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雨の夜 ⑦


 弾丸のように薊原は飛び出した。

 ステージの裏からステージの上へ。助走をつけて思い切り飛び降りる。だん、と凄まじい音が館内に響くけれど、そんなもの気に留めもしない。今なら百メートルを十秒くらいで走れるんじゃないかと思う。式谷が律儀に閉めていった裏の扉を思い切り開く。裏通路。真ん中に濡れたバスケットボールが転がっている。突き当たりに準備室兼更衣室があって二つの扉が並んでいる。片方が開いている。

 式谷の背中が見える。

「――何してんだてめえ、ぶっ殺すぞ!」

 ものすごい大声だったと自分で思う。

 だから式谷は驚いて振り向いたわけだし――その奥から「うえっ」なんて声も聞こえてくる。

 声に聞き覚えがある。

 準備室には明かりが点いていて、もう二歩三歩、近付けばその中が見える。


 バレーの金属ポールを両手に抱えた佐々山が、そこに普通に立っている。


「――は?」

 力が抜けた。

 急には止まれない。足を止めたつもりだけれどまだ進む。「あぶな」と式谷が暢気な声を出して両手を広げる。避ける気力もない。そのまま抱き留められる。「うわわ」と式谷がたたらを踏む。ぐ、と思っていたよりも全然強い力が返ってきて、そこでようやく止まる。

 目の前に佐々山がいる。

「――はあ?」

 もう一度、薊原は言った。

「せ、先輩! 大丈夫ですか!」

 ばたばたと、遅れて洪がやってくる。大丈夫も何もない。何もないが、どういうことなんだと思う。何なんだよ、と思う。「え、何」と追い付いた洪が言う。自分も同じことを言いたい。だから言う。

「何」

「いや、……あー。そっか。僕の声がそっちまで行っちゃったのか」

 ごめんごめん、と式谷は言う。ごめんじゃねえだろ、と薊原は思う。その気持ちが伝わったのか、そのまま続けて式谷は、

「いや、ボール洗ったらしまった方がいいじゃん。それで向こうの倉庫とか見るの面倒だったから準備室の方でいいやと思って開けたら、佐々山先生が中に潜んでたから。びっくりしちゃって『うわあ!』って」

 言われたことを薊原は、ゆっくり咀嚼する。

 咀嚼して、

「――紛らわしいんだよ、ボケ!」

 ぐいい、とそのまま鯖折りに移行する。膝突かしてマジで潰してやろうかとも思うが、いだだだだだ、と式谷が言うので適当なところで切り上げる。すると式谷の番が終わるため、残ったもう一人に矛先が向く。

 ぎくり、と佐々山がポールを抱えたまま身を竦ませた。

「……いや~。まあね。聞きたい? いい年こいた大人の赤裸々な裏話を」

「おう」

「はい」

「無理にとは言いませんけど」

「……うむ」

 ようやくそこで、佐々山がポールを置く。がっちゃん、と大きな音がする。

 覚悟を決めたような、神妙な面持ちで、

「停電してるじゃんと思ってとりあえずこっちのブレーカー上げにきたんだけどさ」

「校舎のブレーカーは職員室ですよ」

「――だと思ったんだわ。なぜか鍵使うところが一個もないし」

「無理ないですよ。普段は滅多に使わないところですし」

「洪くんはいつも優しくて良い子だなあ……」

「弱み握られてんのか?」

 おいおいおい人聞きが悪いな、と佐々山が言う。そんなこと言ってないで早く話を進めろよ、と薊原は思う。

「まあそれで、ブレーカー上げて適当に電気とか点けてみたわけ。なんか確かにこの鍵使うところなかったから変だなあとは思ったんだけど、とりあえずパチパチやったら電気が点いたし、達成感を持って先生はこの場所を後にしようと思ったわけですよ」

