん、と式谷に端末を渡す。

「もしもし? 下川くん。式谷だけど」

 落ち着いた声で式谷が話し始める。一一〇とか一一九番のコールセンターみたいな声色。落ち着いて、大丈夫。うん、うん。何があった?

「うん。そっか。昨日の夜からIRにいて、秋村くんと和島くんも一緒ね。うん」

 目で合図されたから花野は自分の端末を取り出す。式谷が復唱したことをメモしていく。なんでオレのときはダメなのにこいつだと話すんだよ、という感じの顔を薊原はしている。普通にテクニックだと花野は思う。どこで学んできたのだか知らないけれど。

「カジノに行った。うん。で、夜になってバーに移動した。それから……うん。朝になった。これが今日のことで合ってる? うん。大丈夫。わかるよ。ゆっくりでいいからね」

 気付けば、式谷の他の多目的室の全員が静かになっていた。

 あんま聞くな、というように花野は他の奴らに向けてしっしっ、と手を払う。一応それでみんな目を逸らしはするけれど、たぶん耳では聞いている。

「薬? うん。ああ、うん。しばらくやってなかったんだね。うん。偉いよ。それで……ああ。無理やりね。うん。断り切れなかったんだ。大丈夫、切らないよ。聞いてるよ。今もしかして病院? ……うん。周りに誰がいるか教えてもらっていい? うん。あ、名前はいいよ。大丈夫。秋村くんと和島くんは? 傍にはいない。……ううん、全然責めてないよ。うん。電話くれてありがとう」

 お迎えコースかな、とメモを打ち込みながら花野は思う。

 たぶん向こうで流行ってる変な薬――『カラフル』とか呼ばれてるラムネみたいなやつ――でも飲んでヤバくなって病院に担ぎ込まれて胃洗浄とかそんな感じだろう。秋村と和島はまだ電話できるコンディションではなくて、かろうじて下川だけが連絡してきたのかもしれない。

 流石に全員の家庭環境を把握できているわけじゃないし、把握すべきでもないと思っているけれど、家族じゃなくて薊原に連絡してきたということは他に頼る先がなかったということでもあると思う。

 きっついかもな、と心の中だけで思う。

 鈴木も薬物系はやっていなかったし、その手の生徒を受け入れる体制が今の学校には全然ない。依存症になってなきゃいいけど、いやでもしばらくやってなかったって言ってるしそこまで深刻な感じでもないのかなんて考えつつ、さらに花野は計画を立てていく。佐々山に車を出してもらって、いやでも三人連れで帰ってくるとなるとあの軽トラじゃ厳しいか公用車がなくなってなきゃよかったのにいやそうだ宇垣が向こうに見回りに行ってるんだから連絡とればいいじゃんあいつの車でかいワゴンだし――

「宇垣先生が?」

 式谷の口から、その名前が出てきた。

 もう迎えに行っているのだろうか。だったら手間がだいぶ省ける。そう思った次の瞬間、花野の頭に一つの疑問が浮かぶ。

 なんで宇垣じゃなくて、下川が電話してきてるんだ?

「大丈夫。落ち着いて。ゆっくり呼吸しな。大丈夫大丈夫。ゆっくりでいいよ。聞いてるからね」

 こっちに聞こえるくらい、電話口の向こうの嗚咽が激しくなっている。明らかに気が動転している過呼吸でも起こしているんじゃないかと思う。式谷も「無理しなくていいよ」と、聞き出すことよりむしろ下川の様子を気遣う方向に言葉を変え始めている。

 それでも、下川は、


「――撃たれた? 手術中?」


 たぶん。

 必要なことは、言ってくれたのだと思う。


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