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雨の夜 ②


 降り出した雨は、結局心配したほど酷いものにはならなかったらしい。

 一時は空が壊れたのではないかと思うほど降り出したけれど、それは十分も続かなかった。グラウンドをほとんど湖のように変えてから、急に正気を取り戻したように弱まる。それでも梅雨の夜の本降りくらいの雨音はずっと響き続けているけれど、とりあえず、少なくとも調理室の道具一式を机の上に上げておいたのは徒労に終わってくれそうだという予感が校内には訪れていた。

 ただ一つ、絽奈が不満を覚えるところがあるとしたら、

「絽奈。まだ着てないやつ持ってきたから、上に着ちゃいな。風邪引いちゃうよ」

「ありがと」

 寒い、ということだった。

 時刻は午後七時。自分で作ったカレーは大層美味しかった。これからは自炊にも挑戦していこうかという気持ちが湧いてくる。今回は固形のルーで作ったわけだけど、その気になればスパイスからでもできるんじゃないかと思う。簡単だった。お米も炊けた。今度からは何でも自分でできるかもしれない。そういう思いを抱えてほくほくの気持ちで多目的室に戻ってきてから大体二時間。こっちの大雨なんてそっちのけでテレビが大食い競争の番組音声を響かせている部屋の中、ふと背中にぶるり、と震えが走った。

 多目的室の片隅には、昭和くらいからずっとそこに引っ掛けられていそうな大ぶりのアナログ気温計が一つある。その真っ赤な線は、今こんな温度を指し示している。

 十三度。

 風邪引くわ、と絽奈は思う。

「なんで急にこんな寒くなったの……。氷河期……?」

「雨降ったからなのかな。ちょっとヤバいよね、これ。深夜とか気温一桁でしょ」

 湊から受け取った着替え用らしい長袖のジャージを、絽奈はさらに自分の長袖ジャージの上から着込む。苦しいかと思ったけれど、サイズが違うからか全然そんなことはなかった。ちー、と一番上までジッパーを閉める。袖が余っているから、右と左で連結させてその間に手を入れる。完全防備。

 それでもまだ肌寒い。湿気があるから微妙な不快感も残る。陸上部の二年生たちが「寒ぃ!」と言って腕立て伏せを始めて、その背中に一年生たちが乗っかろうとしている。危険行為として警告が下っている。桐峯が数人の友達を連れて、こっちに歩いてくる。

「式谷先輩、毛布とかって余ってないですか。みんなちょっと寒いって」

「あ、うん。ちょっと待っててね。今探検隊が――」

 がらり、とちょうどそのとき多目的室の扉が開いた。

 どいてどいて、と言いながら毛布の山が入ってくる。洪くんだ、と絽奈は思う。そろそろ声だけでもわかるようになった。遅れて何人か入ってきて、人も集まってくる。いつでも使えるように洗ってあるからダニとかいないし大丈夫、とりあえず一人一枚、と洪が言う。私も貰おう、と絽奈は思う。とん、と大人しい音を立てて扉が閉まるから、ちょっとだけ振り向く。

 毛布のお化けがいる。

「……晶ちゃん、寒いの?」

「うん」

 晶が頭から毛布を被って、身体にぐるぐる巻きつけている。

 あったかそうなミイラみたいだった。

「この部屋はまだあったかい。廊下と教室棟がほんとにヤバい。冬来てる」

 珍しく向こうからくっついてくる。本当に冷蔵庫の中にいたみたいな冷気がこっちまで伝わってくる。湊は湊で「先輩さみーっす!」と一年生の男子にタックルされている。意外なことにびくともしないし、「お兄さんがあっためてあげよう」と背中を手のひらで高速で擦って「燃える燃える!」なんて叫ばせている。「私、佐々山先生のところに毛布持っていきますね」と一年生の中浦さんが自分から申し出る。「私も行く」とその隣に並んだのは……考えて、絽奈は思い出す。高良さん。

