雨の夜 ⑤
「ここからでもIRの光って見えるんですよね」
何を今更、ということを洪が言うから、薊原は少し歩調を緩めた。
本当に、何を今更、ということだった。IRのネオンライトは横にも上にも伸びていって貴重なエネルギー資源とやらを湯水のように使っている。夜中で、それもそれなりに距離の離れているこっちの町の方から見てもいつもぼんやり明るいし、しかもそれがアメリカのジュースみたいなケミカルな色をしているからとにかく怪しい。アメコミの悪役が毎日暴れて事件を起こしていそうで、実際はそれ未満の奴が暴れていて、しかもヒーローはいない。元々そのあたりに住んでいた奴が苦情を言ったって、「金のある奴が正しい」「俺たちの権利に文句を付けるな」「嫌なら出てけ」でおしまいで、出ていったらハゲタカみたいにその土地に群がってIR街が拡張されていく。最近建築基準法がどうとかで問題が頻発しているらしいが、ハナからそんなもの誰も期待していないから誰も気にしない。道路の陥没だってしょっちゅう起こるし、そのうちあのビルもドミノみたいにバタバタ倒れるだろう。
今日は雨の日だから、雲がスクリーンになって特に色が出ている。
はぁあああ、と深い溜息が出た。
「あーあ。薊原が嫌になっちゃった」
「下がるわ……」
「逆にこの状況で上がっても変じゃないですか?」
「薊原は上昇志向強いから」
「どんどん上げてくぞお前ら」
あはは、と洪が笑う。
その声が、しん、と一階廊下の奥に吸い込まれて消えていく。
「――怖くないですか」
「下がるな」
「不退転の覚悟?」
昇降口を通り過ぎると、急に背中が不安になった。あの広い広い玄関口の鍵が一つくらい開いていて、誰かが背後からそっと忍び寄ってきているのではないかという危惧。よりにもよって懐中電灯を持っているせいで先頭を歩いてしまっているから、二人にバレないようにこっそり後ろを振り向くなんてこともできない。とにかく前を向く。
教室プレートが目に入る。
――家庭科室の冷蔵庫にはご家庭で出た死体の肉が調理実習のために保管されていて、
「うおっ」
「うわ、」
がらり、と恐ろしいことに式谷がその扉を開けた。
おい、と思わず薊原は式谷の首根っこを掴みにかかる。
「お前、さてはオレらをビビらせに来てんな?」
「やっちまいますか、先輩」
違う違う、と式谷は笑う。
「もしかしてここに先生いないかなと思って。たとえばほら、分電盤開けてブレーカー入れ直したのに復旧しなかったとかだったら、最初に冷蔵庫確認しにくるでしょ。食べ物がダメになっちゃうかもしれないし」
「ああ……」
「騙されるんじゃねーぞ、洪。こいつはこんなこと言っておいてオレらがビビるのを裏でせせら笑ってやがるんだ」
「くくく……」
「ほら見ろ、表でも」
「裏表のない人だなあ」
一応、式谷の言うことだから中にも懐中電灯の明かりを向けておく。誰もいない。いても怖いが。口元が血でべったべたで謎の肉を両手に持っている全裸の男とか、そんなのは。
扉を閉じる。
人気のない廊下。雨の音がする。また強まってきた。屋根が抜けるのではないかというくらいに、外の庇を叩く音。雨樋から水のとぽとぽと漏れ出す音。
美術室を通り過ぎて、東棟に入った。流し台とトイレの前を横切る。トイレの花子さんなんて言わなきゃよかったと思う。ときどき考える。学校は換気のために昼間は窓やら扉やらを一部開けている。夜間の施錠をする前にほとんど全員で校内を隈なく見回ることにはなっているけれど、そのときに紛れ込んでいたら。息を潜めていたら。誰も彼もが寝ているうちにナイフや銃を持った奴が枕元に忍び寄ってきて自分のことをじっと見下ろしていたら。視線を右から左に逸らす。何年か前の卒業生が残していった非常にデザイン心溢れる万年カレンダーが目に入る。テーマはmemento mori。
