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雨の夜 ⑥


 二々ヶ浜中学の渡り廊下は、妙に長い。

 太いわけではないし、むしろ庇のところどころなんか穴が開いているくらいだからぼろっちいものだが、妙に距離がある。しばらくの間、校舎から出て外気に身を晒すことになる。さむ、と後ろで洪が言う。実際寒い。完全に冬の夜で、とても夏とは思えない。風に乗って頬に雨の飛沫が当たるが、長い間このあたりにとどまっていたらあっという間に濡れ鼠になってしまう気がする。

 角を折れて、鉄扉が閉まっている。

 へえ、と薊原は思う。体育館が閉まっている状態なんて初めて見た。式谷が後ろから前に出てくる。ぐっ、と手のひらで押す。

 開く。

 鍵は、やはり開いていた。

 クッションの飛び出したボロボロのベンチに、草が生え放題で温室みたいになったガラス張りの中庭。何年前か何十年前か、置き去られたボロボロのバスケットシューズが片隅に並ぶ湿気た下駄箱。エントランスの向こう。破れたバレーのネットだとかそんなのが打ち棄てられた先に、今度は木製の扉がある。

 開く。


 だむ、だむ、だむ、とバスケットボールが跳ねていた。


「――、」

 思わず本気のビビりが薊原を襲った。おいマジかよ。懐中電灯を手に途方に暮れる。明るい体育館で、人もいないのにバスケットボールが跳ねている。千賀上が七年前に作った怪談がそのまま頭の中でリフレインする。このあいだ体育館の鍵を開けたらちょうどバスケットゴールの下でボールがバウンドしていた。もしかして、と妙な考えが頭を掠める。

 あいつは本当に霊感があって、このことを予言していたんじゃないか?

「――お。やっぱり佐々山先生いそうだね。当ったりー」

 そんな考えを、式谷のへらへらした声が一瞬で掻き消した。

 は、と思わず口にしそうになる。が、すぐにその意図するところがわかった。

 体育館が、明るいのだ。

 というか、と考え直した。何も変な話じゃない。ここに来るまでの鍵は全て開いていたのだから、千賀上が昔に作った怪談とは全然状況が違う。あの話の不気味なところは「人がいないはず」の状況でバスケットボールが動いていたことであって、今こうして目の前にある光景は全然種類が違う。

 だって、人がいるのだから。

 いるよな?

「ちょ、ちょい待て」

 歩き出そうとする式谷の腕を掴んで引く。お、と大きく式谷の身体が傾ぐ。同じことに気付いたのだろうか、すかさず洪が、

「変じゃないですか?」

「何が?」

「いや、だって、」

「ボールが跳ねてんのに周りに人がいねーだろ。なんだよあれ」

 ですよね、と洪が合わせてくる。こことここは危機感と恐怖を共有できている。が、式谷は「ああ」と全く緊張感なく手首を回すとこっちの手を逃れ、軽い足取りでそのボールに向かっていく。バウンドしているのを音もなく空中で捕まえる。やっぱり、と言う。

「濡れてる」

「はあ?」

「雨漏り」

 上、と言うから上を見た。

 よくよく目を凝らさなければ、わからなかったと思う。

 体育館のでかい照明。その裏側からほんの一筋、ぽとん、ぽとん、と何かが垂れている。ように見える。言われなければわからないし、言われたらそのせいでそう思い込んでいるようにも感じる程度のささやかさ。けれど、その正体を見極めようとじっと見続けて七秒、証拠になるものが天井の梁から落ちてくる。

 ぴたん。

 確かに、雨漏りらしかった。

「天井に引っ掛かってたボールが雨で滑って落ちてきたんでしょ」

「――そんなことあります?」

 洪の当然の疑問に、「あるんだろうねえ」なんて式谷は他人事みたいに言って、

「少なくともこのボールはびしょびしょだし……手、洗ってきていい?」

 これ汚そう、と式谷は言う。ああ、とか、おお、とか薊原は返す。体育館の出入り口は二箇所あって、式谷はこっちじゃない方からボールを抱えて出ていく。

 沈黙。

 体育館二階通路に面した窓には、これでもかというくらい雨粒が流れている。もはや建物まるごと洗われているような気分だ。校舎が丸ごと海の中を彷徨っているようにすら思われる。