 ほとんど全員が多目的室に揃っているのは、だから多分、その寒さのせいだった。

 カーペット敷きの部屋だからか、教室よりは少しだけ暖かいのだと思う。

 三々五々、毛布を手にして部屋の色んな場所に散り始めた。テレビの前に陣取るのがいたり、隅っこで筋トレを加速させているのがいたり、毛布を連結して一大領地を築いているのもいるし、猫ちゃんなのにあったかくない……なんて無茶振りしているのもいるし、思い切ってストーブ持ってきてみようかいや無理でしょ外倉庫だし燃料ないし、なんて話をしているのもいる。そそそ、と残った毛布の一枚を手にして肩から被って、どこに混じろうかな、と考えていると、

 ザザ、と音がした。

「――ラジオ?」

「おう。見つけてきた」

 小松が、小さな機械を抱えている。

 小学校の図工室にあった古い鉛筆削り器みたいなハンドルがついている。ふんふんふんふん、と小松は勢いよくそれを回している。全然関係ないけれどなぜか昔に卒業式の合唱の練習を図工室でやらされていたことを思い出す。歌詞を全然覚えていなかったから口パクして、みんなの作った粘土工作とか水彩画の展示とか彫刻刀で刻まれた机の傷とかメトロノームみたいに延々指揮をして退屈そうにしている晶の顔とか、そういうのを見ていた。

 ざざ、ざざ、と何度か音がして、

『――政府は昨日――しました。――法案――新しい生き方――選択肢――』

 へえ、と絽奈は驚いた。

 毛布と一緒に屈み込んで、

「すごい、それ。手動で発電できるの?」

「手回し発電ってやつだろ。面白いよな。なんか爺ちゃんもこういうの持ってた気がするわ」

 何やってんすか先輩、と二年生たちが寄ってくる。お前らもやる?と小松はさして惜しげもなくそれを手渡す。手渡された方はうおおおおおお、とすごい気合いでハンドルを回し始める。マッチョの人型ハムスターだ、と絽奈は思う。

「でも、あんまりよく聞こえなかったね、今の」

「AMだからじゃね?」

「AMって何?」

「…………」

 おーい、と小松が手を上げる。

 なに、と晶が湊と一緒にやってくる。

「AMって何?」

「午前。ante meridiem」

「へー」

「午後は?」

「post meridiem」

「AM・PMじゃない方のAMは?」

「は? ……ああ。なんだっけそれ。なんとかmoduluation」

 お見事、と湊が拍手する。何も言わずとも晶が端末を出して調べ始めている。教えてくれる。amplitude modulationとfreaquency modulation。freaquencyは英語の参考書で見かけた記憶がある。amplitudeはアンプっぽい。たぶん明日には忘れていると思う。

 AMの方が広く聞こえてノイズが多く、FMがその逆ということらしい。

 普段滅多にラジオなんか聴かないから知らなかった。こっちは多分、しばらく覚えていると思う。

「じゃあFMに変えたらもっとよく聴こえるのかな」

「かもな。お前らちょっと……何してんの」

 小松が呼びかけて、ちょっと戸惑う。さっきまであんなに盛り上がっていた二年生たちがカーペットの上に横たわっていたから。顔を上げないままで言う。

「新しい生き方とか選択肢とか言うからなんか良いニュースかと思ったら……安楽死導入のニュースだった……」

「悲しいニュースしかねっす、世の中には……」

 はいはい、と湊がその悲しみの頭たちを撫でてラジオに手をかけた。まだ流れている。政府はさらに規制強化を強める方針で何たらかんたら。社会保障費がどうたらこうたら。カチカチ。次は交通情報です現場の――ブレーキパッドの寿命、見逃していませんか――周りの環境に文句を言ったって何も始まらない切り開くぜ今を生きる俺の力で――まあねえ職場で何でもかんでもセクハラ呼ばわりされちゃうと僕らなんかは――というわけで先日の公開収録秘話はこんなところなんですが、なんとここで新コーナー!