死を想え。
余計なお世話だよ。
右手に情報室。進路相談室。奥の突き当たりが技術室で、
「――ん?」
「なんですか今度は」
「いや、なんか、」
聞こえねーか、と薊原は言った。
技術室の奥の方。雨の音に、何かが混ざっているような気がする。
なんですか、と洪が言う。しっ、と薊原は合図する。立ち止まる。耳を澄ます。
何か、確かに、
「あ、」
洪が気付いた。
「ウミちゃんだ」
廊下の曲がり角から、猫が姿を現した。
なんだ、と薊原は肩から力を抜く。ウミか。何も大したことはなかった。夜の暗がりの中でほとんど身体は闇に溶けている。かろうじてIRから届く明かりがその身体を不気味に染めている。が、正体がわかれば大したことはない。
「どしたお前。寝れねーのか」
珍しい、と思うから声をかける。
大体ウミは夕食が終わる頃にはうとうとし始めて、多目的室の閉室時間の少し前にはコテンと横になって動かなくなる。そして日が昇るとすぐにうろちょろし始める。と言って、考えられないことでもないのだろうなと薊原は思っている。式谷と千賀上の二人は夜の浜辺で出会ったというわけだから、全く夜中は活動できないというわけでもないはずだ。
「今日は佐々山が来てっからあんまり――」
うろつくなよ、と言おうとした。
その言葉の最後まで聞かずに、ウミは駆け出した。
自分たちの方へだった。つまり、渡り廊下の方ではなくて特別棟の側。寝室に使われているのは特別棟からさらに進んで東棟の側だから、それで間違ってはいない。けれど、
「――なんだあいつ。無視かよ」
自分たちの足元を抜けていくとき、ウミは一言も喋らなかった。
何となくその背を見送る。すぐに階段の横を抜けて特別棟に移って見えなくなる。洪は「珍しく雨だし落ち着かないんですかね」と言う。確かに、と記憶を探る。今年は全然雨が降っていないからそういうものなのかもしれない。式谷がさらに言う。
「今の、ウミちゃんだった?」
おい、と流石に薊原は言った。
「今日お前すげーな。性格が。悪すぎて」
「え、いや。今のは普通に……」
「悪すぎますよ。いつもの優しい先輩に戻って、」
くださいよ、と言ってから、重大なことに気付いたというようにハッと洪は息を呑んで、
「――悪霊!?」
違う違う、と式谷は笑った。
「わかった。ごめん、僕が悪かったよ。憑りつかれてもないし、性格もこれから頑張って良くします」
なんだか急に大人な態度を取られたから、かえってそれが腹立たしく、このやろ、と薊原は触れるくらいのキックを式谷の尻に当てる。怒りすぎ怒りすぎ、と式谷は笑って先を行く。突き当りを左に曲がって、左手の倉庫を通り過ぎて、そうしたらすぐに渡り廊下に続くアルミの扉。
鍵は、開いていた。
□
とんとん、といきなり肩を叩かれたから、流石に花野もちょっと驚いた。
けれど何のことはない。すぐ傍にいたのは二年の萩尾だった。小松とか角見とか新貝とか、あるいはそういうのが意外と好きだったらしい羽生とか竹村とかが中心になってウミとその友達に関する妄想を膨らませて激論を戦わせている中、そっと萩尾は耳打ちしてくる。
「と、トイレ、ついてきてもらってもいいですか……?」
いいよ、と腰を上げた。
なぜか絽奈もそれに続いて立ち上がる。なぜか萩尾は先を歩かないので花野が一番先頭を歩く。カルガモの行進みたいでこいつら結構可愛いなと思う。多目的室の扉を開ける。閉める。
すみませぇん、と申し訳なさそうに萩尾が両手を合わせた。
「なんか話聞いてたら怖くなってきちゃって……」
「いいよ別に。普通でしょ」