「はあ」

「で、ここって奥の放送室でも電灯切れるんだけどさ、まあ暗いと怖いじゃん?」

「わかります」

「そう。だからね、とりあえずそっちは点けたまんまにしておいて、出入り口のところで切っていこうと思ったわけよ」

 もしかして、と薊原は思うから。

 歯止めも利かずに、普通に口にする。

「――そこで急にオレらが入ってきたからビビって逃げたとか、そういう話すか」

「…………」

 佐々山は目を瞑り、腕を組む。

 なんだその顔、と薊原は思う。

「……少年」

「なんすか」

「普通の人はね、他に誰もいない夜の体育館で人の足音が聞こえてきたらとりあえず狭いところに身を隠したりするものだし、その狭いところが開けられて明かりまで点けられたらとりあえず持てる範囲で一番重たそうなものを手に持って威嚇するものなんだよ」

「殺されるかと思いました」

「ほんとごめん」

 まあ、と薊原は思う。

 さっき自分が「ぶっ殺すぞ」なんて叫んだことを思えば、これで佐々山のことを責めるのも棚上げだろう。普通に考えれば停電のときにブレーカーのあるところに来るのなんておおよそ生徒だと予想が付きそうなものだが、ついさっきまで自分と洪だって「不審な部外者がこの場所に潜入しているはずだ」という謎の先入観に囚われていた。このあたりは――というか二々ヶ浜だけではなく今や国内のほとんどの地域がそうなのかもしれないが、治安に対する信頼が刻一刻と失われているのが原因にある。だから仕方がない。そう自己弁護すれば、佐々山に対して「なんだお前紛らわしいんだよ」と怒る気持ちも薄れる。

 んじゃ、と。

 話もついたところで、と言いたげに式谷がまとめた。

「電気消して本校舎の方に帰りましょう。あ、先生が分電盤の鍵持ってるんですよね」

「あ、うん。そう。……そうか。私がこれを持ってるからそっちは停電がまだ直ってないのか」

 状況を掻きまわした挙句に足を引っ張ってしまい大変申し訳ございません、と佐々山が言う。まあまあ、と式谷が言う。今日は寒いくらいだからクーラーも冷蔵庫もそんなに問題ないですよ。全員を準備室から出るように促す。通路に転がったバスケットボールを準備室の中にシュートして、電気を消す。扉を閉める。中の電気消してきちゃうね先行ってて、と言って通路から体育館の中に消えていく。

 まさか本当に先に校舎に戻るわけにもいくまい。

 渡り廊下に通じる鉄扉のところで待つ。向こうから声が聞こえてくる。

「他に誰かいますかー? 電気消しちゃいますよー?」

 五秒待つ。消しますねー、と声がした後、ぱん、ぱん、ぱん、と大きな照明が連続して消える音。すごいですね、と洪が言う。ねえ、と佐々山が言う。式谷が来て笑って言う。待っててくれたんだ、さんきゅー。こいつの心臓はどうなってんだと薊原は思う。生まれてこの方見てきた中で一番図太い奴かもしれない。

 渡り廊下に出ると、相変わらず雨は降っていた。庇の左右からどぽどぽと水が溢れ出している。鉄扉を閉める。鍵借りていいですか、と式谷が言って佐々山から体育館の鍵を受け取る。がちゃん、と手慣れた様子で閉めた後、

「そうだ。先生、体育館に行くときに本校舎の鍵開けっぱで行っちゃったでしょ」

「……行っちゃったらしいです」

「これ毎回ちゃんと閉めてもらえると助かります。今日なんかはそんなに問題ないんですけど、施錠の巡回の後にそういう時間を作っちゃうと、またみんなで調べなくちゃってなったりもするので」

 はい、と佐々山がうなだれる。式谷が笑う。まあまあ、と洪が宥める。自分もこういうシチュエーションだと開けっ放しにするタイプだろうと思うので、薊原は何も言わない。

 でも、と式谷が続ける。

「今日はほら、この雨だから。外から入ってきたらこのへんが濡れててわかるわけじゃないですか」

 渡り廊下から本校舎東棟に入るところでそう言った。

 今日は大丈夫、と式谷は笑う。一応薊原はそれを助けるつもりで床を照らしてやる。なぜかこの扉の前後にはろくな泥落としがないから、あれだけ雨の吹き込む渡り廊下を――というか外からやってきた奴だったら、間違いなく廊下を濡らす。