 広大な静寂の中に身を置いたときの、自分のちっぽけさと、やるせのない静けさ。

 電気の点いた体育館は妙に明るくて、だから、薊原は言った。

「――ブレーカー、見に行くか」

「えっ、二人でですか」

「ボディガードがオレじゃ不満か? おい」

 正直、と洪が言う。正直言うなや、と思うが、実績を考えると全く正しい判断なので、どつく気も起きない。が、素人相手とはいえ一対五を制したんだから、自分だってそう捨てたもんじゃないはずだと思う。行くぞ、と薊原は堂々体育館を横切り始める。えー、と文句を口にしつつも洪はついてくる。なんだかんだ小学校からだから、結構付き合いは長い。

 ステージの下、脇のところに扉がある。まあ恐らくここだろう。扉を開ける。こんなところに侵入した記憶はほとんどないからワクワクする気持ちもあるが、こんなことでワクワクしていてどうするガキか、と思う気持ちも多分にある。人が二人すれ違うのも難しそうな狭さの、ちょっとした階段。ステージ脇で暗幕が上手く働いているのか、流石にここまでは明かりが届かない。暗い。後から洪が続いてくる。そのときにはほとんどもう上り切っている。

 放送室があって、その窓から明かりが漏れ出している。

 誰の姿もなかった。

「いませんね」

「だな。……ブレーカーってあれか?」

「です。……中入るの怖いなあ。閉じ込められそうで」

 んじゃ持っといてやるよ、と扉を開ける。押さえておく。ええ、入るの俺ですか、と言いつつ洪が放送室の中に入る。こっちの分電盤は壁に張り付いて剥き出しだった。じーっ、と洪は見つめている。そして言う。

「当たり前ですけど、ブレーカーは上がってますね。指紋を取って佐々山先生がやったかどうか調べてみますか?」

「できんのかそんなこと」

「できたらすごいですよね。できません」

 黙って薊原は扉を閉めた。

 うわあ冗談じゃないですか、と慌てて洪が放送室から出てくる。こいつ他の奴らから変な影響受けてないか、と薊原は思うけれど、来年はこいつが式谷とか花野とかと同じ役割をこなすことを考えると、このくらい力が抜けていた方がかえって良いのかもしれない。

 そして、さっきの洪の提案は、ある意味で的を射ていた。

「やっぱ、お前もそれ思うか」

「――先輩も思います?」

 ああ、と頷く。こことここは危機感を共有できているから、同じ考えが頭に浮かんでいる。

 すなわち。

 誰か佐々山以外の奴がここに来た可能性もあるのではないか、ということ。

 うわあ、と体育館の向こうから、式谷の声がした。



 階段を上ってくる音が微かに聞こえ始めた。

 よし、と仕方なく花野は覚悟を決める。何人か絽奈が起こしてきた女子――主に陸上部――なんかが周りに集っている。紬が頷く。岩崎も頷く。

 瀬尾を待つ。

 小松が二階から上がってきた。

「……お前かい」

「悪い。二階もなんかおかしい」

 一瞬気が抜けたのが、また引き締め直される。数人の男子を引き連れて小松は木刀片手に三階の、西棟と特別棟の間の物陰に立つ。さっき、と小声で囁くように語り出した。

「図書室の方で変な音がしたから、ちょうど様子見るのに準備整えてた。で、」

「瀬尾がそっち?」

「そ。頼りない方で悪いな」

 でも、と小松は言う。

 にっ、と笑って頭の上、

「こっちの方が安心だろ? 超強力だぜ、フレンドサポート」

 ウミちゃんだ。

 部屋からついてきてくれたらしい、猫の姿のウミちゃんが小松の上に乗っかっている。ありがとうね、と女子部屋から戻ってきた絽奈に言われると、こくん、と静かに頷いた。にゃあ、と鳴かないところを見ると、もしかするとあらかじめ「しばらく声を出さないように」なんて言い含められて、それをきっちり守ってくれているのかもしれない。