「これが一番楽しそうかな?」

 アイドルっぽい若い声が聴こえてきたところでラジオを置く。ゾンビみたいに二年生たちが顔を上げる。テンションどうしたの、と湊が笑う。それから立ち上がって戻ってきて、

「あんまり天気とかやってないっぽいね」

「なー。折角持ってきたんだけどあんま意味なかったか? そんなに酷いわけじゃねーのかな。結構まだ降る気配あんだけど」

「気象庁がめちゃくちゃ予算削られてるみたいなニュース出てたし、それじゃないの」

「マジ? なんで?」

 晶が肩を竦める。

 ohとそれを真似るように小松も肩を竦める。

 停電したのはそれから二時間半後、午後九時半のことだった。



 そのとき絽奈は、まだ多目的室にいた。

 単純に、まだ眠れそうにないくらい目が冴えていたから。

 だって、学校に泊まるのなんて初めてなのだ。他のみんなからしたら日常茶飯事かもしれないけれど、いつもエアコンを切ることになっている九時にはあっさり部屋に戻れてしまう程度かもしれないけれど、そろそろ気温も十度を切って教室の布団の中で丸まりたくなってしまうかもしれないけれど、しとしと降り続ける雨音は確かに多少は眠気を誘うものかもしれないけれど、それでも絽奈はまだまだドキドキしていたし、何だったらいつでも鼻歌が飛び出してきそうな気持ちを抑え込みつつ、お正月にすらしたことがない徹夜すら視野に入れ始めていたのだ。

 だから、ぷつん、とテレビと電灯が消えて真っ暗になったとき、右の隣には湊がいて、左の隣には晶がいて、三枚の毛布を三人で共有して厚く膝の上にかけていた。

 真っ暗だった。

 段ボールをしっかり窓に貼って、ブラインドを下ろして、そこまでしたから本当にろくに外の明かりも入らない。しん、と静まり返って、みんな辺りを窺っているのか声も出さない。

 光が、チラッと目に入る。

 見たらわかった。よりにもよって自分の描いたイラストをロック画面にしている。湊。頼むからそのままはやめて、と祈っているとそれが通じたのかちゃんとライトのアプリを起動して、

「風で電線切れた?」

「いや、そんな風ないしブレーカーじゃない?」

 右から左から声がする。確かに、カレーを作っているときに聞こえていたあのひゅおおおごおおお、みたいな音は聞こえてこない。カチカチ、と誰かが懐中電灯を点けたり消したり。湊が端末の明かりを消す。

「職員室だし、佐々山先生が気付くかな」

「じゃん。退勤簿見ればやり方もわかるし」

 んじゃ待ってみよう、と湊が言うから、大勢が決まった。

 もうちょっと怖がる人もいるかと思ったけれど、そんな雰囲気でもなかった。というのも多分、ここに今残っているのは自分と同じようなテンションの人間ばかりだからなんだろうと思う。夏合宿にしては珍しく寒い日で、いつまで経っても部屋に帰らずに居座ることができるから。実際、さっきまでもそこまで大騒ぎしていたわけではない――もちろんもう西棟の方に寝に行った生徒たちもいるから――けれど、気だるいような、それがいつまでも続くような、独特な雰囲気が漂っていたように思う。