 それがない。

 ということは、外から誰も入ってきていないということだ。

「……うす。フォローしていただいて恐縮です。式谷先輩」

「いやそんな落ち込まなくても。ねえ、洪くん」

「そうですよ。前にほら、去年? 夜中に救急車来たときとか、大慌てになっちゃって昇降口の鍵開けたまま寝ちゃったこともありましたもんね。朝になってみんなで『うわっ』ってなったやつ」

「ね。あれビビったよねー。何もなくてよかったよ」

 ですね、と洪も空気を和ますように笑う。殊勝にも佐々山は「他になんかやっちゃったらヤバそうなことある?」と聞き込みをしている。大変だな教師も学校警備までやらされて、とさり気なく薊原は他の三人より前に出る。問題は解決したし、気が大きくなってきていた。技術室の窓から覗ける誰もいない広い教室も怖くない。進路相談室の壁に貼られた『薬物はあなたの人生を破壊します』のフレーズでお馴染み、色褪せた写真付きのおどろおどろしいポスターも。情報室の前を通るときに微かに感じる人の気配。二十年もののオンボロコンピュータの中には当時の遠足の写真が入っているがどの教師に訊いてもそこに映っている生徒の顔のどれ一つとして覚えがないだとか、千賀上の昔々のたわけた嘘も、今なら笑える。特別棟に入る。美術室。調理室。西棟。いつもの癖で階段を上りそうになって、


 きゃあ、と叫ぶ声がした。


 今度は、式谷の方がずっと早い。

 薊原だって咄嗟に動き出した。さっきの体育館のときとさして変わらない。だと言うのに自分より後ろにいたはずの式谷は、こっちが一歩目を踏み出した瞬間にはもう階段の踊り場に足をかけようとしている。髪の先が窓の光にきらめく。風も残さない。

「洪、ブレーカー上げてこい!」

 はい、の言葉も待たずにその背を追った。三段飛ばし。太ももが張って破けるんじゃないかと思う。勢いが付きすぎて踊り場でかえって時間を食う。折り返す。式谷の背中はもう見えない。まだ上っているらしく上の方から足音が聞こえてくる。二階。折り返す。追いかける。折り返す。

 三階。

 廊下に出てきて様子を伺っているのが何人かいたから、どっちに進むべきかすぐにわかった。

 特別棟の方だ。

 音楽室よりもさらに遠い。奥。東棟の方。そこにあるのが何の部屋だったか一瞬思い出せない。突っ立ってる奴らを追い越して走る。安心する。少なくともこうして固まっている奴らがいるということは、それほど緊急性の高い出来事じゃない。「あ、」と声を上げた奴がいる。すれ違いざまにちらっと顔を見る。三上。表情に足が緩む。理科室だ、と思い出す。

 入り口に辿り着く。

 実験のためなのか何なのか、理科室のカーテンは真っ黒で、他の部屋と比べても格段に重たく、光を通さない。それでも数人が端末のライトを向けているからだろう、手の中の懐中電灯をさして活用せずとも中の様子は窺い知れた。真っ黒い天板にガス管と水道の備え付けられた、固定の机。その向こう。そこの窓だけカーテンが開いていて、数人の生徒が固まっている。瀬尾、小松、倉持。そのくらいはとりあえず認識して、さらに式谷の姿をそこでようやく見つける。雨の、それでもさして荒天の日暮れと区別の付かないような明るさの空を背景に、何かを見下ろすように立っている。

「何が、」

 と薊原は近寄った。

 瀬尾が一番先にこっちを見た。よ、と言うように小さく手を上げたけれど、どうもその動作の感じがおかしい。こいつジャージの下に何か仕込んでやがんな、と思う。思いながらもう一歩、

 電気が点いた。

 カ、カン、と音がして、間引かれた古い蛍光灯の明かりが、一斉に点いた。

 骨だ。

 真っ白な骨が、床の上に散乱している。

 本気で叫ぶかと思った瞬間、廊下から理科室を覗き込んでいた奴らがもう一度叫び声を上げて、それがかえって頭を冷静にさせた。

 骨。

 骨、

 理科室?