「うん。私も一人でトイレに行くの怖いかも。幽霊はともかく、不審者とかいるかもしれないし……」
ひえっ、と萩尾は声を上げた。
ひえっ、って声を上げるやついるんだ、と花野は思った。
「こ、怖いこと言わないでくださいよ、ばか!」
「ば、ばか……!?」
ぽこぽこと萩尾が絽奈の肩を叩く。弱そう、と花野は思う。ばかって……と絽奈が謎のショックを受けている。弱そう、と花野は思う。何でもいいからさっさと済ませてやろうと思う。
「どうすんの、トイレは。二階、三階?」
「……いいですか、三階で。使い慣れてるので」
ん、と花野は要望に応える。何となく気持ちはわかる。学校のトイレは西棟も東棟も一階も二階も三階も別に間取りは同じなのだけれど、自分もわざわざ一階東棟のトイレなんかを使うかと言われると、全然使わない。給食当番のときにトイレに行きたくなったら西棟三階までわざわざ上る。使い慣れているところの方が安心感があるから。
雨が降り続けているし、寒い。
階段を上り切ったら、強そうなのが二人いた。
「お、」
「あ、」
花野ちゃんだ、と言って片方は駆け寄ってくる。よ、と言ってもう片方は壁に寄りかかって腕組みしたままこっちに向かってピースサイン。岩崎と紬。珍しい組み合わせだな、と花野は思う。
「晶、もう寝んの?」
「いや、トイレの付き添い。行ってきな」
「あ、ありがとうございます……」
「そっちは?」
「同じ。トイレの付き添い」
「ねえ、私も行ってきていい?」
「いってら」
「任せな、絽奈。ここであたしがお前を守るからよ。さながら武蔵坊弁慶のように……」
「亡霊ってこと?」
その発想はなかったな、という感じの発言を残して絽奈が萩尾とトイレに消えていく。ついでに岩崎もそれに続く。中にいるだろう女子に向かって「他の子が来ただけだから大丈夫だよー」と声をかける。気が利く、と花野は思う。戻ってきた岩崎は「今のうちに飲んどこ」と言って流し台の蛇口を上に向けてずうどどどどどごくごくごくごく。こっちの音の方がビビるだろ気を利かせろよと思う。
ぷはっ、とスポーツドリンクのCMみたいに清々しく岩崎は口を拳で拭って、廊下の方に遠く視線を遣った。
「雨まだ降ってるねー。明日は朝練できるかな」
「無理だろ」
「無理だぞ、岩崎」
「涼しければ体育館とか使ってラダーとサーキットやれない? 無理?」
「ラダーとサーキットって何」
「ラダーはあれでしょ。あの床に置く梯子みたいなやつ。サーキットは……回路」
「ロボ岩崎?」
「ウィーンガシャ。発進シマス」
「速そ~」
バタン、と扉が開いて閉じる音がする。
憔悴、という感じで肩を落として出てきたのは高良だった。
「すみません、お待たせしました……」
「おう――どした、たからん。疲れ切ってっけど」
「電気点かなくて……」
マジか、と紬が言う。
「そりゃ怖いわ。中に人いないか見たときに確かめとけば――てか、岩崎は気付けよ。さっき入ってっただろ」
「節電してて偉いなって思っちゃった」
「もっと褒めて、先輩……」
「偉すぎる。地球の鑑」
「私地球と同じ種類の存在なんですか?」
「え、停電してんの? 電球切れただけ?」
いや停電、と花野は言う。へー、すげー雨だもんな、と紬は、
「んじゃこれからブレーカー上げに行く感じ? 体育館だっけ。ついてこっか。頼りになるぜ、あたしはよ」
「いや式谷がもう行った。あとブレーカーは体育館じゃなく職員室」
「そだっけ」
「そう。もし誰もわかる人いないときに落ちたら退勤簿見て適当にやっといて。書いてあるから」
「退勤簿ってあれだよね? 花野ちゃんが前に持ってたあの、戸締り用の鍵とかついてるやつ」