「――三上。あの話気になんねえか?」

 だから暗闇の中で聞こえた薊原のその声にも、どこか面白がるような気配があったと思う。

「え、あ。いいんですか? 怖いのダメな人とか……」

「いるか?」

 沈黙。残っているのは二十人くらいだ。たぶん、男子部屋と女子部屋、多目的室が今それぞれ同じくらいの人数になっている。

 いませーん、と小さく声が返ってくる。

 じゃあ、と三上は言う。さっきちょっと薊原先輩と話したんですけど、

「――七不思議って、小学校にありませんでした?」

「あった!」

 大きな声は、さっき返ってきた声と同じだった。

 それでようやく絽奈は、それが誰なのかに思い至る。一年生。新貝くん。

「って、小学校同じだしそりゃそうか……懐かしいなー放課後探検隊」

 あはは、と三上は笑う。

「僕あれ、門限破って親に超怒られたけど……で、他の小学校はどうなのかなとか、二々中ではとか気になって。薊原先輩は全然知らないって言うんですけど」

 もしかしたら、と三上は言う。

 明らかに、数人の意識が自分に集中しているのが絽奈にはわかった。

「うちはなかったですよね、岩崎先輩。……先輩?」

「岩崎はもう部屋行ったよ。明日も朝練するつもりらしいから」

「え。……無理じゃないですか?」

「俺もそう思う。あとで桐峯からも言ってやって。七不思議、俺のところはあったよ。って言っても、転校してくる前だからこのへんじゃない小学校の話だけど」

「いや、うちもあったぞ」

「え、そうなの?」

「あれ、洪が来る前に流行ったんだっけ……薊原先輩も知らないんですか。じゃあうちらの学年で勝手に作ったのかな」

 さらにじっ、と意識の温度が強まるのがわかる。

 そそそ、と毛布の裾を引っ張って中に身を隠そうと試みる。あんまり意味はないと絽奈は自分で思う。

 あーだこーだと話が進む。山田、あれって何年のときだったっけ。角見が覚えてないなら私も覚えてないよー、でも洪はもうちょい転校してきたの後じゃなかった? そうだっけ……なんかずっと一緒にいる気がするから変な感じだな。いーなー、そっちは転校生がいて、俺らなんか全然そんなんいなかったし、な? 確かに出てっちゃう子の方が多かったよね、どうしてるんだろ、みんな今頃。桐峯んとこは転校生いた? いた……けど、すぐ出てっちゃった。びみょいかー。あれ、えっと、まだ学校、

 三つしか、と三上が言った。

 揃いも揃って、全員で息を潜めた。

「え、なになになになに怖い怖い怖い怖い」

 新貝が言った。

「なんで急にみんな黙ってんすか? あれ? 式ちゃん先輩のとこそうっすよね? 二々小っすよね?」

「うん。そうなんだけど……」

「あ、じゃあ花野先輩もそうですよね。……な、何かあったんですか?」

「もしかして人死んでますか」

「角見、お前な……」

 誰が言うのか、という話なんだと思う。

 一応、昔に決着した話ではあるのだ。あの後もなんだかんだ自分は小学校の頃は平日五日のうちの二日三日くらいはちゃんと教室に通っていたし、別にそんなに嫌な思い出でもない。後でものすごい失敗をする前に、ちゃんと関係を修復できる相手とそういうイベントを済ませられたことはむしろすごく運の良いことだったとすら思う。

 でも、思い返せばあのとき、自分がしばらく学校に来なくなったことで生まれたであろう教室の空気に思いを馳せることなんかもできるわけで。

 みんなきっとそれで話題に出すのが気まずいとか、一応気を配っておいた方がいいのかなとか、そういうことを思う気持ちもあるのだろうから。

 ここは、と絽奈は思った。

 自分が、と。

「百不思議くらいあったよね、うち」

 でも結局、湊が言った。

「百……?」

「そう。一人凄腕の作家がいて……」

 それだけ言えば、当然誰がやったのかなんて透けてしまうから。

 仕方なく、自分で手を上げて言うことにする。


 私がやりました。



 そのころ二々ヶ浜中学校の一階東棟。

 体育館へと続く渡り廊下の手前には、十年前にはほとんど生徒の手によっては開けられず、しかし特にここ最近は生徒の出入りが激しい部屋がある。教室プレートの表示も何もない、鉄扉に閉ざされた部屋。単に『倉庫』と生徒たちから呼ばれるそこは、一番近いところではつい三時間ほど前、その中にある毛布や防災キットを求めてその扉を開かれた。

 今は、しっかりと施錠されている。

 奥には不思議なくらいに細くて、全開にしてもよっぽど小柄な子どもが一人通れるか通れないかという磨りガラスの窓がある。北に向いた窓だから、停電の夜でも明るい。黄緑と紫のIRの明かりが、怪しい化学実験の光のように窓の向こうから差し込んでいる。

 その黄緑色の端に、ぽつんと一つ、取り残されているものがある。

 ラジオだ。

 三時間前のことをその部屋が思い出すならば、小松の姿が映ったことだろう。二つのラジオ。片や手回し機能付きで、もう片やソーラーパネル付き。この天候と時間帯を踏まえればどちらを選ぶかは明白だ。小松は手回し機能付きのものを手に取った。もう片方は手放した。だから今はスチールラックの上、それは寂しく、少し曲がった形で放置されている。生徒はみな二階や三階の特別棟と西棟に集まっている。だから、その場所には誰もいない。

 けれど、もしもそこに誰かがいたならば。

 雨音に紛れて、こんな音を聞いただろう。



ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


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