「おい、それ――」

「骨格標本」

 冷静極まりない調子で言ったのは、床の上に屈み込んだ花野だった。死体を前にした血も涙もない探偵みたいな目付きでそれを見下ろしている。異様な説得力があったからその事実をたったの一言で呑み込まされた――わけではない。薊原の視界は総合的に様々なものを捉えていた。金属バットを持った倉持がいかにも肩透かしを食らったような顔で顎を上げているのとか、その隣で岩崎がほっとした顔をしているのとか、瀬尾と小松の顔に面白がるような色が浮かんでいることとか、後は、

「んで、」

 花野が指差した先。

 式谷の腕の中に、

「それが犯人」

 さっきまでは、闇の中に紛れて見えなかった。

 けれど停電が直った今となっては、くっきり見える。黒い身体。緑色の目。すごく見覚えがある。全然変じゃない。よく見るし、

 たぶん、さっきも見た。


「みゃう」

 ねこ。


「――バカか?」

「な」

 呟けば、すかさず同調してきたのは瀬尾だった。信じられっかさっきまでオレらこんな小っせーのにビビり散らかして右往左往してたんだぜ――おーい、と倉持が廊下に向かって手を振った。

「問題なし。解決。犯人は猫でした。解散!」

 そしてその犯人は、よっぽど人慣れしているのか式谷の手の中でびっくりするほどおとなしくしている。強いてその姿に野生を見出すなら、目をきょろきょろさせて周りを観察しているところくらいだろうか。警戒とは程遠い暢気さにも見える。

「おわ。どしたの、こんなみんな揃っちゃって。停電のやつ?」

 ごめんごめん、と遅れて佐々山が理科室の前に登場したらしい。

 猫と目が合っているから、薊原は目を逸らさないままそれを背中で聞く。自分たちが体育館でしょうもない大冒険をしている間、こっちはこっちで肝試しを堪能していたらしい。いきなり音がして、すわ不審者かと大集合をかけて大警戒をして、理科室に散乱する骨を見つけた瞬間大絶叫が響いたけれど、一秒後には花野晶の精密たるサーチライト捌きがその姿を一行の前に映し出した!

「つまり、なんだ」

 えぇっ、びっくりしたでしょ、なんて佐々山が言う。そうなんですよ先生とか、佐々やん肝心なときにいないんだもんとか、ごめんって~とか、徐々にやかましくなり始める廊下の音量に紛れるように、薊原は式谷に確かめる。

「オレらがあのとき、技術室のあたりで見た猫っつーのは、」

「だから、ウミちゃんじゃなかったんだろうね。ていうか多分、戸締りのときに見た子もいたはずだから、みんなてっきりウミちゃんだと思って見逃しちゃったんじゃないかな」

 話もそこそこに、佐々山がこっちに来る。ねこ? 猫っす。猫です。そっかそういえば、なんて口に指の節を当てながら言う。

「私が停電に気付いたの、校長室で寝てるときだったんだけど、職員室の方でなんか音がしたからだったんだよねえ」

 どうせ書類が崩れたんだと思ってたんだけど、一応見ておこうと思って。そしたら電気点かなくてさ。雨宿りに迷い込んできちゃったのかな。言いながら佐々山は「にゃー」と猫に指を伸ばそうとする。それを花野が「ちょっと待った」と制する。野生動物だから触らない方がいいですよ、噛まれたら死ぬんで。え、死ぬの。場合によっては。じゃあ式谷さんも危ないじゃん。危ないんですけどね。

 全部を薊原は呑み込んだ。

 そして。

 きっぱりはっきり、こう思う。

「――アホくせぇー」

「ね」

 結局。

 こんな小っさい猫の一匹に惑わされて、学校中がまるまる大騒ぎしていたわけだ。

 はぁああああ、と魂をまるごと吐き出すような溜息が出た。いい年こいて馬鹿じゃねえのか。小学校の校庭に犬が入ってきたときの方がずっとマシだ。幽霊の正体見たり何とやら。猫は「なんなんだこいつら」と言いたげにきょときょとと周りを見回している。うわ、と佐々山がそこでようやく床に散らばった骨格標本に気付く。よくそっちを無視できたなと思っていると、さらに続けて佐々山が訊く。どしたんこれ。花野が答える。猫がちょっと、組み立てるの面倒だからどうしようかなと思ってたんですけど。ああ全然そんなの私やるよ、人間の骨とか見ればどこに何差せばいいかくらいはわかるし。え、マジですか。おい忘れてるな私の専門美術なんですけど。