そう、と花野は頷く。パチパチと紬は近くにあった電灯のスイッチを点けたり消したり、天井を見て、
「ほんとだ点かねー。まだかなまだかな。式谷まだかな~」
「いや多分しばらく点かない。紬とおんなじで佐々山がブレーカーの場所勘違いして鍵持ったまま体育館まで行ってるっぽいから。捜索中」
「おっ、いいね~。迷子の佐々やん」
「何が?」
トイレの扉がまた開いたから、その答えはない。
息も絶え絶えの二人が肩を揃えて、よろよろと這い出してくる。
「お、恐ろしい場所だった……」
「怖い……」
流石の元霊感少女も真っ暗闇のトイレは普通に怖かったらしい。萩尾と二人でハンカチで手を拭き拭き、こっちに合流してくる。
で、と奇妙な空白の時間があり、
「晶たちはまた多目的戻る感じ?」
「私はとりあえず式谷たちが戻ってくるまではいるつもり。紬は? 後でこっち来るとか言ってたけど」
「どうすっかなー。さっきちょっと寝たんだけどまだちょい眠いし……絽奈は?」
「戻るけど」
「んじゃ行こーっと」
へへへ、と言って紬が絽奈の肩に腕を載せる。絽奈はてれてれしている。なんだこいつら、と花野は思うけれど、間もなく自分の肩にも重みがかかってくる。隣を見る。岩崎。
「私も行っちゃおうかな。花野ちゃんも寂しがるだろうし」
「別に」
「嘘でもいいから……」
「萩尾は戻る? 高良は?」
私は、と先に高良が口を開く。
そのとき、ジャーン、と激しい音がした。
固まる。すごく近い。西棟流し台から向かって東。特別棟。生徒会室の向こう。
音楽室。
ピアノの音と、続けて何かが倒れたような音がした。
「……ピアノ弾ける人」
紬が呟けば、律儀に絽奈が手を上げる。二々ヶ浜小学校のうちの学年でピアノが弾けるのは絽奈だけで、絽奈が転校してくるまでは自分とか式谷とかが見様見真似で弾かされていた。別にそんな記憶はどうでもいい。それより、
「そういう問題じゃないだろ。今のピアノ弾けなくたって鳴らせるし、」
今いる生徒たちの中で、夜中にピアノを鳴らしそうな奴はいない。音楽室の常連は洪が率いる吹奏楽部だけれど、午後九時から午前八時までの間は音を鳴らさないように徹底している。
それに、綺麗な音というわけでもなかったのだ。
鍵盤の上に物が落ちてもあんな感じの音が出ると思う。無造作で、意図の感じられない音。逆に人がいてわざとその音を出していたとしたらかなり怖いと思う。何の容赦も躊躇いもなく、思い切り鍵盤に何かを叩きつけないとああいう音は鳴らない。
何の容赦も、躊躇いもない人間。
そんなのが校内にいたら、困る。
「……瀬尾が多目的にいるから呼んできて。ついでに何人か、力か度胸がある奴」
行って、と花野は萩尾と高良の背中を押す。何も言わずに頷いて、二人は階段を駆け下っていく。危ないからゆっくり行け、と思うけれど、もう遠ざかってしまったから声はかけられない。岩崎は声をかけるまでもない。もう女子部屋に入って、それから出てくるところ。手には金属バット。教頭お得意のさすまたは使い方が難しいからと却下され、在りし日の野球部の遺産がここに輝いている。
「絽奈、女子部屋に行って声掛けしといて。何かあってもすぐ逃げられるように」
「う、うん」
しまったな、と言ってから思う。多目的室に式谷も洪もいないから、男子部屋の方もそうやって処理してくれるかわからない。瀬尾や小松が何かを持ってくるついでに気を回してくれるといいけれど。
少しの間、増援を待つ。
息を殺していると緊張で死んでしまいそうだから、ぽん、と隣の肩を叩く。
「頼んだ。頼りになる女」
「……余計なこと言わなきゃよかったな~」
ぎゅ、と岩崎がバットのグリップを握り締めている。
貸しな、と紬が手を差し出す。