 確かに、ウミちゃんがいればこっちはそう危ないことにはならなそうだ。それに、音楽室からピアノの音が聞こえてきてからもそれなりに時間が経っている。

「よし。行くぞ」

「おう」

 くいくい、と指で合図して、一番先を行く。

 こらこら、と紬と小松がさらに前に立とうとするけれど、そんなに遠い距離でもない。二人に追い抜かれる前に花野は音楽室の扉の横に着く。いちいち換気のために開けたり閉めたりするのも面倒だからとほとんどの教室の扉は開けっ放し。

 覗き込む。

 少しだけ荒れていた。

「……誰もいない、かも」

 小声で囁く。端末のライトを点けて、視線と一緒に部屋の中を照り巡らせる。倒れた譜面台と椅子。壁に並べられた中から一本だけ落ちたギター。そういえば一度もあれが誰でこれが誰でなんて習った記憶のない音楽家たちの肖像画。砕けて床に散らばった、たぶん青色だったのだろうチョーク。

 大きなグランドピアノ。

 もう一度指で合図する。花野はとうとう音楽室の中に入っていく。数人がそれについてくる。紬と小松がこっちを追い越して前に立つ。重たい遮音のカーテンの向こうで雨が降っている。南側を向いた窓はうっすら青くて、うっすら黄色い。ホースで細く水でもかけたようにたらたらと、そのガラスの表面を波が滑っていく。

 グランドピアノの裏。

 誰もいなかった。

「……逃げた?」

「かも」

 答えれば、ふうん、と紬は緊張を持て余したようにバットを手の中で回した。思い出す。小学校の頃に紬が「新体操」と言い張ってバトンは金属バット、テープはガムテープ、見事なホームランで窓ガラスを割って顔面蒼白になっていた日。あの後は結局どうしたんだっけ。

「準備室は?」

 小松が言うから、思考を過去から今に戻す。

 確かに、音楽室のピアノじゃない側――つまり、自分たちが入ってきた扉から対角線に位置する場所には、音楽準備室に直通するドアがある。けれど、

「盗難対策で鍵閉めてる……と思う。洪が使った後に忘れてなければ」

 一応後ろについてきた生徒を確認してみたけれど、高良の姿はすでにない。今朝ちゃんと鍵を閉めたかなんて訊いても覚えているか微妙なところだし、荒事が得意そうでもないわけだからそっちの方が良いけれど。代わりに絽奈の姿を見つけてしまった。なんでだよ、と思う。どう考えても貧弱なくせに。

 自分もか。

「見ておこう」

 それでも先頭に立って動き出す。ていうか、と思うから「ウミちゃん、こっち来て」とお願いする。小松の頭からこっちの腕の中にジャンプしてきてくれる。危なっかしく受け止めて、抱いたまま先へ。普段のひんやりする感じは夏にはありがたいけれど、今日の寒い日には少し厳しい。でも、安心感が全然違う。

 音楽準備室の扉の前に立つ。

 ノブを握る。回す。

 開かない。

 念には念を入れて端末のライトで中を照らせば、それでも誰の姿もない。洪が几帳面に片付けてくれているから、物の多い中でもそれが確かめられた。

 宣言する。

「もういない」

 はーっ、と緊張が弛緩するのがわかった。

「ねえ、じゃあ下の階に行ったってこと?」

 心なし大きくなった声で、岩崎が言う。かも、と花野は答えた。時系列の問題で、たとえばピアノが鳴った後に二階の図書室で音が鳴ったならそういう形で移動した可能性も大いにありうる。が、

「なら私、ウミちゃんと一緒に図書室の方見てくるよ」

「いや、ウミちゃんはみんなといてもらった方がいい。下から何の音もしないってことは、向こうでも見つかってないってことだから。音を鳴らした奴がどこに行ったかわからない方が怖いから、固まって動くように――」

 しよう、と言い切れない。

 隣の理科室で、大きな音が鳴ったから。


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