 妙な手際の良さで、佐々山が骨格標本の組み立てを始める。

 ふとそれで、頭の中に過った言葉がある。


 ――理科室にある骨格標本は実は八十年前に校庭から見つかった本物の人骨を、


 一言くらい、と薊原は思う。

 文句を付けてやろうか。そして褒め称えてやろうか。お前がホラーはもう作らないと決めたのは全く正しい。小学生の頃に作ったもので自分たち中学生をここまで混乱させることができるのだから、現段階でもちょっと工夫すれば社会全体にパニックをもたらすに十分なクオリティになってしまうことだろう。絶対やめろ。さらに念押しをしておいてやろうか。お前なら多分自分でわかっていると思うが決して詐欺だの洗脳だの霊感商法だのにその能力を使うなよ。あの手のちょっと突けばボロボロ矛盾が出てくるような程度の低い奴らがやっていてもこれだけ社会に害を及ぼしているのだから、お前みたいな奴が本気で取り組み始めたら本当に手が付けられない。絶対やめろ。

 千賀上を探した。

 いない。

 ウミも。

「なあ、」

 佐々山がいるから、大きな声では話さない。面白いでしょ上腕の骨ってこの尺骨と橈骨って二本があるんだけど手のひらを返すとこうやってクロスするんだよねえあと個人的に好きなのが鎖骨でさあこれって犬とか馬にはないんだけどあるのとないのとで全然腕の可動域が変わってきて動きを見てると楽しいんだこれが。へー、佐々やん教師みたいじゃん。今まで何だと思ってた? そんな会話に紛れてひっそり式谷に、

「ウミは?」

「絽奈が連れて行ったみたい。今は……どこだろ」

 ちょっと訊きづらい、という顔で式谷が花野たちを見下ろす。連れて行ったということは、さっきまでここにいたということだろう。猫の仕業だったことがわかって、佐々山が来る前には撤収した――ということは、多分他の生徒のボディガードでもしてくれていたのではないかと思う。目的が変わった。ちょっとくらい礼を言っておくのも普通のことだと思う。いくらあの馬鹿でかい首長竜になれるような、人の怪我を勝手に綺麗さっぱりなくしてしまえるような超常怪奇の未確認生命体だとしても、危険を買って出てくれたわけだから。そのくらいの常識は自分にもある。

「そういえば、その猫どうしようか」

「どうしようね。雨の中に放り出すのも可哀想だし、どっかの部屋に朝までいてもらう?」

「今日涼しいしね。どこにする?」

 花野と式谷が話すのを聞きながら、薊原は踵を返した。佐々山の骨講義は意外と盛り上がっている。というか、とそのときふと思った。自分の顔の怪我が跡形もなく治っていることについて佐々山は一言も触れてこなかった。もう宇垣の前に出ても大丈夫かもしれない。理科室の入り口のあたりに桐峯と三上と中浦がいる。どうも解散のタイミングを逃したらしい。ちょっと会釈されるから、ちょっと会釈して返す。廊下に出る。停電が直ったんだから明かりを点ければいいのに、それでも節電意識が染みついているのか廊下は暗い。外から見ると急に理科室の中が奇妙なくらいに明るく感じる。佐々山の周りに、まだ寝るつもりがないらしい生徒たちが集い始めている。

 笑っている。

 ふ、と薊原も笑った。

 さて、と人もまばらになりつつある廊下を歩き出す。千賀上とセットで動いているということは、一番いそうなのは多目的室。いつもの溜まり場だから、一旦そこに隠れている可能性は結構あると思う。それで諸々済ませて式谷が戻ってきたところで付添人はバトンタッチとか、

 視界の隅で、何かが動いた。

 もう、恐れはなかった。文明的な明かりの有る無しがここまで精神状態に影響を及ぼすとは夢にも思わなかった。西棟階段へ行く途中。よく考えるとこっちは女子部屋に近付く方だし、気を遣って東棟階段から降りた方がよかったかな、なんて思い始めていたタイミング。ふと左の方の端で何かが動いた気がした。開け放たれた音楽室。まだ猫によって荒らされたままらしく、いくつかの譜面台が倒れたままの室内。

 グランドピアノの奥。

 歩いて行けば、やっぱり思った通りだった。

 ピアノの奥の窓辺で、一匹の猫がこっちに背中を向けて座っていた。

 よっぽど猫の姿が堂に入ってきたらしい。ひどく自然な仕草で尻尾がゆらゆら揺れている。その揺れがピアノの向こうから廊下にまで届いた。

 猫は何も言わずに、じっと窓の外に降る雨を見つめていた。

 その隣に椅子を持ち込んで座っている一人も、同じように。

「おい」

「――っ」

 ひゅっ、と息を呑む音が聞こえた。

 千賀上の身体が大きく傾く。ついでに椅子も。あぶね、とその椅子を掴む。床から離れた椅子の足が、もう一度収まるべきところに収まる。幸いカーペット敷きだから大した音も立たない。

 千賀上が心臓を押さえて、信じられない、と言う顔でこっちを見ている。

 こっちはこっちでだよ、と思いながらも、ちょっとだけ大人になって薊原は、

「外から見えてんぞ。もうちょい左寄れ」

「あ、ああ。うん……」

 間が二拍。千賀上は千賀上で大人になったのだと思う。ウミちゃん、と声をかける。もうちょっと左だって。ウミがぴこっ、と足を動かして左に一歩寄る。こいつ変な学び方してんな、と薊原は思った。普通の猫じゃなくて、アニメに出てくる変な猫みたいな動き方だった。

「向こう、終わった?」

 自分も一歩、カーペットの上で椅子を動かしながら千賀上が訊いてくる。

「まあ、大体は。今は式谷が猫を入れとく部屋考えたり、あのバラバラになった骨格標本あるだろ。あれ、佐々山が直してる」

「あ、やっぱり直せるんだ……」

 私ちょっとうろ覚えで、と千賀上が言った。うろ覚えでも覚えてるだけすげーもんだ、と薊原は思う。ちょっとだけ会話が途切れる。自然、薊原の目は当初の目的へと向かっていく。

 礼を言いたい。

 が、

「……こいつ、何見てんだ?」

「わかんない」

 千賀上が首を横に振る。順を追って、

「最初は多目的室に行こうと思ったんだけど、階段上ってくる音が聞こえたからとりあえずここに隠れて、そしたら、」

 窓辺に座って動かない。

 おい、とウミの頭に指を載せた。

「何見てんだよ」

 直接訊ねる。ウミが振り向く。宇宙色の瞳でこっちを見つめる。口を開く。

「にゃあ」

「……律儀だな、お前。ほんと」

 猫の姿のときは、人の言葉を話さない。

 教わったことは、きっちり順守してくれているらしい。

 それ以上訊ねるのも、と思ったから、そのまま軽く頭を撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らしたのは、ウミの学習が正しい形で行われているなら心地よさのサインだと思う。器用な奴、と思ってからふと、

「こいつ、すげーよな」

「……何が?」

「オレらの顔とか見分けられんのが。人間だって猫とか犬とか、一発で見分けんの無理だろ」

 でもこいつ名前覚えたら一回も間違えねーから、と。

 言いながら思い出す。技術室の前。別の猫。自分と洪はてっきりウミなのだと思っていたし、たぶん施錠のときにあの緑目の猫を見つけた生徒も同じことを思ったはずだ。一方でウミはいっぺんに何十人もの生徒の名前を覚えて、それから全く戸惑わない。自分だって、夏合宿に参加して一週間くらいはまだ顔と名前の一致が覚束なかったのに。

「ね」

 と、千賀上が頷いた。

「すごいよね。ウミちゃん」

 な、と今度は薊原が頷いた。

 ウミの背中を、しばらく眺めていた。

 降り続く雨。尻尾は音楽室に相応しく、メトロノームのように規則正しく揺れている。ウミの頭は動かない。じっ、と何かを見つめている。何か面白いものでもあるのだろうか。覗き込むけれど、何も見当たらない。だから薊原は、目に映らないものに思いを馳せる。校舎の南側。

 ずっと向こうの雲の下には、海がある。

 ふと思った。

 いつかここから、いなくなってしまうのだろうか。

 探しに来たという友達が見つかれば――こんな、猫一匹に振り回されて大騒ぎするような馬鹿げた夏が終わってしまえば、ウミは何かの夢だったみたいに、何の証も残さないで、どこかに消えていってしまうのだろうか。

 ガキじゃあるまいし、と薊原は思う。

 でもきっと、こんな気持ちを抱えているうちはずっとガキのままだから、

「――お前さ、知ってる?」

 千賀上の方を向いて、少し口の端を上げて、薊原は問い掛けた。

「何?」

「式谷の部屋にギターあんの。エレキ。他にはマジで何もなくて生気の欠片もねーような部屋なんだけどさ」

 千賀上が目を大きく開く。

 それから、いかにも気まずそうな顔で目を逸らして、

「……それあげたの、私」

「は、」

「違う! プレゼントとかそういうのじゃなくて!」

 別に何も言っていないのに、千賀上は勝手に弁解を始める。単に自分で作曲用に使えたらカッコイイなと思って買ったんだけどキーボードと違って指の皮がめくれて痛いしコード押さえてると関節が変な感じになって不安になるしですぐに触らなくなって、でもそのまま放置するのも勿体ないしと思って湊に「要る?」って訊いたら「要る」って言ったからあげただけ。

 ああそう、と薊原は応えた。凄まじい勢いだった。深く突っ込んでもその勢いに圧倒されて何も言えずに終わるだろうことが明白だったから、それだけで済ませた。本題はそっちじゃない。

「んじゃ、あいつが弾いてるとこも見たことあんのか」

 訊ねれば、意外にも千賀上は考え込むような仕草を見せた。

「……ない、かも。ない。え、薊原くんは見たことあるの? 部屋行ったとき?」

「いや、」

 オレもねえ、と薊原は応える。

 だから、親指を立てて差してやった。

「弾かせてみよーぜ、あれ」

 音楽室の壁際。

 迷い猫が引っ掛けて床に落とした、一本のアコースティックギター。

 千賀上が振り向く。腰を浮かしている。横顔に「面白そう」の色が浮かんでいるのを薊原は見逃さない。

「でも、みんなもう寝ちゃうんじゃないの?」

「こんだけ雨がうるさけりゃアコギの音くらい紛れんだろ。てか、どうせそんなに早寝する奴いねーし。まだ十時前だぞ。佐々山と陸部くらいだろ」

 そんでそいつら大体まだ理科室にいるし、

「二時間も三時間も弾かせねーよ。ちょっとだけ」

 うーん、とそれでも千賀上はまだ悩ましげな顔をしている。一方で部屋の外、早速そいつが通りがかるのが見えた。おいこっち、と手を上げる。ちょっと驚いたようにしてから、猫を抱えたままでそいつが中に入ってくる。何、と訊ねる。ウミが振り向く。緑目の猫とじっと見つめ合う。そっと式谷が窓辺に猫を置く。じっと見つめ合ったまま、奇妙に落ち着いている。なんで置いたんだこいつ、と薊原は思う。式谷がさらに言う。

「どしたの。二人でなんか話してた?」

「お前あのギター弾けよ」

「聴きたい」

「マジで何の話してたの?」

 今日一日結構こいつには振り回された気がする。だから最後くらいこっちが振り回してもいいだろう。戸惑う式谷に代わって薊原は床に落ちたアコギを手に取る。意外に重い。式谷に手渡す。

「え、ほんとに何?」

「必要だろ。壊れてないかの確認が。寮長として」

「必要ないでしょ」

 千賀上が席を立った。音漏れを気にしているらしい。扉を閉めに行く。そうしたらちょうど通りがかったらしく「あ、洪くん」と言ってちょっと廊下を覗き込む。ここって扉閉めておけば音出しても大丈夫? 不思議そうな顔をした洪が、部屋の中を覗き込んでくる。

「え。コンサートですか?」

「そうだ」

「違うよ」

 ああでも大丈夫ですよ、と言って洪が中に入ってくる。へええ、という顔をしながらギターを押し付けられた式谷を見て、

「式谷先輩、ギターやるんですか。ここ、かなり吸音性能高いんで大丈夫だと思いますよ。夏は締め切ってると死ぬからあんまり意味ないんですけど、冬はここで演奏してても精々聞こえて流し台のとこまでじゃないかな。アコギって音どんなもんでしたっけ」

 じゃらん、と式谷が手慣れた様子で弦を鳴らす。うわ、と鳴らした本人が一番驚いている。

「音でか」

「そうですか? こんなものだと思いますけど」

「いや、普段こういうのじゃないんだよ。もっと音小さい」

「あ、エレキの生音? アンプ使ってないんですか?」

「そう。たぶんそれ。貰ったやつだからよく知らないんだけど」

「アンプ使わないエレキって全然楽しくなさそうですけど」

「楽しいとか楽しくないとかでやってないから」

 一周回って尖ったミュージシャンみたいな発言が出たな、と薊原が思っていると、お、と言ってさらに通りがかった奴らがいる。瀬尾とか小松とか。男ばかりがぞろぞろと。

「何だよおい。式ちゃんバンドデビューか? オレも誘えよ。ボーカルな」

「ツインボーカルな」

「いやもう、集まって来なくていいって。解散解散」

「何してんの、お前ら」

 今度は花野。それから倉持と岩崎が面白いことを嗅ぎ付けたみたいな顔で寄ってくる。来なくていい来なくていい、と式谷はさらに言う。珍しい往生際の悪さで、だから薊原は、

「ちゃちゃっと弾いてみろって。長引けば長引くほどこれから寝ようとする奴らの迷惑だぞ」

「いや、そもそもこの時間に弾く意味ないし――」

 そんなことをやっている間にぞろぞろとアホみたいな数が入ってくる。騒ぎを聞きつけ――というわけではなさそうだった。どうせ、と薊原は思う。こんな雨の夜にこれだけ大騒ぎした後なのだ。すぐに興奮が収まるわけもなく、どこか集まる場所を探している。式谷が渋って引っ張れば引っ張るほど人は集まるに決まっている。

 入れるだけ入れた後、千賀上が扉を閉めた。

 それで、ててて、と小走りで歩いて式谷のすぐ傍に立つ。ウミが猫から目を外す。二方向からの視線。それだけじゃない。数多の暇人どもの期待の視線を向けられて、さしもの式谷も少しばかりうろたえて、

「――ちょっとだけね」

 じゃらん、と弦を鳴らす。ペグを回して耳で音を合わせ始める。本格的、と誰かが言って、そりゃそうだろ、とも誰かが言う。何がそりゃそうなの、と式谷が苦笑する。ワンフレーズ。急に千賀上の顔色が変わる。ちょっと待ってなんでそれなの。だって絽奈の曲しかレパートリーないよ、他に練習してないもん。中止、中止!

 もちろん中止するわけはなくて。

 いかにも式谷らしい、控えめな音と歌声が流れ出す。

 千賀上が黙る。へえ、と周りが静かになる。洪が混ざりたそうな顔をしてその音を聞いている。倉持の身体が微かに横に揺れている。ウミもいつの間にか式谷をじっと見ている。ん、とそれに気付いて式谷が目を合わせて微笑む。

 その日の雨は、夜が更けるにつれてやわらかくなっていった。

 風の勢いもやがて弱まり、しとしとと寄り添うような音ばかりが響く。気温も少しずつ戻り始めて、冬のような空気から春の温度で止まり直す。この夏一番過ごしやすい夜。はいおしまい、と式谷がギターを置いた後も、まだ眠りたくない奴らは多目的室へと移動を始める。閑散とした教室の寂しさに耐えかねてこっちに合流したのがいたのかと思えば、もうそろそろ、と腰を上げて去っていく者もいる。時計の針は進む。雨雲が隠してしまっているけれど、その奥ではきっと星だって流れている。

 薊原は、最後の一人になるまでそこにいた。

 電気を点け直すことすらしなかった部屋。誰もいなくなった広い多目的室。扉を開ける。扉を閉める。その直前に、少しだけ止まる。

 もしかしたら、と思った。

 自分は大人になってから、こんな夜のことばかり思い出すのかもしれない。


 扉を静かに閉じる。

 眠りに就いた友人たちを、起こしてしまわないように。


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